奥様はとても献身的

埴輪

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≪過去①≫

19 その言葉が君の胸を貫く

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 恭一は、それからソファーに深く座りなおした。

「……すまない、少し冷静さを欠いていた」

 冷えた珈琲を飲み干し、目の前の文香に一言だけ美味かったと告げた。
 感情の籠らない声にただの社交辞令だというのが分かる。
 特にどうとも思わなかった。
 文香はそれに対して何も言わず無言で頭を下げる。
 この場でおかわりはいるかと尋ねるほど神経は太くない。
 恭一の指が何かを求め微かに動くのを視界の片隅で確認しながら、以前自分が煙草は嫌いだと恭一に言ったことを思い出した。
 それを覚えて我慢しているのだろうか。
 よく、分からない人だと文香は恭一をそう評した。
 恭一があえて優を煽ろうとしていたのは分かる。
 合理性を重んじる冷徹な男という印象が初めは強かったが、よくよく考えるとその行動には矛盾があった。

 喫茶店で初めて恭一と対面したとき。
 彼は今のような無表情で文香にをした。
 妻の管理が行き届かなかったことについて、志穂の代わりに文香に頭を下げたのだ。

『君は、真実を明らかにしたいと思うか』

 そして、衝撃のあまり何も言えない文香に選択を迫った。

『君の夫は浮気をしている。それも、俺の妻と。なんの罪悪感も感じていないだろう。今、この間にも君の夫はよその女のところにいるわけだ』

 あのとき、文香はなんと答えたのか覚えていない。
 もしかしたらずっと、黙って恭一の話を聞いていたかもしれない。

『君の夫は君を裏切った。目の前のこの証拠を見れば…… 疑いようがない』

 恭一の目をまともに見ることもできず、文香は混乱していた。
 目の前に出された優と見知らぬ女とのやりとりや履歴、そしてホテルやマンションに入る写真。
 文香が無意識に一枚手に取った写真は、マンションの玄関先で優が少し屈み、小柄な女が背伸びしてそのネクタイを結んでいるものだった。
 どくんっと、自分の心臓が強く荒く波打つのが分かった。

『それでも、一抹の望みに賭けてみるか?』

 目の前が真っ暗になった文香に、恭一は一つの案を提示した。

『君の夫と俺の妻。不貞をした輩が言い逃れできないよう、追い詰める』

 後々考えれば、恭一にはまったくメリットのない話だ。
 彼は既に証拠を掴んでいるのだから。
 志穂と離婚するため?
 浮気相手である優に制裁を下すため?

 どれも違う気がした。

『……そうでもしなければ、君も気持ちが治まらないだろう』

 静かにそう言った恭一は文香の目の前で煙草の煙を燻らせていた。
 それがやけに印象に残っている。
 
 恭一の真意は分からない。
 唯一確かなのは、そのときの文香は何一つまともに考えることができず、ギリギリまで恭一の案には乗らなかったことだ。
 文香の中の理性が大ごとにしたくない、無暗に他を巻き込みたくない、証拠を見せられた以上優と二人で話し合うべきだと訴える。
 だが、理性ではどうしようもない感情が文香に吠えるのだ。

 許せない、騙された、裏切られた、どうして、なんで。

 それは無限ループのようにずっと文香の頭の中でぐるぐる回っていた。
 仕事中も、家で優を待つ間も。
 恭一との面会の後、すぐに連休に入れたのはある意味幸運だったのかもしれない。
 らしくないと、職場の後輩にまで言われたときの動揺は、今思い返すと随分と情けないものだった。
 そんな状況で優の実家に行っていいものかとも悩んだ。
 心のどこかで、息子の嫁として会うのはこれが最後かもしれないと思った。
 そう思いながら文香は二日間ずっと義理の両親の前で笑顔を張り付かせた。
 優に違和感を抱かせたものの、やはりそう感じるのは優だけだった。
 皮肉なことに、文香を傷つけ裏切った優が、やはりそのときでも一番文香のことを理解していたのだ。

 文香が恭一の案に乗ろうと思ったきっかけは些細なものだった。
 誰かに話すことは決してないだろう。
 帰りの車の中で手慰めに後部座席の荷物を整理していたときにくたびれた表紙の本を見つけた。
 いつだったか、優が夢中になって読んでいたその本を見つけたとき。
 忘れ去られたそれがまるで優との思い出そのもののように思えた。
 その後の白々しい会話を文香はよく覚えている。

 きっと、それが最後の一撃となったのだ。
 
(離婚か……)

