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≪現在②≫
7 企みに気づかない
しおりを挟む夜、文香から電話がかかって来た。
『また、週末にお願いしてもいいかな……?』
最早定番化した週末のお誘いである。
「もちろんだよ。何時でも、空いてるから」
あんなことがあった後だからこそ優は少しだけ不安だった。
もう、文香が会ってくれなくなったらどうしようと思っていたからだ。
文香も似たような不安を抱えていたのか、優がいつもの通りに応えると少しだけほっとしたような気配が電話口から伝わって来た。
『よかった』
「……俺も、文香に会いたいって思ってたから」
そんな文香と会話する優の心は不思議と穏やかに凪いでいた。
文香と会話をすると嬉しくて、幸せで堪らない。
今も幸福感が優の全身を温めてくれている。
「ほら…… この間は買い物しかしなかっただろう? できれば、今度こそちゃんと飯を作って食べたいし…… 文香が嫌じゃなければ、もっと話とかしたい」
『……それは』
文香が戸惑っているのが分かる。
嘘でもいいから優にとって都合の良いことを言って欲しかった。
でも、きっとそんな思ってもいないことを言う文香は優の知る文香ではない。
「迷惑にならない範囲でいいから…… 少しずつでいい、文香の話が…… 俺の知らない文香の話が、聞きたい」
『…………』
沈黙が続く。
だが優に焦りはなかった。
ただ、早く文香に会いたい。
凪いだ心の底に溜まる泥のように重く汚らわしい何かがこれ以上溜まらないように。
「……駄目か?」
しばらくしてから漸く文香が口を開いた。
『大した話とかできないけど…… もし、それでいいなら……』
顔が見れないと分かっていながらも優は咄嗟ににやけそうになる自分の口元を抑えた。
意識しなければ一人で喜びのあまり叫びだしそうだ。
三年経っても文香は優の押しに弱いことがこんなにも嬉しいなんて。
「いいよ、文香の話なら…… なんでも聴きたい」
優の言葉に偽りはない。
今の優は文香の過去が知りたくて堪らないのだから。
どんな些細なことでもいい。
空白の三年間、文香がどこで何を、誰と何をしていたのか。
その全てが知りたくて堪らなかった。
知ればもしかしたら後悔するかもしれない。
だが、このまま何も知らず、見て見ぬふりをしてしまったら、それこそ優は永遠に文香を失ってしまう。
そんな気がした。
今の優にはもう失うものは何もない。
会社も友人も、両親も、優にとっては大事なものだ。
しかし、文香ほどではない。
文香と同じ秤に乗せることもできないほど、優は文香が大事なのだ。
また、三年前のように文香に捨てられ、別れを切り出されたらと考えるだけで怖ろしく、絶望する。
もう一度あのときの喪失感を、心臓を抉られるような痛みを味わうぐらいなら、優はやれることなら全てやってやろうと思った。
このまま指を銜えて、訳も分からず文香と会い、そしてある日突然別れを告げられたら。
文香がいつか無言で優のもとを去るかもしれないと考えるだけで心臓が止まりそうになる。
優には文香を引き留める権利などない。
だからこそ無力であり、そしていざ再び文香を失うとき、果たして優は大人しく引き下がれるのだろうか。
理性と感情はまったくの別物なのだ。
むしろ優は自分がその時になって何をするのか分からないことが一番怖ろしかった。
『大げさね……』
呆れたような声色が電話越しに優の耳に囁く。
声とは裏腹に文香がひどく戸惑っていることに優は気づいていた。
文香に夫がいると知ったあの瞬間から、優の勘は怖ろしいほどよく当たるようになった。
今も優との会話で声が微かに震えていることに優は気づいたのだ。
小さな吐息や話の区切り、語尾の些細な震えなど。
優は静かに、文香の全てに注目し、未だ真意が読めないその心の内を探ろうとしていた。
『……分かった。本当に大した話はできないけど、世間話程度なら付き合うわ』
言った後に、文香は軽く呼吸を止めた。
文香が内心で自分の発言が少し傲慢すぎたと焦っているのが目に浮かぶ。
あまりにも鮮明に目に見えないはずの文香の様子が瞼の裏に浮かび上がるものだから、優は小さく笑った。
「ありがとう、文香」
『……だから、お礼を言うのはこっちだってば。週末に、また会いましょう』
小さく返す文香の声に滲む感情を優は丁寧に汲み取って行く。
もう会話を終わりにしたがっている文香が寂しかったが、優は無理して話を長引かせようとはしなかった。
「うん、待ってるから」
通話が、終わる。
暗くなったスマホを片手に、優は普段通りに演じられる自分に驚いた。
もっと動揺するかと思っていた。
意外と器用なところもあるのだと自嘲する。
優はソファーに寝転んだ。
自分の周りに散乱するアルバム。
写真が得意ではない文香を撮るのは優の役目だった。
