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≪過去①≫
5 弱音を吐く君なんて想像もできなかった
しおりを挟む文香は出会った当初から強かった。
腕力の話ではなく、精神的に強いと優は思っている。
同い年とは思えないほど文香はしっかりしていて、場に流されることもなく、良くないことは良くないと注意できるし、それで人間関係に軋轢が生まれても構わないという正義感を持っていた。
人が好きで、人に好かれるのが好きな優は出会った当初から文香がとても自立した大人のように思えた。
そんな大人な文香も時には迷い、反省したり、落ち込んだり、人並みに悩む。
当たり前のことなのに、優は少しばかり驚いている。
しかも、ひどく些細なことで苦悩しているのだ。
「今日、例の新人の子に取引先とのやりとりについて教えていたんだ……」
珍しくも早く帰って来た文香が服も着替えずにソファーで膝を抱えている。
会社で何かあったのかと聞くと、文香は暗い声で答えた。
「うちはほら、小さな会社で、結構色んなことやらなきゃいけないから、一応ね…… 別に今すぐ一人で接待しろっとか、そういうことじゃないんだよ……?」
「うん」
「とりあえず、電話対応とかも改めて色々教えるように上司に言われて、その通りに教えてたんだけど、途中でその子が自分には無理です、この仕事できませんって言い出して」
「うん」
「……なんで?って聞いたら、『自分、コミュ障なんで。そういうの無理です』って言われた」
「……それは」
「……いや、違うの。問題なのはその発言じゃなくて、私がその直後何も考えずに素で『だから何?』って返しちゃったことが問題なの……!」
だから、何?と返す文香の姿が容易に想像できた優はなんて声をかけたらいいのか迷った。
きっと、物凄く冷たい声と表情だったのだろう。
本人にそんな気がなく、本気で疑問がぽろっと出ただけだとしても。
文香は基本的に人から誤解されるタイプだ。
「案の定、泣かれて…… 分かってたのに。自分が物凄い顔が怖いって自覚してたのにっ。なんであのとき、もっと優しく言えなかったのかな…… いや、でも今冷静に考えてもあのときどう返したら正解なのか全然分かんないッ。私の方がよっぽどコミュ障だよっ」
「それは仕方がないんじゃ……」
自己嫌悪で頭を抱える文香を優はどうどうと慰めた。
「優だったらきっと…… あの子も心許して色々と話し合うこともできたんだろうな…… 正直、こんな目つきが悪くて態度も冷たい私なんかが指導役になっちゃって、今年の新人には本当申し訳ない…… 今ほど自分のきつい性格を恨んだことはない。来世は癒し系になりたい」
「……もしかして酒飲んだ?」
「……上司に連れられて、ちょっと」
文香がアルコールに弱いことを知っている優は慌てて水を取りに行った。
こんな風に弱音を吐く文香は本当に珍しい。
なるほど、酒の力を借りてつい我慢していたものが噴出したのか。
今更酔いが回って来たのか、顔色を悪くする文香を懸命に介抱した優は今日突然上司に半ば押し付けられた訳あり新人のことを話すのを忘れた。
文香に新人対応について聞こうと思っていたが、ある意味聞かなくて良かったかもしれない。
(今の文香に『新人』とか『指導係』は禁句だな)
それでも翌朝にはいつも通りスーツをきっちり着こなし、颯爽と出社する文香を見て優は素直に感心した。
唯一不満なのは、二人の出社時間がずれてしまい、いつの間にか朝の習慣がなくなったことだろう。
*
改めて優は件の訳あり新人と対面した。
「これからよろしく」
「こちらこそ…… よろしくお願いします」
握手を求めて手を差し出すと、志穂は少し躊躇った後におずおずと手を出した。
緊張のせいか、その手はひどく冷たく、優は驚いた。
握手した手の小ささもなんだか新鮮だった。
長身の優を見上げるときに必然的に上目遣いになる志穂は優の視線に怯えるように少し目を潤ませている。
華奢な体格と鈴を転がしたような声はどこか幼い。
薄く茶色がかった髪も相まってまるで子猫のような印象を受けた。
サポートと言われても優が志穂に教えることは少ない。
実際の業務は他の年配の女性社員が教えることになっている。
上司の言うサポートや指導というのは、前の部署で他の新人や女性社員に嫌がらせを受けたとして心に傷を負った志穂へのフォローが大半だった。
もちろん、上司の高橋が志穂が社内いじめを受けたと直接優に言ったわけではない。
ただ、そういう噂というのは必然的に広まるもので、それとなく好奇心旺盛な女性陣が志穂に尋ねると困ったような顔で無言で俯いたという反応を見せたこともありほぼほぼ正解であろう。
