奥様はとても献身的

埴輪

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≪現在①≫

15 舞台女優

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 沈黙がその場に降り注いだ。

「……は?」

 初めにそれを破ったのは優である。
 志穂が何を言っているのかまったく分からないとばかりに、訝し気に顔を顰める。

 言葉の意味が突然分からなくなったように、優の頭の中は混乱していた。
 優に悲痛な眼差しを向ける志穂は、一瞬躊躇った後に話を続ける。

「……文香さんは一年前に、別の人と結婚したの」

 文香の視線に気づき、志穂は気まずそうに俯いた。
 文香の視線に怯えているようにも見える。

「…………何、を」

 優はからからに乾いた喉から絞り出すように笑う。

「何、馬鹿なことを言ってるんだ」

 必死に悪趣味な冗談を笑い飛ばすように、志穂の言葉を優は否定する。
 だが、その動揺は隠せられず、優は不自然なほど文香の顔を見れないでいた。
 自分が何にこれほど焦り、戸惑い、否定しようとしているのか。
 その理由すら把握できていないほど優は動揺していた。

「やっぱり…… 優君は知らなかったのね……」

 志穂は痛まし気に優を見る。
 憂いを帯びた瞳に見つめられ、優は瞬きすることもできず固まっていた。

「……優君と文香さんが復縁をするってを聞いたの。初めはショックだったけど、でも…… 元々ご夫婦だった二人の仲を私が、壊してしまったから…… この三年間、罪悪感を感じない日はなかった…… 神様が漸く、二人を祝福したんだって、私も、もう優君への想いも過去も忘れて、もっと前向きにならなきゃって…… 二人を応援しなきゃって、そう思ってた……!」

 志穂の言葉に優は顔を青褪めなせながらも一言一言聞き洩らさないようにと全神経を注いだ。
 理性では聞いてはいけないと、このままただの戯言だと流して文香と共に帰らなければと思っているのに。
 文香の真意を知る手がかりになるのではないかと囁くもう一人の優がいる。
 そして、志穂の言葉全てを聞いてしまったが最後、今のこの薄氷の上で成り立つような幸せがもう元に戻れないのではないかという恐れもあった。

「……初めは、ただ謝りたかった。一言でいいから、過去のことをもう一度謝りたかった…… もう私のことは気にしないで、二人で幸せになって欲しい。……そう、伝えたかった」

 優は文香が何も言わないのが怖くて仕方がなかった。
 それなのに、肩が触れるほど近くにいる文香を問いただすことができない。
 こんなにも距離が近いのに、今はひどく遠くに感じる。

「優君にお礼と、文香さんにもう一度謝罪して、二人のこれからを応援しようって、決めてたのに…… けど……ッ」

 泣くのを必死に耐えるように口元を手で覆い隠す志穂に優は初めてじれったさを覚えた。
 聞きたくないと拒む優と全てを知りたいと望む優が内心で暴れている。

「……私のこと調べたのね」

 優が葛藤する中、文香の冷めた声がその場に突き刺さった。

「っあ……」

 蛇に睨まれた蛙、いや狼に見つかり怯える子兎のように志穂は両手を祈る様にして胸の前で握りしめる。
 文香の言葉の奥に潜む冷たい嘲笑を志穂は敏感に察知していた。

「優はともかく、私が今どうしているかなんて、詳しく調べなきゃ分からないもんね。お得意の素行調査でもしたんだろうけど、わざわざそんな手間暇かかることしなくても、貴女の旦那さんに頼んで私に連絡してくれれば教えてあげたのに」

 志穂と優が同時に息を呑む。
 その息の合いように文香は皮肉気に嗤った。

「私は…… ただ、遠くからそっと二人を応援しようと思ってただけなの…… でも、まさか文香さんが優君を騙しているなんて、思わなかった……」

 志穂の表情が強張り、一瞬文香を睨みつけたことに優は気づかない。
 優は文香を凝視していたからだ。
 後半の志穂の台詞などまったく耳に入っていなかった。
 今の優は文香の言葉、不自然に優から目を逸らす文香だけに集中していた。

