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≪過去①≫
10 どちらが大事なのか分からなくなった
しおりを挟む志穂を拒絶したその日の夜、優は一晩中寝付けなかった。
灯りのついていないリビングでソファーに座りながらぼんやりと一晩を明かし、後悔と自己嫌悪の嵐に襲われた。
結局、文香には何一つ話すことなく、優は何年も一気に老け込んだような猛烈な疲れを感じた。
自分を気遣う文香があまりにも場違いで、鬱陶しいとすら思った。
文香に優しくされればされるほど、何一つ優のことを疑わない真っ直ぐな視線を感じるたびに、優の中の良心がキリキリと音を立てるのだ。
この期に及んで文香を蔑ろにしようとしている自分が、理不尽な思いをぶつけそうな自分が信じられなかった。
文香に落ち度など一つもない。
夫婦の生活の基盤を安定させようとこの三年間必死に頑張って来た文香を知っている。
ついこの間まで将来について、子供について、そんなことまで話していた。
いつだったか優が意気込んで買って来た子供の命名辞典。
それをどこにやったのかすら覚えてない自分の薄情さに、急な心変わりが怖ろしくて仕方がなかった。
「本当に、休まなくて大丈夫なの?」
顔色の悪い優を文香は不安気に見つめる。
優は無理矢理笑顔を作り、必死に大丈夫だと応える。
無理して笑えば笑うほど文香の表情が強張るのが分かったが、優にはそれ以上誤魔化す余裕がなかった。
会社に逃げるように足早に立ち去る優は文香がどんな顔で自分を見送ったのか知らない。
見る勇気がなかった。
情けない自分を詰りながら、優は文香への謝罪を何度も何度も心の中で唱えた。
全てを有耶無耶にして、このまま文香に志穂とのことを黙っておくべきか。
それとも、懺悔するべきか。
どちらが文香によって良いことなのか、優には分からなかった。
そして、自分が今こうして悩んでいるのは本当に文香のことを考えてなのか。
それとも、ただの保身のためなのか。
(文香に、不審に思われたかもな……)
分からないまま、結局優は文香から逃げた。
まともに文香の顔を見て、いつものように暢気に笑えるほど優は図太くなかった。
(なら、なんで志穂とあんなことをしたんだ……?)
散々志穂と楽しくやっておきながら、今更何を言っているのだろうと、優は自分自身を嘲った。
*
志穂は会社に来ていなかった。
そのことにほっとしてしまった自分に嫌悪感が湧いた。
志穂に謝りたい気持ちは本当だ。
だが、志穂を前にすると優は冷静でいられなくなる。
あの潤んだ瞳で見つめられ、縋り付かれたら。
優は果たして昨日のように拒絶できるのだろうか。
断定できない自分の不甲斐なさに優は心底失望した。
だが、あの後志穂がどうしたのか。
今、どこで何をしているのか。
心配している自分を否定することはできなかった。
いけない事と知りつつも、志穂に惹かれる自分は確かに存在するのだ。
文香と志穂。
二人に対する罪悪感で優は可笑しくなりそうだった。
そんな、荒れ狂う優の内心を知らず。
志穂と関わるきっかけを作った上司がこっそりと優を呼び出した。
嫌でも志穂と引き合わせたときのことを思い出し、優は重たい足取りでついて行く。
向かった先は喫煙室だ。
煙草を吸わない優は部屋に沁みついた異臭に眉を顰めながら、やけにゆっくりとした動作で煙草を口に銜える上司の話を待った。
「渡辺が体調不良で今日は休みだと言っただろう? あれは、嘘だ」
「……」
「無断欠勤だよ、無断欠勤。まったく、ただでさえコネだなんだと面倒臭いのに、必要最低限の連絡もできないとはな。誤魔化す俺の身にもなれって話だ」
苛立ち紛れに煙草を吸う上司。