要領の良い優は仕事も卒なくこなし、基本的に余裕があるように周囲から見られている。
年も近く、同性にトラウマを持ってしまった志穂をサポートすることに疑問を持つ者は少なかった。
もしくは上司の高橋が優に少しばかりの敵愾心を持っているため、嫌がらせ目的で志穂を押し付けた……という話がまことしやかに囁かれ、それに皆が納得したという経緯もある。
当の優は周囲の噂話を気にすることもなく、積極的に志穂の精神的なサポートをした。
どう見ても普通の新人とは違う特別扱いについては訝しむ者も多かったが、それを口に出さないだけの分別があった。
既に出来上がった女子社員のコミュニティになかなか踏み込めず、右も左も分からないとばかりに不安そうな表情でいる志穂は人形のように整った顔立ちをいつも暗くして下を向いていた。
笑えば花が咲き誇るような可憐さを見せるというのに、志穂はひどく自分に自信がないようだった。
前の部署で、一体どれだけ陰湿なことをされたのだと、優も含めた男性社員は女は怖いとばかりに同情した。
冷静に見ると少しばかりやりすぎなほど周囲からフォローされている志穂だったが、彼女のその独特な浮世離れした雰囲気や守ってやりたくなるような姿は繊細な硝子細工に似て、丁重に扱わないといけないと周囲に思わせるのだ。
だが、どうやらその魔法は異性にのみ効果的で、優の部署に移ってからしばらく経つと女性社員の間から不満が少しずつ出始めた。
志穂と今だ距離感があった優だが、特別非常識でもなければ仕事が極端にできないわけではない志穂のことを気楽に考えていた。
文香という気が強く、自立心の強い妻を持つがゆえに、他から見れば苛立つような志穂の覚束ない受け答えや怯える姿勢を見ても優はむしろ珍しく、自然と子供に対するような保護欲が芽生えた。
二人の距離が急激に縮んだのは、女子社員の間から志穂への不満が表面化し始めた頃だ。
人の悪意に鈍くとも、機微に聡い優はどことなくぴりぴりした職場の雰囲気を察知していた。
それとなく、志穂を注意深く観察していた優は、ある日給湯室に行ったきりの志穂がなかなかデスクに戻らないことに気づき、誰に気取られることもなく席を立った。
先ほど給湯室から出てきた女性陣の含むような表情を思い出したのだ。
「ふっ…… うっ……」
薄暗い廊下の先にある給湯室に近づくと、抑えたような嗚咽が聞こえた。
「渡辺さん……?」
「ぁっ……!」
電気もついていない給湯室の灯りをつける。
想像していた通り、志穂は部屋の片隅で身を小さくしてしゃがみながら泣いていた。
「か、やま…… さん?」
驚き、見開いた目からまた涙が一粒零れる。
白く円やかな頬を赤くし、睫毛を震わせる姿は心もとない灯りに照らされたせいか、ひどく幻想的に見えた。
思わず息を呑むほど、そのときの志穂は危なげな雰囲気を醸し出していた。
「どうしたんだ? 誰かに、何か言われたのか?」
「い、いえ…… なんでも、ないんです……」
近づいて来る優に怯えるように肩を震わせながら、それでも志穂は必死に濡れたハンカチで涙を拭き泣き顔を見せまいと気丈に振る舞った。
だが、その擦れた語尾に強く擦って赤くなった目元。
乱れた薄化粧のせいもあり、より痛々しく見える。
「……言いたくないなら、無理して言わなくてもいいよ。泣きたいなら、思う存分泣いていいから。誰にも言わないよ」
「っ…… 香山さん……」
少しずつだが、押しつけがましくならない程度にフォローし、会話の努力をしてきた。
優の気遣いは確かに志穂にも伝わっていたようだ。
側に片膝をつき、優しく穏やかに微笑まれた志穂は今度こそ溢れる涙を止めることができなかった。
「あ…… わ、たし、私……っ」
「落ち着いて、慌てなくいい。焦らず、ゆっくり深呼吸して」
触れてもいいものかと悩んだのは一瞬だ。
ポロポロとあどけない子供のように泣き、それでも嗚咽を耐えようとぐしゃぐしゃになったハンカチで口元を抑える。
可哀相で仕方がない。
優は意を決して慰めるためにその背を撫でた。
急な異性からの接触に怯えながらも、志穂の身体から徐々に強張りが消えていくのが分かる。
できることならそっとしておいてやりたいが、誰がいつ来るかも分からない。
泣き顔を見られたくないだろうと、優は慌ててポケットに入っていた自分のハンカチを取り出す。
誕生日に文香から貰ったものだ。
水道水で冷たく濡らしてから、志穂に差し出した。
「そのままじゃ目が腫れるよ。これ、使っていいから」
「あ、ありがと…… ございます……」
ボロボロになった自分のハンカチを見て、志穂は躊躇いながらもおずおずと手を伸ばそうとした。
そこで、突然小さく笑った。
「ふ、ふふ……」
「どうかした?」
初めてかもしれない志穂の控えめな笑い声に優は目を丸くする。
