奥様はとても献身的

埴輪

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≪現在②≫

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 待ちに待った週末。
 約束の時間に来た文香を優は笑顔を浮かべて出迎えた。

「いらっしゃい。待ってたよ」
「……お邪魔します」

 優の人の好さがにじみ出るような爽やかな笑顔に文香は目を丸く見開き、戸惑いを浮かべながらぎこちなく挨拶する。

「ほら、早く上がって」

 キッチンから漂う匂いに気づき、鼻を動かす文香に優は笑った。

「シチュー作ったんだ。パンは買ったやつだけど。いつも文香にばっかり作ってもらうの悪いから…… 今日はちょっと驚かそうと思って」

 優の言った通り、テーブルの上には皿に盛られたシチューと食欲をそそるガーリックトーストが中央に置かれている。
 脇を添える小鉢は簡単なサラダで、何故か文香の方はやたらと赤が目立つ。

「文香は昔からトマトが好きだから、特別山盛りにしたんだ」

 ちょっと、盛り過ぎたかも。
 
 そう言って悪戯っぽく笑う優に文香はなんと返せばいいのか分からなかった。

「まだ暑いから、最初はカレーにしようって思ったんだけど。でも……」

 柔らかく微笑む優に、その照れたような表情に文香は息が止まりそうになる。
 開けっ放しの窓から流れて来る風が汗ばんだ文香の頬を撫でた。

「カレーは、やっぱり文香が作るヤツが一番だから」

 結局、シチューにしたんだと語る優に、文香は何も返すことができなかった。
 
 今、この一瞬だけ。
 文香は過去に戻ってしまったような、そんな錯覚を抱いた。
 過ぎ去っていく夏の最後の悪足掻きのような、そんな性質の悪い幻影に一瞬でも囚われた自分に文香は愕然とした。 
 それだけ、目の前で文香のために椅子を引く優は、かつての優そのものだった。

 暦上ではもうすぐ秋になるが、それでもまだ日差しは強い。
 いつの間にか新調したらしいカーテンが風で揺れ、午後の日差しがテーブルを照らしていた。
 今日の優はとてもラフな格好をしている。
 今まではどこか畏まったシャツを着ていた。
 少しくたびれたTシャツが見覚えのあるものだったせいも多少あったかもしれないが、今日の優は文香の記憶の中の優そのものだった。

 優がおかしかった。
 再会してからの彼はこんな風に明るくはきはきと話さない。
 どこか文香に遠慮している、そんな緊張感が常にあった。
 なのに、今日の優は昔の優そのものだった。
 長い間ずっと優の隣りにいた文香だからこそ分かる空気感。
 優の雰囲気に違和感はなかった。
 だからこそ違和感だらけで、文香は戸惑うことしかできなかった。

 いつもよりもずっと神経を尖らせて来たからこそ、不意打ちのような優の変化は文香に強い動揺を与えたのだ。

「どうした?」

 なかなか椅子に座ろうとしない文香に優は顔を覗き込む。
 その仕草が懐かしいと思ってしまった自分を誤魔化すように文香は慌てて椅子に腰かけ、止まった。

「っ……」

 暑さが原因ではない冷や汗が浮かび、文香は腰を浮かせ、なんとも間抜けな姿勢で停止した。

「文香?」

 優がそんな文香を心配しないはずがない。
 具合でも悪いのかと問いかけて来る優に文香の目が泳ぐ。

「なんでもない…… ちょっと前に…… き、脚立から落ちて、尾てい骨をぶつけちゃって……」
「えっ、大丈夫だったのか……!? それなら、そう言ってくれれば…… 何も今日無理することなかっただろう?」
「……大したことないから」 
 
 本気で心配してくる優に文香の罪悪感がざわざわと騒ぎ立てる。
 それと同時に恥ずかしくて仕方がなかった。

 文香は今まで優に嘘をついたことがない。
 付き合っていたときも、夫婦となったときも。
 それこそ三年経った今ですら、必要なことを黙っているという負い目はあるが、それ以外で優に嘘をついたことはない。
 そんなレアな嘘が、まさかこんなときに使われるとは文香も思わなかった。
 嘘つきだと詰られてもいい。
 本当のことなど絶対言えないのだから。

(本当のことなんか、言えるわけないじゃない……)

 クッションを持って来てくれた優に感謝しながら、文香は自分のお尻がもぞもぞする感覚が恥ずかしくて堪らなかった。
 言えるはずがなかった。
 今から食事をするのなら尚更言えないだろう。

(お尻に、されたなんて……)

 死んでも言わないと文香は密かに誓った。






 優はちらちらと文香を気遣うように視線を寄越す。
 漸く安定する位置が決まったのか、大人しく座る文香の顔は少し赤かった。

(部屋が暑いのか? ……いや、違うな。照れてる? 恥ずかしがってる?)

