奥様はとても献身的

埴輪

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≪過去①≫

8 彼女の全てが美味しそうだった

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 やがて、二つの唇は離れ、小さな水音が静かな空間に響いた。
 その音に、漸く二人は正気に戻り、慌てて身を放す。

「あ、俺……」

 優は自分が志穂にキスしたことが信じられなかった。
 何故そんな行動に出てしまったのか分からない。
 理性ではなく、本能とも違う。
 ただ、吸い寄せられるように志穂に触れた。
 禁忌感もなく、それが当然の行為に思えたのだ。

 優は戸惑い、無意識に志穂の唇の名残を辿る様に未だ熱いそこに触れる。
 謝らなければと思いながらも、それも何か違うような気がして優は志穂にどう声をかけるべきか判断に迷った。
 不思議と焦りはなかった。

「……キス、しちゃったね」

 志穂も、優と同じなのかもしれない。
 頬を染めながら、志穂は上目遣いで優を見つめる。
 水気を帯びた唇が赤く色づいているよう見える。
 志穂もまた何かを確かめるように繊細な指で自分の唇を撫でた。

「いけないこと、しちゃった」 

 そう言いながら、志穂は優にはにかんだような笑みを見せる。
 気づけば二人は顔を見合わせて吹き出していた。

「何、やってるんだろう、俺ら」
「ね? 変だよね…… 全然、嫌じゃなくて…… なんだか気づいたら自然としちゃってた…… ふふふ、今更恥ずかしくなって来たね」
 
 二人はをしてしまったと分かっていた。
 だが、今の満たされるような二人きりの空間が心地良かった。

「こんなこと、誰にも言えないよ」
「そうだな、いけない、ことだもんな」
「……じゃあ、秘密にしなきゃね。二人の大事な秘密」

 誰にも言わないでね?と悪戯っぽく笑う志穂に、優も笑った。
 生々しい空気など一片もなかった。
 少しだけ気恥ずかしいような、そんな甘酸っぱい感情だけが残っている。

「ああ。言わないよ」

 志穂とキスした、なんて。
 そんなこと言うはずがない。
 言ってはいけない。

 そこまで理解していながら、不思議と二人に後ろめたさはなかった。
 このときのキスが、あまりにも自然な行為に思えたからだ。
 キスを堪能していたとき、優も志穂も同じことを考えた。

 好き、だと。

 言葉にせずとも、二人は互いの目の奥にある仄かな感情を理解した。
 淡く、すぐに溶けてしまいそうな雪の結晶のような恋。
 掌で暖めてはいけない類の感情であることを二人は理解していた。
 それでも、今このときだけは心が確かに通じ合い、そして分かち合うことができた奇跡に酔い痴れていたかった。

「二人だけの、俺と志穂だけの秘密だ」

 優は自分の思考がまともでないことに、まだ気づいていなかった。
 砂糖と共に脳みそを煮詰められたように、今の優はではなかったからだ。






 優は幸せだった。
 昨夜の文香との諍いなどまったく気にならなかった。
 気まずい気持ちを引きずったまま今朝は素っ気なく文香と別れてしまったが、今の優は心に余裕があった。
 昨夜の挽回をするように夕食の支度をし、ついでに風呂掃除や部屋の片づけもした。

 ちょうど夕飯が出来上がった頃に文香は帰って来た。

「おかえり、文香」
 
 いそいそとエプロンを脱ぎながら優はテンション高く文香を出迎えた。

「た、ただいま……?」
「お疲れ様、今日も疲れたよな? もう夕飯できてるから」
「あ、ありがとう……?」
「何突っ立ってんだよ?」

 優を恐々と凝視する文香がおかしくてつい笑ってしまう。
 文香はどこか気まずそうにしながら、手に持っていた袋を差し出す。

「あの、ケーキ買ったんだけど……」
「お、珍しい。……あ! これ前テレビでやってたとこの? 食べてみたかったんだよな~」
「デザートにどうかな、って思って」

 随分前にテレビで紹介されていたケーキ屋の箱を前に優の機嫌は更に上がった。
 分かりやすく嬉しそうな優を見て、文香も小さく笑う。

「俺が食べてみたいって言ってたの、覚えてくれてたんだな」
「……別に、たまたま私が食べたいなって思っただけ」

 照れ隠しに着替えに行く文香を優はひどく落ち着いた気持ちで見ていた。
 文香もまた昨日のことを気にしていたのだろう。
 疲れているはずなのに、優の機嫌を宥めるためにわざわざケーキ屋まで寄って。
 それなのにそれを認めようとしないところが文香らしかった。

(相変わらず、素直じゃないな)

 優の心はふわふわと浮かれていた。
 お腹が減っているはずなのに、もう満腹になったような、それでいて何か足りないような、そんな不思議な感覚を抱きながら。
 その日の夕飯は至極穏やかだった。
 時折文香の何かもの言いたげな視線を感じたが、以前と同じ様に他愛のない話をする優に次第に慣れ来たのか、最後はぎこちなさも消え、二人は充実した時間を過ごした。
 夕飯を作ってもらった代わりに文香が今日の皿洗いの係を引き受けた。
 最近の優ならさっさと自室に籠りゲームをしてしまうのだが、今日の優は当然のように手伝いを申し出た。

