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≪過去①≫
4 君との未来を考えるだけで世界が輝いて見えた
しおりを挟む文香の料理も以前に比べると格段に手際がよくなった。
ただ、レパートリーが増えるにつれ、優が苦手とする野菜や魚の料理が頻繁に食卓に並ぶようになり、味付けもだいぶ薄くなった。
優の健康診断の結果を見たときの文香の顔は渋かった。
友人知人の多い優は公私共に飲みに行くことが多い。
たまたま飲み会が続いたときの結果だからと本人は暢気だが、妻である文香は深刻にとらえてしまった。
思えばあのときから文香の料理は健康志向になったのだ。
気持ちは嬉しいが、少し大げさだと優はちょっぴり不満で、お昼の弁当を食べた後や会社帰りについついこっそりと油っこく、味の濃いファーストフードを買い食いしてしまう。
子供舌の優は和食中心の文香の料理が嫌いではないが、今だ慣れないでいた。
仕事で忙しい中、手間暇のかかる献立を作ってくれる文香に罪悪感を抱きつつ、つい誘惑に負けてしまうのだ。
それでもバレない内は上手く行っていた。
気づけば夫婦となってからもうすぐ三年経とうとしていた。
お互い仕事にも慣れ、生活が漸く安定してきた頃合いだ。
ここの所、文香は忙しかった。
責任感が強く、真面目な文香は今現在新入社員の指導係のようなことをしている。
小さな会社だから人手が足りないのだと嘆きながら、最近の文香は優よりも帰りが遅く、ときには夕食の用意だけしてそのまま寝てしまうこともあった。
結婚当初、仕事や家事も全て完璧にこなそうと無理に頑張っていた頃に比べて今の文香は優の前でも気が緩むようになった。
それはとても嬉しい変化であり、慌てて起きる文香や焦りながら朝食を焦がす文香は見ていて面白い。
しばらくその忙しさは続きそうで、優は快く家事や料理の当番を変わった。
あともう少しすれば優の会社で中途採用が始まる。
もしかしたら文香の方が落ち着けば今度は優が忙しくなるかもしれない。
お互い様だと、優は笑った。
*
生活も仕事も落ち着いた若夫婦。
「ねぇ、こんなこと、あんまり言いたくないんだけど…… 貴方達、子供はどうする気?」
仲の良い二人を見て、ついそんな無粋な質問が飛び出るのは仕方がないことかもしれない。
声を潜めた母の質問に優は目を丸くした。
「は? 子供?」
「しっ! 声が大きい……」
文香に聞こえたらどうするのだと怒る母に優は慌てて口を閉ざす。
台所で煮物の具合を見ているらしい文香に気遣いながら、優はテレビの音量を上げた。
「なんだよ、急に…… 子供って、俺らまだ若いんだぜ? 早すぎるよ」
「あのね…… 二人がまだ若いなんてことお母さんも知っているわよ。でも、いつかは子供を産むつもりでしょう? そういう話をちゃんと夫婦で話し合って確認したの?」
「それは……」
「こんなこと、姑の私が表立って言うと角が立つじゃない? でも、あんたはのんびりしてるし、文香さんは今お仕事も忙しいみたいで…… いいから一度ちゃんと二人で話し合いなさい。大事なことなんだから」
「……」
「いい? いざ子供が欲しいって思ってもそうぽんぽん産まれないんだから。高齢出産で苦労するのは文香さんなのよ? あんたがしっかりしなきゃ」
なかなか子供に恵まれず、父の実家から色々言われたことがある母ならではの心配を余計なお世話だと切って捨てることはできなかった。
嫌味でもなく、優の母は本気で息子夫婦を、特にその妻のことを気にかけているのだ。
だが、非常にデリケートな話であるがゆえに当の文香に直接聞けないし言えない。
代わりに能天気な自分の息子に忠告するしかないのだ。
「……母さんの気持ちは分かった。それとなく、文香とも話してみる」
「絶対に、私が何か言ってたからとか、気にしてたからとか、余計なことは言わないでよ? あくまで、それとなく、あんたが言うの。繊細な話だから、時と場合も考えて、追い詰めるようなことはしちゃ駄目よ? 分かった?」
「分かった。分かったから……」
鬼気迫る顔で念を押された優は頷くほかなかった。
(子供か……)
正直、まったく考えていなかった。
その後の実家での夕食も、帰りの車中でも心ここにあらずな優を文香は訝し気に見た。
「どうしたの? なんだか、いつも以上にぼうっとしてる」
「いや、別に……」
嘘が下手な優に呆れながらも文香はそこまで深刻に捉えなかった。