高校の時の文香、大学生の文香、妻となった文香。
一度、文香と離婚した直後に思い出に縋ろうとそれを捲ったときは自分が失ったものの大きさに改めて絶望し、最後まで見ることができなかった。
それ以来、ずっと大事にしまってある。
時折表紙だけをぼんやりと撫でて、気づけば一日が終わっていることもあった。
母がそんな優の様子に堪えかねてアルバムを処分しようとしたとき、優は生まれて初めて自分の親に怒鳴った。
今ならば母に悪いことをしたと思えるが、それでもそのときの蟠りは消えない。
文香と離婚し、その経緯を報告したとき、優は父に殴られた。
あんなにも激昂した父は初めてで、年老いた拳はやけに重く、必死に優を庇おうとする母に申し訳ないと頭の片隅で思ったが、それでも本音は庇って欲しくなかった。
優の不倫が原因で文香と離婚した。
それにまともに怒り、優に失望し、詰ったのは父だけだ。
あのときの優にとって、それはもしかしたら唯一の救いだったのかもしれない。
今でも母は時折優の様子を見に来るが、父とはあの日以来一度も会っていなかった。
それでいいと優は思う。
薄情で親不孝者だと自覚していたが、それでも今の優には文香以外のことが考えられなかった。
文香との思い出を辿り、そして三年前に両親と一緒に花見をしたときの写真を最後に終わったアルバムを閉じる。
墓参りに実家に帰ったとき、写真を撮ろうと言う母に文香がどこかぎこちなく対応するのを見て、優はこっそりカメラを隠した。
「撮っとけば、良かったな……」
あのとき、文香は既に優と志穂の関係を知っていた。
それを思えば当時の優の行動は正解だったのかもしれない。
自分を裏切った夫とその家族との写真を今更欲しがる者はいないだろう。
きっとカメラを向けられても、文香の笑顔は不自然なものになっていたはずだ。
それでも、撮っておけば良かったと優は後悔している。
どんな表情でもいい。
確かに文香と一緒にいた証が欲しかった。
どこまでも自己中心的な自分の考えに、優は嗤った。
「文香……」
それでも、想いを止めることはできなかった。
*
今日の文香は朝からの出勤だ。
文香は今パートとして近所の子供用品店で働いている。
さくらがあんな状態になったときからなるべくシフトを入れないようにした。
本当ならしばらく休むか、それこそ緊急事態のために辞めようとも思ったが、さくらが反対したのだ。
職場の人間関係の面倒臭さや、一度は別件で心を挫かれたこともあったが。
文香がなんだかんだ今の仕事を楽しんでいることをさくらは知っていた。
「ふみちゃんってあの店の客を見るのが好きだよね」
さくらの言う通りだ。
文香は今働いている店の客層が好きだった。
優と離婚してから気づいたことだが、どうやら文香は世に言う「幸せな家族」の光景を見るのが好きらしい。
羨ましいとか妬ましいとか、そういう感情はまったくない。
若い夫婦が子供服や出産用品を準備する場面、孫を連れたご老人が玩具を選んでいる場面。
両親に甘える子供やそれを宥めたり叱ったり甘やかしている親子の姿を見ると、なんだか心がぽかぽかして気持ちがいいのだ。
ちゃんと幸せな家庭がこの世にあるのだとほっとする。
自分でもよく分からない感情だった。
気持ち悪いかもしれないと一時期悩んだりもした。
「誰にも迷惑かけていないし、気にすることないんじゃない?」
あっけらかんとしたさくらの口調に文香を気遣うような感情は見えない。
フォローしたいわけでもなく、本当にそう思って言ってくれていることが文香には嬉しかった。
「僕としては、ふみちゃんがネットでアットホームな家族やらサプライズの親孝行動画を漁って、号泣していたときの方が問題だと思う」
さくらはよく昔のふみちゃんは病んでたよねーと遠い目をして過去を振り返る。
文香からすればまったく意味が分からなかったが、とりあえず最近ではほとんどネットを見ていない。
そんな暇もなかったし、正直愛くるしいさくらに十分に癒されていたのでわざわざ他を見る必要がなかったと言うのもある。
幼くなったさくらに罪悪感を抱きつつも、やっぱり可愛いなー癒されるなーとうっとりしてしまう自分がいた。
そしてそんな文香に気づき、当初はぶすくれていたさくらが次第に悪ノリし始めた。
子供の特権を使い、これでもかと甘えるさくらに文香は怒るどころか更にメロメロになるという悪循環。
さくらの体調が早くよくなるように心から祈っている文香でも、もしも元に戻ったら二度とこんな可愛いさくらは見られないのかと少しだけ残念に思う気持ちもあった。
(でもやっぱり…… 元のさくらに戻って欲しい)
特に今、切実に思う。
可愛いさくらは色々と罪深すぎる。
「ふみちゃん~ 見て見て~」
舌足らずな口調でさくらはキラキラとした上目遣いで文香を見ていた。
買ってもらった玩具に無邪気に大喜びし、親に見せびらかす無垢な少年にしか見えない。