「別に、無理しなくてもいいよ? 昨日は私も言い過ぎちゃったし…… 時間とか翌日に響かない程度ならゲーム趣味とか好きにしていいから」
「無理なんてしてないよ。俺がしたいだけだから」

 昨日のことを優が引きずっていると思ったのか、手伝いを拒もうとする文香に優は笑った。
 文香の方がよっぽど疲れているのに、頑固というか意地っ張りというか。

「文香とこうしてゆっくり喋るのも久しぶりだしさ」
「そうだね…… 仕事で、こんなにすれ違いが多くなるなんて思わなかった……」

 そのすれ違いの原因は互いの時間が合わなくなって来たというのもあるが、優が志穂にかまけていたというのもある。
 それについて優は少しだけ文香に申し訳ないと思った。

「……ねぇ、今度の休み、二人でどこか行かない?」
「え?」

 夫婦になってから初めてかもしれない文香からの誘いに優は純粋に驚いた。

「その、ちょうど来週の休日は重なってるし…… これからいつ休みが重なるか分からないし…… たまには、どこか出かけたいなって……」

 文香らしくなくぼそぼそとした物言や照れた顔を見て優はとても穏やかな気持ちになった。

「うん。いいな。久しぶりに遠出しよう。ドライブとか、どうかな?」

 皿を拭きながら陽気に話す優に文香はほっとしたように頷いた。
 二人の間を漂う懐かしくも温かい空気に、優は鼻歌を歌い出したいほど上機嫌だった。

(志穂の、おかげだ)

 もしも、志穂が慰めてくれなかったら、きっと今も息が詰まるような居心地の悪さを感じただろう。
 あんなに嫌な空気になるのは初めてで、優も文香も解決策が分からないのだ。
 志穂とのキスが、優のもやもやした心を解消してくれたのだ。

 だから優は文香と休日の計画を立てながら、心の中で志穂に感謝した。
 できればすぐにでも感謝のメッセージを志穂に送りたかったが、昨日の件でしばらくスマホでのやりとりは控えようと志穂と約束したのだ。
 考えれば志穂とて夫がいる身。
 あまりコソコソして志穂に迷惑をかけたくないと優は思った。


 その日の夜。
 いつものように同じベッドで眠りにつきながら、昨夜の冷たい距離感がまるで嘘のように二人は手を握り合って幸せな夢を見た。
  
 そして優は文香の手を握りしめながら、志穂の夢を見たのだ。

 夢の中の志穂にするキスは、昼間と違いひどく乱らなものだった。



* *


 文香の機嫌が直るまで、しばらくスマホでのやりとりは控えることにした。
 寂しさはあまり感じなかった。
 何故なら、二人はあの日以来頻繁に隠れてキスをするようになったからだ。
 元々二人は会社で人目を忍んで交流することが多かった。
 楽しいお喋りの合間にキスという行為が増えただけだ。
 だから、なんの気負いもなく、キスの回数は少しずつ多くなり、触れ合う時間も増え、そしてどんどん大胆になっていった。
 志穂はわざわざ優とキスするために色付きのリップを使わなくなった。
 そんなものを使わずとも志穂の唇は旬のさくらんぼうのような綺麗な色をしていると優は思った。
 二人にとって会社でするキスはひどくスリルのあるゲームで、そして言葉にできないお互いの淡い恋情を伝え合う儀式だった。
 このときの優は何一つ物事を深刻に考えていなかった。
 悪い事をしているなどという自覚もない。 

 病みつきになりそうなほど、柔らかな志穂の唇を優はこっそりと、そしてときには大胆に味わった。
 エレベーターにわざと二人きりで乗り合わせ、階につくまでの間に戯れるようにキスをしたり。
 すれ違う瞬間に、さっと手の甲を擦り合わせたり。
 デスクの引き出しにお互い好きだと言っていたコンビニのお菓子を忍ばせたり。
 ごく普通に仕事をする傍らで二人はまるで学生に戻ったように無邪気で甘酸っぱい悪戯を楽しんだ。
 密やかな恋は秘密にすればするほど盛り上がり、特別感が増す。
 そして欲望も同じく増していくのだ。

 誰が来るかも分からない廊下の先で重そうに資料を運ぶ志穂を見つけ、手伝いと称して優は全部手に取った。
 その際に少し屈み、無防備な志穂にキスをした。
 驚きながらも顔を真っ赤にする志穂はまるで初めてのキスに照れる少女のようで、優の悪戯心と庇護欲を余計に煽った。
 