 一体何をそんなに気にしているのか。
 薄っすら頬を染めながらシチューを口に含む文香をついつい優は凝視してしまう。
 こくんっと動く白い喉に、潤った唇から目が逸らせない。

「……どうかな、味の方は」
「うん、美味しい」

 優の問いに文香は真面目に頷く。
 久しぶりに作ったせいでだいぶ手間取ったが、文香の反応が見れただけで優は幸せだった。
 文香は美味しいものを食べるときほど集中して真顔になるタイプだ。
 大して美味しくないものを食べてもあまり表情を変えないが、そのペースでだいたい分かる。
 皿の中身がどんどん減っていくのを見て、優は心底安堵した。
 一口一口味わうように食べていく文香をずっと見ていたい。
 優が選び、買った食材。
 切って、炒めて、煮込んで、味付けして。
 優の手で作った料理が文香の口に吸い込まれ、喉を通って胃の中へ落ちていく。
 それが栄養となって文香の身体中を巡って行くのだと考えただけで、優の心臓が痛いほど騒ぎ出す。
 喜びで暴れる自分の心臓を宥めながら、優はなんとか平静を保とうとした。
 せっかくの穏やかな時間を崩したくなかった。
 この懐かしくも温かい空気を永遠と感じていたい。 

「……脚立から落ちたって言ってたけど、仕事で?」
「う、うん…… そう、職場で……」

 割と自然な空気で話出しが出来たと思ったが、文香が必死に平静を装うのを見て、優は笑顔のまま目を細めた。
 昔と同じように文香の些細な変化が分かるようになったことが嬉しかった。
 できるだけ困らせたくはなかったが、これぐらいは許して欲しい。

「へぇ…… 今、なんの仕事やってるんだ?」
「……家の近所の子供服屋さんのパートよ」
「……子供服?」

 文香の返答は優にとって意外だった。
 優の表情を見て、文香は苦笑いする。

「似合わないでしょ?」

 思わず頷きそうになり、慌てる優に文香は漸く緊張が解けたように笑った。
 控えめな、小さな笑み。
 昔と変わらない笑みに、優は誤魔化すことができなくなった。
 
「悪い…… 正直、意外すぎて」
「それは私が一番思ってる。今だって、なんだか違和感があるもの」

 笑いを含ませながら謝る優に文香は不快感を示すことなく、むしろ同意した。

「でも、思いのほか楽しいよ」

 何か思い出すように文香の視線が遠くを見る。
 柔らかな笑顔が優の胸に突き刺さった。
 仕事が楽しいなどと、優は文香の口から一度も聞いたことがなかった。
 自分の表情が強張るのが分かる。
 優の知らない文香を知ってしまったからだ。

「そっか…… よかったな」

 文香のことを知るために質問しているのに、まるで矛盾する自分の気持ちを優は持て余していた。

「……普通のパンもあるけど、出そうか?」
「え?」

 唐突な優の台詞に文香の手が止まる。

「いや、手つけてないから…… もしかして、この後会うのかなって思って」

 文香の笑顔が強張るのが分かった。
 一瞬のことだったが、優には丸わかりだ。
 赤の他人が見れば変化など一切分からない。
 自分だからこそ気づけたのだと優は思っている。

「ううん、大丈夫」

 優の目を見て、文香は平静を装って微笑む。

「パンはこれで十分よ。気を遣わせてごめんね」
「そっか。まだあるから、遠慮しないでくれ」

 にんにくとオリーブオイルがたっぷり塗られたパンを手に取る文香に優はごく自然に話を終わらせた。

は、しないんだな……)