怯え、緊張していたのが嘘のように、志穂は涙を浮かべながら子供のような無邪気な笑みを浮かべて優を仰いだ。
「ごめんなさい…… あまりにも、その、かわいらしくて……」
優の持っているハンカチには小さなテディベアが片手を上げた刺繍がされてある。
おまけにハートマークまでついているのだ。
文香が優の母と選んだというプレゼントは、堅物な文香らしくないお茶目なものだった。
まさかこんな場面で役に立つとは思わず、優も釣られて笑ってしまった。
「うちの奥さんからのプレゼントなんだよ」
「そう、なんですか……? ふふふ、素敵ですね……」
ぱっちりと目が合い、もう一度二人は笑った。
外に聞こえないよう、互いに目くばせしながら潜めるように笑う。
初めて、優はまともに志穂の笑みを、彼女の素の姿を垣間見た。
泣いた反動か、少女のような無垢な笑みを浮かべる志穂はひどく愛らしかった。
二人の間の壁が溶けた瞬間である。
* *
優はその後上司に掛け合い、志穂の体調が悪いということで早退したい旨を伝えた。
このままデスクに戻ると余計に注目されてしまう。
志穂もまた頑なに泣いたことを知られたくないと拒むため、優は上司に協力を仰ぐことにしたのだ。
含みのある優の話に気づいた上司は拍子抜けするほどあっさりと早退を認めた。
それでいいのかと、実際に頼んだ立場である優が思わず内心で突っ込むほど淡泊な反応だ。
優は志穂に無理矢理泣いた理由を聞かなかった。
正義感に任せて暴くことも、原因だと思われる数人の社員を問いただすこともしなかった。
優が表立って志穂を庇えばより事態が悪化すると簡単に推測できたからだ。
唯一の不幸中の幸いだと思ったのは、この件をきっかけに一気に志穂との距離感が縮まったことだ。
素直に喜ぶべきか迷いながらも、優は警戒心剥き出しの臆病な子猫が少しずつ歩み寄って来るような、そんな微笑ましさと達成感で満たされた。
まだまだ志穂に関して問題は山積みだったが、給湯室で見た志穂の傷ついた姿と、ふいに見せた無邪気な笑みはその日一日優の思考を支配した。
帰宅し、文香手作りの夕食を久しぶりに味わいながら優は志穂のことで頭がいっぱいだった。
優は実母を始め、妻の文香ときちんと自己主張ができる女性に囲まれて来た。
だからこそ志穂が物珍しく、今更ながらあんな弱弱しい生き物がこの世にいるのかと、しかも大して年が違わないことに衝撃を受けていた。
「優? ねぇ、隠し味にソース入れてみたんだけど、美味しい?」
「ああ、うん。美味しいよ」
和食ではなく今日の夕飯はカレーだった。
ぼうっとし過ぎたと、優は慌てて頭を切り換える。
なんとなく、文香に声をかけられたとき焦ってしまったことに焦った。
どうやらその焦りに文香も気づいたらしく、何か言いたげな雰囲気を察した優は急いで違う話題を振りまいた。
「あっ、そういえば、前言ってた新人の指導は上手く行ってるのか?」
しばらくは禁止ワードにしようと思っていたこともすっかり忘れている。
「ああ、あの子ね……」
若干目を遠くさせながら、文香は理解できないとばかりに眉を顰めた。
「この間、辞めたいって言われた」
「えっ」
「……そのことで三時間ぐらいかけて話し合いした。二人で。勤労時間外に」
五日ぐらい前、やけに帰りが遅く疲れてすぐに寝てしまった文香を思い出した。
「それで……?」
「……とりあえず最低三か月やればどんな仕事でもある程度慣れるからって説得したけど、たぶん彼女は仕事じゃなくて私と合わないんだよね。合わない人と仕事するのって物凄い苦痛だって分かるから、引き留めて良かったのか今でも悩んでる。ストレスで鬱とかになるぐらいなら、まだ若いしスパっと辞めた方がいいんじゃないかとも思うし…… でも、新卒ですぐに会社辞めたら後の転職とか困るかもしれないし…… ろくなアドバイスできなかった」
思い出して鬱になっているのか、険しく顔をしかめながら文香は黙々とカレーを食べる。
文香はどんなに落ち込んでも食欲はあるタイプだ。
ちなみにあまり美味しそうに食べれないという欠点もある。
素面で長々と愚痴る文香を見ながら、優はつい志穂のことをまた考えてしまった。
新人と、指導係、会社が合わない、辞職、転職と、志穂にも当てはまりそうな内容だからだと何故か優は一人言い訳をした。
「結局、将来どうなるかなんてわからないけど、もしも自分のせいで誰かの未来が変わったらって思うと…… すごく怖い」
珍しくも優より早く食べ終わった文香は、最後に独り言のようにそう零した。
弱弱しいその声に、違うことを考えていた優は曖昧な返事をした。
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