普段は無愛想で必要な事以外あまり話さないのに。
こんなに流暢に喋る上司はめずらしい。
「お前、渡辺と上手くやってただろう?」
「……え」
心臓が一瞬止まるかと思った。
「うちの方に移ったときは人見知りも激しくて、他とまともに喋れなかったが、お前には少しずつ打ち解けたみたいで、最近は随分と表情も明るくなって男からの評判もいいそうじゃないか」
「そう、でしょうか……?」
「あの調子なら、まぁなんとか使いものになると思ったんだがな…… このまま辞めるならそれはそれで俺としては肩の荷も下りるが…… 上がなんて言うか…… 渡辺はお前に懐いているようだし、今度からはいつも以上に気にかけてやってくれ」
「……」
「頼んだぞ、香山。お前だけが頼りなんだよ」
「……はい」
含みもまったくない上司の愚痴と懇願交りの頼みに優はなんとも微妙な顔で頷く他なかった。
正直、志穂との関係がバレてしまったのかと優は一瞬焦った。
疚しいことをしたと自覚した今、優はまるで自分が犯罪者になったような気がした。
そもそも、会社で気が緩み過ぎでいた。
二人のあの戯れが実は誰かに見られていたかもしれない、もしくはいずれ社内で誰かに見られるかもしれない。
どうして、そのリスクをもっと考えなかったのか。
それすらもスリルとして楽しめていた昨日以前の自分の能天気さに優は頭を抱えたくなった。
上司も同僚も、他の社員も。
皆、誰も優と志穂の関係を怪しまない。
その不自然さに、このときの優はまだ気づかなかった。
* *
帰りの支度をしながら、優の頭の中は上司の話していたことがぐるぐる回っていた。
志穂への責任感と文香への罪悪感が優の中で鬩ぎ合っている。
(やっぱり、このままじゃダメだ。志穂と一度ちゃんと話さないと……)
優は自分が志穂を恐れていることに気づいていた。
いきなり心変わりしたように見える優を志穂は恨んでいるかもしれない。
もしくは泣いて縋り付いて来るかもしれない。
そのとき優がどういった行動に出るか分からなかった。
いや、分かりすぎるほど分かるからこそ、優は志穂と会うことで今度こそ決定的な間違いを犯しそうで怖かったのだ。
この期に及んで、優は志穂に嫌われたくないと思っているのだ。
そして、文香とも別れたくないと。
(最低だな……)
何故、こんなにも自分の気持ちがブレてしまうのか優自身混乱していた。
今朝玄関で文香に見送られたとき、優は確かに文香に対する罪悪感と申し訳なさ、今後志穂とのことを文香に懺悔するべきか、自分の心の内でだけ処理するべきか、どちらが文香を傷つけないですむのか、穏便にできるのか、誠意を表せるのかとその事だけを考えていた。
なのに、いざ志穂の匂いが多く残る会社に着けば思考は一気に志穂のことへ傾く。
会えば理性がまた無くなってしまうと恐怖しながら、優は理屈を抜きにして志穂に会いたいと思っているのだ。
自分の本当の気持ちは一体どちらに向いているのか。
優には分からなかった。
そんな風に悩むことこそ、妻である文香への最大の裏切りであるのに。
思い悩み、暗い顔で帰路につく優は少し歩いた先で疲れた様子も見せずテンション高くお喋りしている同じ部署の社員の姿を見つけた。
今は誰とも喋りたくない優は違う道に変更しようと思ったが、風に乗って聞こえて来た彼女達の話声が耳に入ってしまった。
優は嫌な予感を抱いた。
「ねぇ、やっぱりあの噂本当だと思わない?」
「えー…… でも確かに怪しいよね。渡辺さんと部長って」
「そうそう。早退もすぐに許可出すし、今日だって突然休まれたのに、なんか妙に優しいよね。気持ち悪いぐらい」
無遠慮な会話に、優は息を呑んだ。
女性特有の含みのある厭らしい話に、優は早くその場を立ち去ろうと思った。