 お返しに、志穂から仕掛けられたこともある。
 資料室で脚立を使い上の物を取ろうとする危なっかしい志穂を見つけて慌てて優が近づく。
 降りられなくなったのか、今にも泣きそうな志穂に手を貸そうとするとそっと肩に腕を回され、そのまま優に抱き着くように胸の中に飛び込んで来たことがある。
 急に抱き着いて来た志穂に優は驚くよりも、その軽さに衝撃を受けた。
 小柄な志穂はすっぽりと優の腕に収まり、間近で鼻腔を擽る控えめな香りに優の心臓は高鳴りっぱなしだ。
 危ないことをした志穂を叱りたいのに、驚いた優に満面の笑顔を見せて唇を寄せて来るその無邪気な愛らしさに結局優は絆されてしまった。

 優は満足していた。

 会社も私生活も。
 夫婦生活も、志穂との関係も。

 色っぽい志穂にドキドキしながらも、優はキス以上のことはしなかった。
 お互いの気持ちを明確に言葉にしたことはない。
 言葉にしてしまえば途端に生々しい現実というものに、二人のプラトニックな関係が押し潰されてしまうと分かっていたからだ。

 だから、これはあくまで親愛の証なのだと。
 決して結ばれない二人の傷の舐め合いなのだと、優は志穂と無言で語り合った。

 甘酸っぱく、そして切ない。
 決して現実を直視しないからこそ、優は志穂との時間を大事にしたいと思った。

 優は志穂を恋しく思っていたが、それと同時に文香への愛情もあった。
 あくまで妻の文香との生活が優にとってのリアルであり、例えるのなら志穂は夢の中の住人に似ている。
 実際に、優は志穂と秘密のキスをするようになってからほぼ毎日志穂の夢を見た。
 文香が隣りで寝ている中、優は夢の中で志穂を抱き締め、現実の優が一度もしたことがないような激しく淫靡なキスをし、その身体を弄った。

 翌朝まで優がその夢を引きずることはない。
 目が覚めた瞬間に夢のことを忘れてしまうからだ。
 文香への後ろめたさはなかった。
 何故なら優は文香のことを今までと変わらず愛しているからだ。
 あくまで、優はそう思っていた。
 

「最近の優は機嫌がいいね」

 その日は久しぶりに文香の手料理を食べた。
 相変わらず文香の帰宅時間は不規則で遅くなることが多い。
 そんな中で優の健康を考えて数品の献立を作ってくれるだから、本当に出来た妻だと思う。

「仕事が楽しくてさ。なんだか毎日が充実している感じがするよ」
「へぇ…… 確かに、なんか肌艶もいいし、体つきも良くなってるかも?」

 にこにこと嘘偽りなく毎日が楽しいと言う優に文香は微笑まし気に見つめる。

「今度の休日、どこ行くか決めた?」
「うーん。久しぶりに母さん達に会いに行くか? 最近電話だけだったし」

 パクパクと、最近は食欲が学生の頃並に増えて来た優は文香が驚くほどよく食べた。
 文香の腕が上がったのか、それとも幸せ真っただ中の優の舌がひどく寛容になっているのか。
 優はよく味わいもしないままその日も文香の手料理を完食した。

 食後のデザートの梨を剥く文香を見ながら、優は自室に戻った。 
 昼間に志穂がこっそりと優のポケットに忍び込ませたラッピングされた小さな袋。
 中身を見なくても優はそれが志穂手作りのお菓子だと知っている。
 お菓子作りが趣味だという志穂につい冗談半分本気半分で強請ったのはここ最近のことだ。
 優の言葉を覚えていてくれた志穂に心が温かくなる。
 リボンを解くと中には包装されたシフォンケーキとウェットティッシュが入っていた。
 甘い物は好きでも嫌いでもない文香は手作りお菓子に手を出したことがない。
 高校のときの調理実習や、バレンタインデーのときに何度か手作りお菓子を貰ったが、結婚してからは市販のものしか貰っていないかった。
 よくよく考えると母親と文香以外の手作りを食べるのは何年振りだろう。
 
 初めての志穂の手作りお菓子。
 ドキドキと期待に胸を膨らませて食べたケーキは、優の胃袋を一気に掻っ攫った。

 食い意地の張っているはずの優が食後のデザートを拒む程度には、そのお菓子は優好みであり、もっと食べたいと思わせるものだ。

「こんな美味いの、食ったことない……」

 お世辞でも妻の文香には言ったことがない台詞が自然と零れた。
 仕方がない。
 文香は料理が下手だからと優は何故か心の中で言い訳をしつつ、丁寧に味わって食べた。
 あまりにも美味しすぎて、舌に残った味が消えるのが惜しくて、優は文香が剥いた梨を食べることが出来なくなってしまったのだ。
 急にお腹がいっぱいになったと言う優を疑いもせず、文香は半分残ってしまった梨を冷蔵庫にしまった。
 明日の朝のデザートにでもするつもりなのだろう。


 
 その晩、優はまた志穂の夢を見た。
 夢の中の優は志穂の繊細な指を一本一本味わうように、丹念に舐っていた。 
 
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