「ねっ! 可愛いでしょう? この色といい、形といい、ふみちゃんに似合うと思ってたんだっ!」
「……」
きゃっきゃっとはしゃぐ様は非常に可愛い。
何度でも言おう。
大変可愛い。
「ふみちゃん、可愛いもの好きだから…… 僕としては生々しくグロテスクで、如何にもなヤツをふみちゃんが怯えながら手に取って、必死に平静を装いながら涙目で舐めて、口に含んで、唾液で濡らしてっていうあれやそれな感じも大好きなんだけどね!」
「…………」
丸っこい頬に当て、ヴィーンとスイッチを押して振動を愉しむさくら。
コードを指に巻き付ける姿はひどく手慣れている。
「ねぇ、ふみちゃん……」
なるべく目を合わさずにさっさと化粧をし、出勤用の服に着替える文香にさくらはすり寄って来る。
仕事に行く前の母親に甘える子供のようだ。
心の平和のために文香は必死にさくらの目を見ないようにした。
目を瞑った状態でボタンを留める文香は意外と器用だった。
「ふみちゃん、お願い。お仕事行く前に、これ使ってオナニーして見せてよ」
「ぐっ……」
無視しようと思っていたのに、天使のような声でおねだりされた文香は思わず胃を抑えた。
文香は胃腸が弱い。
「ふみちゃん~」
「だ、めだから…… もう仕事、行かなきゃ……」
「えー! ふみちゃんのいけず~」
「無理だから、仕事だから。本当、お願いだから、勘弁して……!」
そこで仕事に行かなければと返す文香は相当さくらに甘かった。
逆をいえば仕事がなかったのするのだろうかと後になって冷静になった文香は自分の発言に落ち込んだ。
「あのね……」
そして何を思ったのか、つれない文香にさくらはぷっくりとした唇を近づける。
頬っぺたをハムスターのように膨らませて拗ねていたのが嘘のように上機嫌だ。
何か企んでいるなと身構える文香に、さくらはへへっと笑う。
「ねぇ、ふみちゃん…… お仕事に行く前にぃ……」
文香の耳元に息を吹きかけるように、さくらは悪戯に囁いた。
「僕の前で、イって♡」
白目を剥くかと思った。
瞬間冷凍されたように身体中強張らせたまま微動だにしない文香にさくらはこてんと首を傾げる。
「あれ? ダジャレに突っ込んでくれないの? 前、兄弟に披露したら天才だって褒められたんだけどなぁ~」
「…………お、お義兄さん」
脳内に野太い高笑いが響いた気がした。
がくっとその場に手をつく文香にさくらはドヤ顔を披露していたが、畳の上に転がるピンクの玩具に文香の手は震えた。
その場に頭から倒れなかったのは奇跡だ。
* *
なんだかんだ遅刻寸前までさくらと攻防を繰り広げてしまった。
「ちょっ、さくら、何して……!?」
「最終手段を使おうと思って」
遠隔操作できるからと下を脱がされそうになったときは久しぶりに本気で怒った。
「いくらなんでも距離がありすぎて反応しないわよ……っ!」
文香は咄嗟の自分の返しに後で死ぬほど後悔した。
そういう問題ではないと言った本人が一番よく分かっているのだ。
実際にどれぐらいの距離まで操作可能かは知らないが。
「やだぁっ、ふみちゃん、僕を捨てないで……!」
「おやつ時には帰って来るから! もう、本当に遅刻しちゃう……!」
玄関先で子供とは思えないほどの力で腰に縋り付くさくらに文香は腕時計を見て顔を真っ青にして叫んだ。
大家から後で苦情が来るかもしれない。
だが、今は緊急事態だ。
「ふみちゃんの意地悪! 僕と仕事、どっちが大事なのさっ!?」
「っ、卑怯よ、その言い方……!」
うるうるうるうると捨てられそうになっている子猫のようにみぃみぃ甘えて来るさくらは手強かった。
「本当、無理! 今は、無理だからっ、帰ってきたら、帰ってきたら、他なんでもする……!」
「……本当に?」
文香程度の力ではさくらの腕を振り解くことは無理だった。
いつもならこんなに駄々をこねないのに、一体どうしたんだろうかと考える余裕もないほど文香は焦っていた。
「なら…… してもいい?」
「するする、なんでもする……!」
正直、このときの文香は人生初めての遅刻をしてしまうかもしれないと焦りに焦って、まともにさくらの話を聞いていなかった。
「その言葉、僕忘れないから」
不穏なさくらの台詞に文香は気づかない。
漸くさくらの腕がぱっと放され、その勢いのまま文香は玄関を飛び出してしまった。
「っ、……行ってきます!」
「いってらっしゃい~ 気をつけてね~」
乱暴に開かれた扉を見つめるさくらの口角が三日月のように上がったことに文香は最後まで気づかなかったのだ。
「ふふふ…… 帰ったら楽しみだなぁ~」
その前に色々準備しないとね。
と、うきうきでさくらは部屋に戻った。
「なら…… アナル開発してもいい?」
応援ありがとうございます!
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