だが、根が張ったようにその場を動けない。
「あの二人、絶対不倫してるって」
優は始め自分自身のことを言われたのかと思った。
だが、現実は違った。
「渡辺さん、人妻らしいけどさ…… 見えないよね。いつもぽやってして、天然お嬢様って感じ。ああいうのに男弱いよね~ 傍から見るとまんまと騙されちゃって、馬鹿みたいだけど」
「部長って結婚してたよね? 子供ももう大学行ってるらしいし…… あの二人って親子ぐらい歳離れてるのにね」
「ダブル不倫なんて今時珍しくもないよ~ おえーってなるけどね」
「でもあそこまで露骨に贔屓されると本気でムカつく、やる気削がれる」
「辞めて欲しいよね。またこんな感じで勝手に休まれたらこっちが迷惑」
「皆でお願いする? 渡辺さんに土下座してお願いだから会社辞めてください~って」
「それ、いいかも!」
彼女達の嘲るような笑いが優の耳に入る。
優は今すぐにでも彼女達の誤解を解きたかった。
確かに、志穂は実力で採用されたわけではない。
だが、志穂が慣れない仕事に悪戦苦闘しながらも日々少しずつ仕事ができるようになっているのを優は知っている。
志穂とて望んで上司に贔屓されているわけではないのに。
むしろ、不当な理由で採用されたことすら彼女にとっては不本意なのだ。
(……好き勝手言いやがって)
優は悔しかった。
志穂の頑張りが正当に評価されないことが。
だが、その気持ち自体に優の志穂への贔屓が入っていることを残念ながら目が眩んだ優は気づかなかった。
優自身が志穂に好意を抱き、過剰に擁護しているからこその気持ちであることに優はまだ自覚できていなかったのだ。
(何も、知らないくせに。あの日、志穂が独りで泣いていたとき、どれだけ辛かったのか……)
悔しさは徐々に怒りへと変化する。
志穂と上司が不倫をしている。
なんて出鱈目な噂なのだろうと思った。
果たしてそれは不当な評価をされた志穂を庇うためなのか、それとも志穂が好きなのは自分だと主張したいだけなのか。
きっと、全部なのだろう。
彼女達の背中がどんどん遠ざかって行く。
甲高い志穂への嘲笑が耳から離れない。
優の中でどうしようもない怒りが沸き起こり、もう我慢ができないと彼女達に近づこうとした。
そのとき、優のスマホが振動した。
弾かれたように優は慌てて画面を確認し、息を呑んだ。
「し、ほ……」
今一番聞きたくない相手の名前。
そして、一番聞きたい相手の名前。
優がこのとき求めたのは文香ではなく、志穂だった。
怒りで冷静さを欠いた優は何も躊躇うことなく、気持ちのまま電話に出た。
志穂の声が。
彼女の気配を欲していた。
言い訳などできない。
どんなに自分を誤魔化しても、このときの優は間違いなく文香ではなく志穂を取ったのだ。
今朝の、文香への罪悪感など軽く消し飛んでしまうほど。
理屈でも理性でもなく、それはまさに本能だった。
「……もしもし? 志穂? 今、どこにいるんだ?」
自分の声が震えていることに優は気づいた。
今まで無自覚だったときとは違う。
甘酸っぱいままごとの恋はもう終わりだ。
志穂との関わりは妻への裏切りだと自覚したのに、優はまた志穂と繋がろうとしている。
無自覚の裏切りと、意思を持った裏切り。
どちらがより罪深いのかなんて優には分からなかった。
そんなつまらないことを考える余裕などない。
『……ゆ、うくん』
機械越しに聴こえる、擦れた声。
『お願い…… おねがい、助けて…… ゆう、くん……っ』
寒さに震える子猫のように、志穂は泣いていた。
それだけで、優が駆け出すには十分な理由だった。
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