 文香が褒めてくれたシチューに口をつけながら、優の心が静かに波打つ。
 まったく味のしない自分の手料理を優は美味しそうに舐めとった。
 ただの邪推かもしれないが、誰かと会うことを否定しなかった文香に引っかかるものがあった。

(キスするとき困るから…… なんて、言って欲しかったな)

 顔を真っ赤にして、この後のことを考えて控えたのだと。
 そう言って欲しかったと優はぼんやり思った。
 そうしたらお互い顔を真っ赤にして、そして照れたように笑えたのに。
 妄想じみた自分の考えに笑うしかない。
 昔、中華料理を食べた後に文香が顔を真っ赤にしてキスを拒んだことがある。
 初めは意味が分からず、理由をきいた後に自分のデリカシーの無さに優もまた顔を赤らめた。
 結局、最後はキスしたけど。

(今、キスしたいな)

 オリーブオイルがついた唇をこっそり舐める文香を見ながら、優はこの後のことを考えていた。
 もしかしたら今日はキスを拒まれるかもしれない。
 でも、きっとお願いすれば文香は許してくれる。

「……あのさ」
「何?」

 文香の視線が優に向けられる。
 文香に聞きたいことは山ほどあるはずなのに。
 いざ本人を目の前にすると何故こんなにも躊躇ってしまうのか。

 綺麗になった文香の皿に目を移し、結局無難なことしか言えなかった。

「おかわり、する?」
「ううん。もう十分よ」
「……そっか」

 つい誤魔化してしまう自分を内心で罵りながらも、優は結局他のことは何一つまともに聞けなかった。
 ただ、いつもよりもずっと他愛のない会話に時間をかけ、二人の笑顔はずっと自然だったと思う。
 文香がどこか嬉しそうにプチトマトを食べるのを見て、優はやはり今聞くべきではないと思いなおした。
 せっかくの幸せな時間を潰したくなかったのもある。
 それと優の勘が告げているのだ。

 まだ、時期ではないと。

(せっかくの楽しい時間だ…… 壊したくない)

 下手なことを聞いて文香がもしも帰ってしまったら。
 そんな弱弱しいことをつい考えてしまう。
 あんなにも凪いでいた心が、文香のちょっとした仕草や言動で一気に波立つのだから始末に負えない。

 できれば今日は最後まで文香の目に映る優は昔の自分であってほしかった。

「俺のトマトやるよ」
「……子供扱いしないでよ」

 珍しくも髪を下した文香を見る。
 再会した後の文香は優に会うたびに髪型を変え、控えめながら肌を見せる服装をしていた。
 今更だが、もしかしたらそれも全部優を誘うためなのかもしれないと思った。
 広めの襟から覗く白い鎖骨、さり気なく光るネックレスが優の目に眩しく映る。

「優こそもっと野菜摂らなきゃ。ちゃんと食べてる?」
「うん。ちゃんと食べてるよ」

 食事を終えたら、二人でテレビを見るのもいいだろう。
 いつもはすぐに事を済ませてしまうが、今日ぐらいは優の我儘を聞いて欲しかった。
 次の約束のとき、優は自分が何をするのか分からなかった。



* *


 いつもは文香の方から機を見て誘って来るのに、どうも今日の文香はずっとお尻を気にしてもぞもぞしている。
 そのせいでタイミングが掴めなくなっているらしい。

 だから、優の方から手を伸ばした。
 優はそれが当たり前のようにソファーに並んで座る文香の肩を抱きしめ、そっと唇にキスした。

「……さっきのパンの、味がする」

 当たり前のように二人のキスは先ほど食べたガーリックトーストの味がした。

 それが妙に生々しく、恥ずかしくて、二人して俯いてしばらく顔を見せられなかった。
 こっそり歯を磨いたのに、やっぱりにんにくの味は消えず、文香の恨めしそうな目に優は申し訳なくなった。
 実際に、パンを買うときに考えなかったわけじゃない。
 心のどこかで文香はどんな反応をするのだろうと少し意地の悪い思考が働いたのは確かだ。

「なんか、ごめん」
「ううん…… 私も、つい美味しくて二個も食べちゃったし……」

 もちろん、そんなことを文香に言うはずがない。
 妖し気な雰囲気が一気に霧散し、妙な間が空いたことがなんだか可笑しかった。
 思わず二人で吹き出し、今日はもうそういうのは無理そうだと肌で感じた。