その内ボロが出るだろうと気楽に構えていたのだ。
風呂を出て、先に上がっていた優の隣りに座る。
テレビをつけながらもまったく見ていない様子に文香が何か言いかけるよりも前に優が重々しく口を開いた。
「なぁ、子供って、欲しい?」
「は?」
あれ、既視感。
と、思うよりもあまりにも唐突な話だしに文香はぽかーんとした。
「いや、一度、ちゃんと話そうと思って…… その、大事なことだし、俺らまだ若いけど、でもいつかはやっぱり、その…… あの、つまり……」
「……お義母さんに何か言われたの?」
「え……!?」
挙動不審な優に文香は逆に落ち着いた。
なんとも分かりやすい様子にこれで社会人なのかと心配しそうになる。
「ご、ごめん…… 母さんも悪気があるわけじゃなくて……」
「ううん。お義母さん達には本当にお世話になったし、私と優のことを本当に大事にしてくれてるって分かってるから…… むしろ、甘えすぎちゃってるのよね」
項垂れる文香に優は何を言えばいいのか分からなかった。
気が強い面が目立っているだけで、文香はなかなかにネガティブで一度沈むと浮き上がるのに時間がかかる。
「いや、だから、そういうことじゃなくて! 俺が言いたいのは、文香は子供が欲しいのかどうかっていう……」
「……優は? 子供、欲しいの?」
「俺は……」
「優って子供好きそうな感じがするけど…… でもそんな話一回も出なかったよね」
思わず言葉を詰まらせる優だったが、母と話した後からずっと考えていたことでもあり、なんとか応えを返すことができた。
「俺は…… 欲しい、と思ってる。漠然としてるけど、文香との子供が欲しいなって思った。今日」
「今日って……」
「……文香と二人っきりで暮らすのに慣れ過ぎて、正直子供の事まったく考えてなかった。言われて初めて、夫婦になったんだからそういう選択肢もあるんだって気づいた。このまま二人で老後を過ごすのもありだし、新しい家族をつくるのも…… どっちも文香と一緒なら幸せになれる自信があるよ、俺」
優の手がそっと文香の背中を撫でる。
風呂上りのせいではない熱っぽい背中に優は照れたようにはにかんだ。
優もまた自分の体温が急上昇しているのが分かった。
「……だからこそ、文香の意見が聞きたいんだ」
どくどくと心臓が波打ち、文香の顔がまともに見れない。
「……優は、絶対親バカになるよ」
どこか湿っぽい文香の声に優は耳をすました。
テレビはとっくに消している。
「……名前、何にする?」
「……ばか、早すぎる」
常とは違う不思議な高揚感に包まれながら優は文香をソファーに押し倒し、怒られた。
* *
子供をつくるにもタイミングというものがある。
いくらこの時期に産みたいと計画を立てても、こればかりは上手くいかない。
ローンや僅かばかりとはいえ借金もある。
共働きという点も考え、慎重にならなければならないだろう。
とは言いつつも、今まで子供のことなどちっとも考えていなかった優はニコニコと赤ちゃん命名辞典を買った。
気が早い優に怒ればいいのか恥ずかしがればいいのか、文香は判断に迷った。
「名前な~ やっぱり個性が大事だよな。でも、あんまりにも個性的すぎるとキラキラネームとかなんだか言われて将来の就職とかでも苦労するって部長が言ってた」
「部長って…… 上司に話したの!?」
「いや、それとなく…… お子さんの名づけのときどうしてましたかって世間話をちょこっと……」
「……不自然すぎるでしょ」
頭を抱える文香と違い、優は能天気そのものだった。
「男の名前はまだピンっと来るのないけど、実は女の子なら絶対にこれがいいってのがあるんだ」
うきうきと非常に楽しそうにしている優に文香は無言で続きを促す。
自信満々な様子に、実は文香も少し気になったのだ。
「女の子なら『優香』ちゃん! もう、これ以上ピッタリな名前ないよな? 文香もそう思うだろう?」
「……それって、優の優に、文香の香で、『優香』?」
「もちろん」
「…………悪くないけど、単純すぎない? それに、姉妹だったらどうするの? 双子とか」
「……そ、そのときはそのときで? り、臨機応変に行こう!」
文香に突っ込まれながらも、優の中で既に女の子は優香と決めていた。
(文香に似た真面目で強い女の子だったらいいな~)
真面目で強いが果たして女の子にとって褒め言葉になるのか微妙なところだが、会社の休憩時間中も優は同僚と会話しながら頭の片隅でひたすら子供の名前を考えていた。