 文香を燃やしてしまいそうなほど、そのときの優の目は赤く爛々と輝いていた。
 目を逸らしていた文香と視線を向けられなかった志穂はそのことに気づかない。
 ピリピリとした緊張感で息が詰まりそうだ。

「……本当、なのか? し、彼女が、言っているのは……」

 志穂と言いかける寸前、なんとかそれを踏みとどまれるぐらいの理性は残っているらしい優に文香は眉間に深い皺を刻み、無言で頷いた。

「………………嘘、だろ?」

 唇を噛む文香の仕草に優は強いショックを受けた。
 それは文香が緊張しているときの癖だ。
 何よりも雄弁な文香の肯定である。

 しばらく、長い沈黙が広がった。

「再婚、って……? はっ、結婚? そんなの…… 今まで、一言だってそんなこと言わなかったよな? そんな、大事なこと……」
「……」
「は、はは…… なぁ? 冗談だ、よな? からかってる、だけなんだよな…… 文香……? 黙るなよ、なんか言えよ……」

 信じられない。
 信じたくないとばかりに、優は弱弱しく首を振った。

「……頼むから、何か、言ってくれよ…………っ!」

 痛ましい優の懇願に、文香は小さく応えた。

「……ごめん」

 そのたった一言で優は殺されるかと思った。

「…………本当、なのか?」

 不自然に優から視線を逸らしながらも、文香は観念したようにもう一度頷く。

「本当よ。彼女の言った通り…… ちょうど一年前に、再婚したの」

 絶望が優を襲う。
 文香は優と話すとき必ずと言っていいほど目を合わせてくれた。
 なのに、今の文香は優の食い入るような視線から逃げるように俯いている。
 どんなときでも優の目を真っ直ぐ見る文香しか知らない優にとって、それはひどい裏切りのように映った。

 陽射しがじりじりと二人を焼いている。
 なのに文香も優も、ひどく冷たい心地がした。

 唯一、ほくそ笑む志穂を除いて。







「……かわいそうな、優君」

 ぽつりと零された囁きに、文香だけが反応を示した。
 優はその場に硬直したまま、必死に今し方知ってしまった事実を整理しようとしている。
 血の気の失せた優に何と声をかけていいのか文香には判断できなかった。
 正直、焦りとなけなしの良心が文香の中で鬩ぎ合っていたのだ。
 全てが信じられないほど上手くいっていたのに。
 たった一人の女に言い様に攪乱されている状況に怒りが沸々と煮えていく。
 冷静にならなければならないと理解しながらも、忌々しい志穂のに文香の思考は乱されていた。
 これほど露骨な形勢逆転も珍しいだろう。
 滑らかに動く志穂の舌に、文香は感心すらした。
 いざという時に、まったく役に立たない自身の口下手さを考えれば少しは志穂を見習うべきなのかもしれない。

 そこまで考えて文香は自分が相当焦っていることを再度自覚した。

「文香さんにはもう新しい旦那さんがいるのに、ずっと騙されていたのね……」

 まるで見て来たかのように話す志穂の声は弱く震えていたが、それでも必死に勇気を振り絞って思いを伝えようとする直向きさがあった。

「優君はただ必死に、一生懸命文香さんとの関係を修復しようとしていたのに…… なのに、」

 どこまでも一途で、それでいて壊れやすいガラス細工のような声が優を慰撫するようにその場に降っては消えていく。
 優の心に沁み込むような声は、文香にとっては毒に等しかった。

「……文香さんは、貴方を騙した」

 優に優しく浸食するような、そんな声に文香はそっと腕を摩る。
 大量の砂糖を煮込み、その上から更に蜂蜜をかけた何かを無理矢理口の中に詰め込まれたような不快感を文香だけが感じていた。