 結局その日、優は文香とセックスしなかった。

 脚立から落ちたという文香が心配だったこともある。
 痛いのかと聞けば、痛くはないと言葉を濁す文香が気になったが、デリケートな部分を打ったのならあまり執拗に聞くことはできなかった。
 文香ならば既に病院に行ったのだろうという信頼もあった。

「確かに、まだお尻に違和感があるけど……」
 
 何度も座る位置を変える文香は少し悩んだ末に優の申し出に頷く。
 文香は目的が達成しなかったことにガッカリしていたが、無理を通そうとはしなかった。
 
「…………代わりに、フェラしても、いい?」

 縋るような目で見つめられ、優が断るはずがなかった。
 
「……文香が、それを望むなら」

 その懇願も含めて、やはり優は可笑しくなった文香のことを知らなければならないと思った。
 
(焦るな…… 明日になれば、全部分かるかもしれない) 

 文香のために自身のベルトを外しながら、優は明日のことを思った。

 明日、優は
 今の文香の現状を志穂から聞き出した後に、全てを決めようと思った。

「……これで、いいか?」
「ええ、十分よ」

 頬を染めながら優の股間に顔を近づける文香の柔らかな髪。
 唇が優のそれに触れるよりも早く、昔と変わらない黒髪が優のそれにキスをした。
 邪魔な髪をそっと耳にかける文香の仕草が優の心を悪戯に掻き回す。

「はぁ、文香……」

 小さく、本当に小さく愛しい女の名を囁きながら、優はその髪に指を絡ませた。

(好きだよ、文香。昔の文香も、今の、俺の知らないお前も…… 全部、好きだ) 

 優が文香に願うのはとても些細なものだ。
 ただ文香の願いを叶える前にいっぱい文香と話がしたかった。
 一緒に座って時間を過ごしたかった。
 それだけだったが、手酷い裏切りをされた文香には、或いは何か言えない事情で苦しんでいる文香には辛いことなのかもしれない。
 未だ、肝心の文香の目的は分からなかった。
 文香が何を思い、何を考えているのか。

 それでも、いつかはセックス目的に優に会うのではなく、優目的で優と会って欲しかった。

 それはひどく切実な願いだ。
 でも、今言うべきことではない。

 どんな事情があれ、優の陰茎をしゃぶる文香に欲情する自分が言うことではなかった。



* * *


 優に見送られ、今日はさくらが大人しくしていることに安堵しながら文香はスマホを取り出して履歴やメールの確認をした。
 さくらから連絡が来ていないのか確かめるついでに、明日の予定が変更になっていないかとチェックする。
 ショートメールが1通届いており、中身は予想通り明日の予定の確認だった。
 文香はしばらく考えた末に明日は予定通りで大丈夫だと返信した。
 
(何やってるんだろう、私……)

 律儀に返事を返す自分に呆れる。

 文香もまた明日は人と会う予定が入っていた。
 元から多忙だったその相手は、ここ最近特に忙しく随分と早い段階でスケジュールを押さえられた。
 優と再会する前からもう既に決まっていたことだ。
 もちろん文香は優の明日の予定を知らないし、優も同じように知らない。
 
 夏が終わり秋が近づくこの時期。
 三年前、文香と優が別れた季節がまたやって来る。
 三年前、二年前、そして去年。
 優と別れてからずっと、何故か毎年この時期になると電話がかかって来る。
 毎回その履歴が表示されるたびに文香は一瞬ひやっとするのだ。

 無視することもできず、だからと言って会う義務も義理もない相手。
 それでも、一年に一回だけ会う相手。
 
(帰りにタブレット買おう……)

 にんにくの匂いがもしも明日まで残ったらどうしようかと文香が密かに悩む相手。
 自分でも何故毎回素直に会いに行っているのか分からない。
 何度か抵抗したが、ついあの冷淡な口調に乗せられて行ってしまう。


 渡辺恭一。


 優と別れてから三年間。
 何故か年に一回この時期に文香に会おうとする男は今だ未知の存在だった。



 明日、優は志穂と。
 そして文香は恭一とで会うことになっている。
 もちろん、お互いあずかり知らぬことだ。

 
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