奥様はとても献身的

埴輪

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≪現在①≫

17 溶けたアイス

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 背後で文香が戸惑っている気配がする。
 速足の優を追いかけるようについて来る文香に安心しながらも、優はあえて振り返ることも立ち止まることも速度を緩めることもしなかった。

 店の日陰から出ると一気に陽射しがきつくなり、優の全身を焼いて行く。
 視界が眩しくなり、今までの出来事がまるで夢のように思える。
 志穂との再会。
 そして、それを文香に見られたという事実。
 全て夢なのではないか。
 むしろ、そうであればいいと、優は思った。
 文香の謝罪も、俯いた姿も、何もかも忘れてしまいたかった。
 志穂のことも全て。
 暗い日陰から光差す外へ出たときに聞こえた迷子の子供のような頼りない志穂の声も含め、優は全てをなかったことにしたいと本気で思った。

 このときの優は信じられないほど自分勝手な感情に翻弄されていた。
 それを必死に制御し、なんとか文香に悟られないように彼女をその場から、志穂から引き離すことに夢中だった。

 優は自分を最低な男だと思っていたが、まさかここまで薄情で非情だとは思っていなかった。
 志穂が文香に怒りをぶつけ、そして真実を優に告げたとき。
 結果的に文香自身がそれを肯定し、何も言い返さなかったとき。
 優がどれだけ愕然とし、怯え、嘆き、絶望したのか。
 頭の中が真っ白になり、そして一気に真っ赤に燃え上がったことを文香も志穂も気づかなかった。

 優は恨んだ。

 

 どうして、今になって優の前に現れたのか。
 どうして、優の知らない文香のことを調べたのか。
 どうして、それを優に、優と文香の前で暴露したのか。

 優は知りたくなかった。
 文香が既に再婚していることも。
 それを優に黙っていたことも。
 志穂の推測が真実かどうかなど、冷静でいられない今の優には考える余裕などなかったが、それも含めて知りたくなかった。
 せめて、優にだけ伝えてくれれば良かったのだ。
 どうして、文香もいる前でそんな話をしたのか。
 志穂の真意を考えようと思う気持ちが微塵も湧かないぐらい優の心は荒れていた。

 人を憎むことも恨むことも知らず、物心つく頃から人に好かれ、人が好きだった優はこのとき初めて人を疎むということを知った。

 それも、志穂に対して。
 かつては愛しいと、守ってやりたいと確かに想った女を優は疎んだ。

 知りたくなんかなかったことを無理矢理聞かされたこともそうだが、何より優が許せなかったのは優がそれをを文香が知ってしまったことだ。
 文香が優から目を逸らしたときの奈落の底に落ちるような絶望と恐怖はそれだけ優の身に応えたともいえる。

 優は怖かった。
 今の優の一番の恐怖は再び文香を失うことだ。

 志穂が優に告白し、文香がそれを知った。
 こうして一緒に買い物に行くようになり、幸せを噛みしめていた矢先だというのに。
 突然現れた志穂のせいで、全てがぶち壊されそうになっている。
 恨まないはずがない。

 どうすればいいのか。
 何が正解なのか優には分からない。
 だから優は咄嗟に文香を連れ出したいと思った。
 これ以上志穂が余計なことを言う前に。
 文香を家に連れ帰らなければ、そのまま文香が消えてしまうという強迫観念染みたものを抱いた。

 文香が知って欲しくないと思っていることを優は知ってしまった。
 知ってしまった優を、果たして文香はまだ必要としてくれるのか。
 それを知るのが怖くて、後ろから優を呼び止めようとする文香の声を優は必死に聞こえないふりをした。

 早く家へ。
 二人の家へ、早く帰らなければ。

 それだけが希望というように、優は足を速めた。 






 優は無言で荷物をキッチンに持って行く。
 サンダルを慌てて脱いで来た文香が見たのは、買って来た食材を無言で出していく優の姿だ。
 優の行動に戸惑っている文香に優は微笑んだ。