(帰り、ベビー用品見に行こう。あ、その前にマタニティが先か)
だから気が早いと、この場に文香がいれば引っ叩きそうなことを考えていた優は上司である高橋に呼ばれ、漸くお気楽な思考を止めた。
「香山、ちょっと来てくれ」
「はい!」
なんだろうと首を傾げながら優は席を立った。
* * *
呼ばれた小会議室には上司の他に見慣れない女子社員が心細げに立っていた。
つい最近見たような気がするが、名前が思い出せなかった。
「こちらは渡辺志穂さん。うちの会社に中途採用された新人だ」
「あ、どうも、初めまして。香山です」
いつもは厳しく無愛想な上司が、にこやかに紹介する女性を優は興味深そうに見つめる。
「……初めまして。渡辺、志穂です」
長身の優に笑いかけられ、恥ずかしそうに頬を染めて渡辺志穂と名乗った新人は俯いた。
確か部署が違ったはずだと記憶の断片を掘り起こしながら、何故直々に上司から紹介されているのか優は訝しんだ。
だが、両手の指を絡ませて必死に震えを抑えようとする目の前の小動物のような存在に人の好い優はすぐに心配になった。
自分よりも若そうであるが、それにしても随分と人馴れしていない雰囲気が出ている。
ちらっと上司に目くばせすれば、無言で頷かれた。
ますます意味が分からない優に、上司は咳払いをする。
その音にまた細い肩を震わす新人に優はだんだんと可哀相になってきた。
「渡辺さんは前の部署とちょっと合わなくてね。うちに移ることになったから、色々サポートしてやってくれ」
「はぁ……」
思わずはっきりしない返事をしてしまうのも仕方のない話だ。
中途採用は他にもいたし、今までもいたが、そんな特別扱いは聞いたことが無い。
前の部署で何かトラブルがあったのかと思いながらも、上司からの無言の圧力に優は笑顔を張り付かせて頷くほかなかった。
「失礼しました……」
さらさらと零れる髪を片耳にかけながら、小さく微笑みを浮かべて退出する新人を優と高橋は見送った。
「どういうことですか?」
「……そのままの意味だ。とにかく、明日から彼女はうちの部署で預かる。他の奴らが何か噂したり変なことを彼女に聞いたりしないようフォローに回ってくれ」
今さっき出て行った新人に向けるときの晴れやかな笑みを消して高橋は優に念を押す。
「なんで、そこまで……」
「お前、彼女の左手に気づいたか?」
「左手?」
優は咄嗟に自分の左手を見る。
薬指に輝くシルバーが目に入った。
「指輪していただろ? 高価そうな。彼女は既婚者だ」
「へぇ。あんな若いのに」
他人事のような優の感想に高橋の眉がぴくっと動いた。
「……あまり詳しく言えないが、その旦那の実家がわが社にとっては物凄く大事な取引先で…… まぁ、ここまで言えば分かるな?」
「……そういうことですか」
「彼女も、俗にいう名家のお嬢様らしくてな…… 何がどうしてそうなるのか、俺にはまったく想像できんが、とにかく自分で働きたいという強い願望があるらしく色々あってうちの会社に来たってわけだ」
説明になっていない上司の説明に優は曖昧に頷く。
「でも、サポートするなら俺よりも他の女性陣の方が……」
「……前の部署のせいで、女性社員にはあまり近づかせないようにという上からのお達しだ」
「……はぁ」
「香山なら大丈夫だろう。お前、上の連中に可愛がられているし。女受けもいい」
「いやいや、でもやっぱり同性の方が…… 今のご時世セクハラとかそういうの敏感ですし」
「何、お前なら誰も邪推したりしないさ。愛妻家だって有名だしな」
「それ理由になって…… って、ちょ、高橋さん……!」
無情にもとっとと会議室から出て行く上司に、優はそれ以上反論することができなかった。
「……まぁ、いいか」
先ほど見たときの怯えた顔。
どこか申し訳なさそうな表情に、緊張を抑えて必死に微笑もうとする健気な様子。
色々抱えている分、重責があるのだろうと優はだんだんと気持ちが同情的になってきた。
(あんなに怯えて…… 可哀相に)
果たして優相手に心を開いてくれるのか分からない。
だが、これは仕事だ。
後輩の指導だと思えば、やりがいもある。
(まずは、目を合わせられるぐらい、信用されなきゃな)
頑張ろうと、優は気合を入れた。
これが、香山優と渡辺志穂の運命の出会いである。
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