 恭一の目的は分からない。
 彼はただ文香の気がすむように真実を詳らかにさせようと思っているだけの気もするし、何か他に目的があるような気もする。

 文香は一度も恭一に離婚したいとは言っていない。
 ただ優を煽るためか、それとも本気でそれが文香の望みだと思っているのか。

 文香自身ですら分かっていないのに。

(……どうしたいんだろう)

 自分はどうしたいのか。
 そして、優はどうしたいのか。

 恭一の発言に動揺し、別れたくないと縋り付く優を見ても今の文香の心は虚ろなままだった。
 
(……別れたくないなら、浮気なんてしなければいいのに)

 文香は優の気持ちが分からなくなっていた。
 そして、恭一に突っかかる優を見たとき、文香はもっと優のことが分からなくなった。

 同情で他の女を抱いた優に失望すら抱いた。
 文香との関係も同情だったのだろうか。
 そんな疑念すら過った。

 




 恭一の言った意味を優は必死に整理した。
 青褪めた顔で志穂を見つめ、志穂が何も言い訳せずに静かに泣いているのを見て、優は覚った。

 恭一が嘘をついていないことを。

「さびしかったの……」

 衝動的に志穂に詰め寄りたくなったが、志穂が崩れるようにその場に蹲るのを見て、気持ちのまま真実を追及することは優には出来なかった。
 今の志穂は少し触れただけで壊れてしまいそうな、そんな脆さがあったのだ。

「……恭一さんがずっと私のことを、見てくれないことが、寂しくて、苦しくて、孤独で…… 死にそうだった…… 死にたいって、思った……」

 そんなつもりではなかったと、志穂は言う。

「騙すつもりなんか、なかった…… あのときの私は、どうかしていたの…… 味方が誰一人いない環境に堪えられなくて…… 気づいたら、優君に依存していた。優しい人だって、知ってたから。一回だけ、同情でもいいから、慰めてほしかったの…… あのとき、そうしなかったら、私は、わたしはきっと、生きていけなかった……!」

 涙が次から次へと溢れて止まらない志穂。
 黒のワンピースと白い肌が合わさり、こんなときですら志穂はどこか神秘的な美しさを醸し出していた。
 いや、こんな場だからこそ、より一層志穂は弱弱しく儚く見えた。
 優の、衝動的に沸き上がった志穂への負の感情が萎えていくのが分かる。

「それで、既婚の男を誘惑したのか」

 優と違い、志穂の夫である恭一はどこまでも冷めていた。

「っ…… ごめんなさい、恭一さんは何も悪くないって分かってる。全部、私の心が弱かったせいだって…… わかってるの」

 志穂の嘆きに恭一はただ眉間に皺を寄せて聞いていた。

「私は…… 恭一さんとは違う…… 弱くて、臆病で、孤独で、何も、持っていない…… 寂しがり屋で、泣き虫で…… どうしても、ひとりじゃダメなの。わたしは、一人で生きていけるほど、強くない……」

 両手で顔を覆って泣く志穂に、恭一は苛立ったように顔を顰める。
 気を抜けば舌打ちをしてしまいそうな雰囲気に、彼が完全に志穂に無関心ではない事を示していた。

「それを、この場で言うのか…… 君は」

 恭一のその台詞は重たくリビングに響いた。

「っ、ごめん、なさいっ…… 許されないって、分かってる…… 私は、とんでもない過ちを、犯したって……」

 志穂はただ泣きながら謝った。
 真っ赤になった目や腫れた瞼が痛々しい。
 優はなんと声をかけるべきか分からなかった。

 志穂に対して怒るべきか。
 だが、結果的に志穂に手を出したのは優の意思だ。
 例え志穂が優の同情をひくために嘘をついたのだとしても、踏み越えることを選んだのは優自身なのだ。
 責める権利など優にはない。
 それに、あのときの志穂は本当に危うく、優が見捨てたら本気で消えてしまいそうだった。
 寂しいというのは志穂の本心であり、彼女は本当に一人では生きていけないのだ。

「……どうして?」

 そのとき、志穂が泣き出してからしばらくして文香がぽつりと呟いた。

「なんで……」

 志穂の嗚咽が響くリビングに、文香の冷たい声が降って来た。
 ずっと、黙っていた文香の手が拳を作り震えていた。

「なんで、貴女が泣いているの……?」 
 
 爪を掌に食い込ませながら、文香はきつく唇を噛む。
 
「ふみ、」

 文香、と優は呼ぼうとした。
 だが、そのときの文香の強い拒絶のオーラに最後まで言い切ることができなかった。

「なんで、今、この場で、あんたが泣いてるの? ねぇ、なんで?」

 不自然なほどこの場で沈黙していた文香は、今までの鬱憤が爆発したように志穂を睨みつけた。
 身を乗り出すように、テーブル向こうの志穂に顔を近づける文香を優は咄嗟に肩を掴んで抑えた。
 珈琲カップが倒れる音がした。