「随分といっぱい買ったな。しまうのも大変そうだ」

 野菜や肉類、乳製品なども次から次へと放り投げるように空っぽだった冷蔵庫の中へしまっていく。

「あ、後でレシート見せてくれ。すぐにまとめて返すから」

 一番重量があった米袋やペットボトル類や瓶入りの調味料なども優は軽々とテーブルの上に広げた。
 そして中に詰めていた氷が溶けてしまった袋を漁り、優は困ったように文香に笑いかける。

「アイス、もう溶けちゃったな」

 せっかく文香が買ってくれたのに残念だと呟きながら優は水滴がついたカップアイスを揺らした。

「冷凍庫でもう一回凍らしたら、いけるかも……?」

 少し掴んだだけでぐにゃと歪むアイスを見ながら不自然なまでに明るい声で喋る優に文香は何とも言えない表情を浮かべる。

「……ごめんな、俺がもたもたしてたから」

 文香が近づいて来るのを察した優がそっと溶けたカップアイスをテーブルに置く。
 二人の視線が漸くまともに合った。

「……本当に、ごめん」

 訝し気な文香の視線が優に突き刺さる。

「勝手にいなくなったことも、一人で買い物させちまったことも、重たい物持たせたことも…… 本当、俺って駄目な奴だよな」

 自嘲を零す優に文香は目を見開いた。
 優は乾いた唇を舐めた後、無理矢理口角を上げて文香に卑屈な笑みを見せる。

「それから……」

 まったく、優らしくない笑みに文香は呆然とした。

「……の、ことも」

 ごめん。
 そう言って頭を下げる優の肩は微かに震えている。

 一連の優の行動に、文香はなんと返すべきか分からず、しばらくその下げられた旋毛を呆然と見ることしかできなかった。

「……なんで、優が謝るの?」

 それは紛れもない文香の本音である。

「他に、言いたいことがあるんじゃないの?」
「……」

 ぴくっと大げさなほど優の肩が跳ねる。
 痩せたとはいえ、文香よりもずっと大きな優が今はとても小さく見えた。

「……聞きたいことが、たくさんあるんでしょう?」

 文香は上手く回らない自分の口が憎いと思った。
 今の文香が偉そうに何か言える立場にないはずなのに、口から滑り出てくる台詞全てが冷たく偉そうに聞こえるのだ。
 自覚していながらもなかなか治らない癖に焦りが募る。
 答えない優が余計に文香から冷静さを奪うのだ。
 落ち着かなければならないのに、汗で張り付く髪や服、纏わりつく湿気が不快でなかなか頭が冷えない。

「…………何を、聞けばいいんだろうな」

 温度のない優の声に、少しだけ冷静になれた気がした。

「……聞いたら、全部答えてくれるのか? 何もかも全部、教えてくれるのかよ」
「それは……」

 語調の強さに反して、優の声は可哀相なぐらいに震えていた。
 怒りか、それとも哀しみか。
 中途半端にしか答えることができない自分を文香は恥じ入るように唇を噛む。

「もしも、聞いたら…… もしも、文香がそれに答えたら……」

 優は一度深く息を吸った。
 穏やかに笑っていた優もまた冷静でないことに、今更ながら文香は気づいた。
 ずっと、別のことを考えていたせいだ。

「もう、俺はいらなくなるのか……?」

 低く、くぐもった声に込められた不穏な感情に文香は咄嗟に何も言えなかった。



* *


 優はそのまま床の上に膝をつき、文香の腰にしがみ付くように身を寄せた。
 突然の行動に驚く文香に構わず、優は文香のスカートを皺になるぐらい強く握りしめる。
 どこにも行かないで欲しいと訴えるように。

「何も、言わなくていいから…… なぁ、俺、何も聞かないから……!」
「ゆ、優……? ちょ、っと」

 腰に顔を埋めてくる優に文香は焦った。
 上背のある優が床に膝をつき、文香の腰に腕を回す。
 ぎゅっとスカートごと抱き着かれた文香はその場を動けないでいた。

「何か、事情があるんだろう? だから、文香は俺に何も言わなかったんだよな? そうだよな?」

 力強い腕に反して見上げて来る優の視線はどこか朦朧としていた。

「……それなら、いいんだ。俺は、文香に会えただけで…… 今の文香に必要とされるだけで、それだけで十分だから……」
「ゆ、う……」

 文香の腰に額をすりつけながら、優は必死に哀願する。

「いいんだ、それで…… 文香が俺を求めてくれるなら…… 俺と会ってくれて、口をきいてくれて、目が、合うだけで…… 俺を意識してくれるだけでいい…… 本当に、それだけで俺は…… 俺は……」