「優君は、文香さんに弄ばれていたのよ」

 志穂の視線が優を捉え、そして文香を責める。
 涙と怒りで歪んだ志穂の眼差しを文香は正面から受け入れた。

「……本当に、ひととして最低だわ」

 志穂のストレートな罵倒に文香は黙ったままだ。
 隣りの優が何かしら反応を示したことは分かったが、今だ文香はその顔を見れずにいた。

 志穂らしくないともいえる、その安直な罵倒を優はどう捉えたのか文香はまだ知らない。



* *


「ぁ…… わ、わたし……」

 無意識に、本音が出てしまったのか。
 志穂はまるで自分で自分の言葉に驚き、傷ついたようにさっと口を抑える。
 青褪めながら、必死に文香に弁明した。

「ッ、ご、ごめん、なさいっ……! わ、わたし、そんなつもりじゃ……」

 志穂は、なんて酷いことを言ってしまったのかと、後悔に苦しみ涙ながらに文香と優に謝罪した。

「ごめんなさい、ごめんなさいっ、文香さん…… 私が、もとは全部私がいけないのに…… 貴女が変わってしまった原因は、私達なのに…… なんて、酷いことを……!」

 志穂の言葉に文香は何も返さなかった。
 何を返したとしても今の志穂への燃料にしかならないことを経験上知っていたからだ。
 ふらふらと趣旨があやふやで方向性もなければ着地点もない志穂の話に真面目に付き合える余裕などない。
 文香はただ優の反応が気になった。
 優の反応次第ではこの奇妙な週末婚に似た日々が終わるかもしれないのだから。

「文香さんの気持ちが、分からないわけじゃないの…… でも、」

 焦る中、志穂の声はひどく耳障りだった。

「このまま黙って、優君が不幸になる姿なんて…… 二人がどん底に落ちる姿なんて、見たくなかったから」
「…………不幸?」

 ぼんやりとした声色が優の口から零れる。
 感情が読めない、静かな口調に文香はまだ自分がどう振る舞うべきか決めかねていた。
 一方の志穂は躊躇いながらも残酷なを優に伝える決意を固めたらしく、唇を震わせながらも言葉を紡いでいく。

「ええ…… 文香さんは、私達の罪を今も憎み、決して許そうとしていないの」

 目を伏せたときに志穂の長い睫毛がふるふる震える。

「分かってるわ…… 文香さんを、責めてはいけないって、私達にそんな資格はないって……! でも、優君の気持ちを考えると…… 私…… やっぱり、許せそうになくて……」

 いじらしく、そして切ない表情を浮かべながら志穂はなるべく感情を抑えようと必死に平静を装うとした。
 それでも、文香のあまりにも酷い仕打ちが哀しいとばかりに声が所々で擦れる。

「……もう、再婚して、他の人の奥さんになったはずの文香さんが、まで優君に会いに来る理由は………… ひとつしか、ないわ」

 一拍置き、志穂は静かに語る。

「……復讐、よ」

 志穂は優の目を真っ直ぐ見つめた。
 そして、鼻を啜りながらも不器用に微笑んだ。
 憐れみと慈しみ、自分が唯一の味方であると訴えるような力強い眼差しが優を捉える。

「文香さんを裏切った優君を、苦しめようと、罰しようと…… 今度は文香さんが優君を利用しようとしている……」

 店の喧騒もエアコンの稼働音も、全てが遠い。

「既婚者であることを黙ったまま、文香さんは貴方を秘密の恋人に仕立て上げようとした……」

 寂れた店の裏口に佇む志穂はその場を圧倒するほど美しく、今は凛とした雰囲気を漂わせている。
 全ての真実を暴く正義の使者のように志穂は断言した。

「文香さんは、過去の立場を逆転させて、優君に復讐するつもりなのよ」
「……」

 熱心な志穂の眼差しを一身に受けた優は今だ沈黙を保っている。
 文香はもう黙って二人のやりとりを見守ることしかできない。

「元夫を騙して、今度は不倫相手に仕立て上げて…… 優君を陥れようとしているんだわ」

 志穂の断言、いや断罪に文香は呆然と目を見開くことしかできなかった。



* * * *


 このときの文香は頭を叩かれたような衝撃を一瞬だけ感じた。
 自分のことを常識人だと認識していた文香にとって、まさに目から鱗な出来事だった。

(ああ、なるほど)

 確かにと、文香は志穂の言葉に半分感心した。
 そうかもしれない。
 傍から見れば見えるかもしれない。
 意外な志穂の観察力や推理力に文香は嫌悪も忘れてなるほどなと思った。

 そんな復讐方法もあるのかと、文香は一瞬だけだが、確かに志穂に感心したのだ。

 珍しくもこのときの文香は現実から逃げていた。

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