「っ、きぁ……!?」

 志穂が悲鳴を上げる。
 今すぐにでもテーブルを乗り越えて志穂に殴りかかりそうな文香に、優は焦った。
 優に文香を止める権利などない。
 だが、文香の剣幕に怯え、逃げる力もない志穂を見捨てることもできない。
 何よりも、ここで文香が志穂を傷つければ、文香はきっと後悔する。

「寂しかった? 苦しかった? 孤独で、弱くて、一人じゃ生きていけない……?」

 馬鹿にするように、文香は嗤った。


「なら、死ねばよかったじゃない……!」


 その台詞に、優は凍り付いた。
 文香を必死に抱き寄せようとする優は一方の志穂がどんな表情を浮かべていたのか確認できなかった。
 文香の熱く興奮した身体を宥めるのに必死だった。
 
 優は知っている。

「人の旦那に色目つかって、不倫しなきゃ生きていけないなら、そのまま死ねば良かったのよ……!」

 優は知っていた。
 文香がこんなことを言う女ではないと。
 だからこそ強い衝撃を受け、そして文香が深く傷ついていることを今、漸く実感したのだ。

 あの文香が。
 人を傷つけるような言葉は絶対に言わない文香が。
 自分が、自分達が文香にこんなことを言わせたのだ。
 
「他人の家庭を巻き込むぐらいの価値が、権利が、あんたにあると思ってんの?」

 怒りと憎悪を滲ませた顔。
 その嘲笑に、優の胸が痛んだ。

「文香、もう、もうやめてくれ……!」

 文香にこんな顔をさせているのが自分なのだと思うと、今すぐにでも死ぬ気で謝りたかった。

「……そんな恥知らずな真似ができるぐらいなら、潔く死んでよ!」

 泣く権利など自分にはない。
 だが、文香のその叫びを、誹りを受けるべきは自分だ。
 情けなくも涙が出そうだ。

「文香、ごめん、俺が、全部、俺が悪いんだ……!」

 だから、責めるなら俺を責めてくれ。

「……っ、ええ、そうだったわ」
 
 縋り付き懇願する優に文香は冷酷な眼差しを向ける。
 その奥に潜むどろどろとした渦に優は息をすることもできなかった。

「私を、裏切ったのは…… 他の女を選んだのは、優だもんね」

 文香の顔が歪む。
 今すぐにでも泣きそうな顔に優は切なく身を切り刻まれるような心地がした。
 
 それでも文香は優の前で泣かなかった。



* *


「もう、今日はこれで終わりにしよう」

 恭一の声が静かに響く。
 なんとも言えない緊張感と悲壮感に満ちた空間に淡々とした声が広がる。
 溜息を一つ、恭一は零した。

「……最初に言ったはずだ。感情的にならず、冷静にと」

 いつの間にか恭一の手にはボイスレコーダーが握られていた。
 録音を切ったらしい。
 
「後の、恥になるような言動は慎め」

 文香が爆発し、志穂に詰め寄るときに恭一は咄嗟に録音を停止した。
 初対面のときから自分の感情を制御し、決して無様に取り乱さなかった文香が今この場であんな過激なことを言うのは意外だった。
 だが、どこかできっと文香は耐えられないだろうと恭一は思っていた。
 むしろ、もっと早くこの場を治めるべきだったと自省する。

 恭一の冷静な声を聞き、まるで夢から覚めたような空気が広がる。
 興奮していた文香も、一気に気が抜けたのか、その場にずるずると膝をつく。
 慌てて文香を支えようとする優を文香は無視した。

「帰るぞ、志穂」

 恭一が涙が止まったまま座り込む志穂を強引に引っ張り起こして連れ出すまで。
 文香はずっと座り込んでいた。
 その側で悲痛な眼差しを向ける優を、文香はしばらくいない者として扱った。


 当然ながら恭一達を見送る者はいない。
 家主である優も文香もそんな余裕はなかった。
 リビングを出るとき、恭一はちらっとそんな文香達を一瞥する。

 文香の姿が恭一の目にはひどく痛々しく映っていた。

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