 どんどん熱っぽく、そして擦れていく優の声に文香は胸が締め付けられる思いで聞いていた。
 罪悪感が文香を刺激する。

「……彼女が言っていたことが、本当でも?」

 咄嗟に試すような言葉を吐き出す文香に、優はしばらく硬直した。
 志穂が言っていたこと。
 文香が既婚者の身で優に近づいた理由。
 それは復讐だと、志穂ははっきりと言った。
 それについて文香は何も反論できなかったのだ。

「文香が……」

 優はどう思ったのだろうか。

「文香が、本当に俺に復讐するために近づいたなら……」

 再び強く、文香の腰は優に抱きしめられていた。

「ははは……っ 俺、本当に馬鹿だからさ…… 馬鹿で、最低な奴だから……」

 文香を見上げる優の目が、その心に燻る炎を映したように、ほんの一瞬だけ赤くなる。
 気づく暇もないほど一瞬の出来事だった。

「それが本当なら…… 少し、嬉しいって思った」

 震えながらも落ち着いた優の声に、文香は息を呑んだ。
 予想していなかった言葉に文香が動揺しないはずがなかった。

「な、んで……?」
「……だって、」

 そんな文香を見上げながら、優もまた上手く回らない頭をぼんやりさせながら、ただ気持ちのままに口を動かした。

「復讐、するってことはさ……」

 自分が何を言っているのか、自覚がないのかもしれない。

「文香が、この三年間ずっと、俺の事を忘れていなかったってことだろ?」 

 俺と、同じように。

 文香の体温と香る匂いを感じながら、優はじんわりと汗をかく文香を見つめ続けた。

「……復讐でも、いい。結婚してたって、構わないから…… 俺は文香に必要とされたい」

 優の鼻先が文香の腹を撫で、徐々に下へ落ちていく。

「なんでも、する」

 文香が身じろぐのも構わず、腰へと鼻を寄せて、更に落ちていく。

「なんでも、文香の望み通りにしたいんだ」
「ゆ、う」

 優の鼻先が、文香の太ももの間に止まる。
 腰に縋り付いていた手はいつの間にか文香の下半身を妖しく慰撫していた。

「……まだ、今日は、よな」

 優の熱い息が文香の下半身にかかる。

「っ……」

 羞恥に顔を赤らめる文香を、優もまた暑さとは違う興奮に染まった顔で見上げた。
 暑い中、半ば駆けるようにして歩いた二人は喉が渇いていたことにも気づいていなかった。
 急激に、双方がそれを実感している。
 冷房すらつけていなかった部屋の暑さ、乾いた喉に肌を伝う汗。
 自覚した途端に、猛烈な渇きが二人を襲う。

「……

 何が、とは聞かなかった。
 目を見ただけで分かる。

 優の視線に追い詰められるような焦りを感じながらも、文香は優を手放すことができなかった。
 明確な優からの執着をひしひしと感じながらも、今の文香が一番欲しいのは優だった。
 良心が痛むのを感じながらも、手放すことができない。
 どんなに罪悪感に苦しんでも、文香の目的は変わらないのだから。

「文香、文香…… なぁ? 言ってくれよ。俺が、必要だって……」

 優の懇願に込められた熱に文香は自分の下半身が確かに濡れるのを実感した。
 変わってしまった自身に後悔はない。

「私は…… 優が、欲しい」

 ぽつんと零れた文香の言葉に、優の目に歓喜が浮かぶ。
 文香はスカートの下に性急に入って来る優の手を受け入れるように、優の汗で湿った髪を撫でた。
 全て、文香の望みのままだ。

「抱いて。私を。いっぱい、たくさん、抱いて」

 優は全部を文香にくれると言った。
 なら、有難く全部貰ってやろう。

 文香を罵った志穂の声が聞こえた気がしたが、それはすぐに優とのセックスの波間に消えてしまった。

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