奥様はとても献身的

埴輪

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≪現在①≫

14 裏口の愁嘆場 前

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 会計する前に二回ほど優に連絡をした。
 トイレにでも行ったのか、何か気になるものでもあったのか。
 店内を一周しても見つからなく、レジを待つ間にももう一度連絡してみたが出る様子がない。

(仕方がない……)

 カートいっぱいの食料品に買い過ぎたなと思いつつ文香は一人で会計した。
 そして大量の食料品をどう一人で運ぼうか悩みながら、なんとかまとめる。

(お、重い……!)  

 予想以上に重い。
 米やらその他。
 調子に乗って買い過ぎたのだ。
 絶対にこれは三日分ではない。

 バッグではなく、リュックにすれば良かったと後悔しながら肩と両腕に大袋を掲げながらふらふらと文香は自動ドアを潜る。

(はぁ…… 買い過ぎた……)

 袋だけでは足りず、他は段ボールに詰めて持ち運んでいるせいで前を見て歩くにも苦労する。

(最悪、腕が引き攣る…… 汗が、ああ……)

 スカートなんて穿いて来るんじゃなかったと舌打ちしたくなる。
 ふらふらな文香の隣りを通り過ぎる家族連れが羨ましい。
 文香と同じ様に重たそうな段ボールを腕まくりして運ぶ父親に、その隣りで比較的かるそうな袋を持つ母親。
 周りをうろちょろしながら買ってもらったおやつらしきものを持ってわいわいはしゃぐお子様。

 当然のように、羨ましいと思う気持ちは優への怒りに変わった。

(なんで、肝心なときにいないのよ……!)

 冷房が強すぎて店内は一層寒かったのに、一歩外に出ると強烈なまでな陽射しに全身が焼かれる。
 汗が一滴目に沁みて、文香は突然姿を消した優を内心で罵倒した。
 何かあったのかと心配する気持ちは腕の重みが増すごとに消えていく。

(ああ、もう…… こんな格好して来なきゃ良かった……)

 スカートの裾がひらひら揺れるのが鬱陶しい。
 ちょっとでもよろけたら、荷物ごとそのまま転んでしまいそうな緊張感に溜息を吐き出したくなる。
 入念に化粧をして来たせいで汗が流れるたびに気持ち悪かった。
 優のために今日も気合を入れて身支度をしたというのに、当の本人が無言で消えてしまうとはどういうことだろうか。

(見つけたら、一言文句言ってやる……!)

 である優への遠慮などは暑さと腕の重みにへとへとな今の文香の意識にはなかった。

 優がどこに行ったのか、何故急に消えたのか分からないまま、とりあえずこの荷物をマンションまで持って行かなければならない。
 それなりにお洒落な恰好をしたそれなりの年代の女が、スーパーのロゴの印字が目立つ大袋と段ボールをいかにも重たそうに運ぶ姿というのはなかなかに目立つ。
 自意識過剰でも被害妄想でもなく、横を通って行く何人かにちらちら見られているのだ。
 纏わりつく視線と湿気に小さくため息を零しながら文香はふらふらと歩いて行く。
 駐車場を横切り、近道しようかとスーパーの裏まで回ったところで、ぶちぶち脳内で文句を言っていた文香は突然誰かの声を聞いた気がした。
 ちょうど涼し気な風が文香のスカートを撫でたときだ。
 なんの悪戯か、風に乗って聞こえて来た声に、文香の視線は自然と店の暗い日陰の奥へ注がれた。

 聞いたことがあるような泣き声だと、一瞬、怒りも忘れて文香は思った。

「……?」

 どこで聞いたのかしらと腕にかかる負荷に耐えながらその場に立ち止まる。
 金網で囲まれた狭い通路への入り口付近には従業員のものらしき自転車や鍵付きの大型ダストボックスが置かれている。

 一瞬、空耳かとも思った。
 暑さにやられたのかと無視しても良かったのだが、何故かそのときの文香はサンダルが汚れることも、自分の両手を塞ぐ重い荷物の存在も、消えた優への文句なども忘れて、ゆっくりと人の気配がするスーパーの裏口へと歩いて行った。
 従業員の出入り口があることを知っていたため、普通に考えれば店の者だと思うのだが。
 耳を澄ますと買い物客の騒めきやエアコンの屋外機の稼働音らしきものが耳に入って来る。
 そして、今度はさっきよりもはっきりと声が聞こえて来た。
 間違いない。
 女の声だ。
 どっかで聞いたような声が再び耳に入り、確実に空耳ではないことを確信した文香はぶら下がっている買い物袋が壁と金網にぶつからないようにしながら足を速めた。

 余計な時間を食うわけにはいかないのだが、何故かそこへ行かなければならないと文香は思ったのだ。
 俗にいう女の勘である。
 あまり性能の良くない自身の勘を頼りによたよた歩いていた文香は三度目に聞こえて来た声に漸く当たりをつけた。

(あ、そっか)

 電流が走ったようなとか、突然頭をぶん殴られたような、そんな劇的なものではなく、本当にごく自然に聞き覚えのある声の正体を思い出したのだ。

 ならばきっとこの先に優がいるはずだ。
 確信めいたものを抱きながら文香の歩みが早くなる。
 同時に今までよりもずっと鮮明に耳に入って来る声の断片に文香の蟀谷が神経質そうにぴくっと動いた。

 二人が何か会話をしているのだろう。

(勘弁してよ……)

 




 エアコンの屋外機の稼働音が奇妙な空間を支配していた。
 今更ながらその機械的な音に気づいた優は唖然とする。
 そんな音にも気づかないぐらい、優は志穂とのやり取りに集中していたのだ。 

「ストップ」

 文香の平坦な声に優は咄嗟に志穂から弾かれるようにしてそこから一歩離れた。
 志穂もまた突如割って入って来た声と、その人物に驚いたのか不安と驚愕に満ちた表情を浮かべている。
 二人揃ってさっと顔色を変えるのを見ていた文香はなんとも微妙な表情を浮かべていた。
 頭が痛いような、呆れたような。

「あのね……」

 いかにも不本意だと言わんばかりに、苦々しい口調で文香は苦言を呈する。
 苦々しく、息を切らしながら。
 全ては荷物のせいだ。

「はぁ、スーパーの裏口って、結構っ、扉や壁が、薄いの、よ……」

 はぁ、と一息入れながら文香は続ける。
 溜息というよりも、抱えなおした荷物が重いのだろう。

「くっ…… しんど」

 ぷるぷると腕を震わせる文香の口から思わず零れたその愚痴という名の悪態に、優は突然視界の霧が晴れたような心境で文香を凝視する。
 事態が読み込めず、ただ呆然と文香を見ていた優は一気に正気に戻ったような気分だ。
 慌てて優は文香の傍に駆け寄った。
 文香は段ボールを両手に抱え、その肩や腕には大きな買い物袋がぶら下がっている。
 混乱や困惑、焦燥よりも文香一人にこんな大量の荷物を持たせてしまったことが申し訳ない、早く楽にしてあげなければという気持ちが先に来た。

「文香! 悪い、こんな、」
「だから、ね……?」

 謝罪しようとする優を遮って文香は話を続ける。

「こんな、誰でも通れる場所でっ…… 人目もあって、聞き耳も立てられる、ような所で…… はっ、おも……っ 密会したり、意味深な話するの、やめてくれる……?」

 漸く腕の重みが消えたことに安堵しながら、文香は優の手に荷物を委ねた。
 袖を捲ったら腕が赤くなっているだろうなと思いつつ、半分はそのまま持ったままの文香に優は必死に話しかける。

「ごめん、こんな重いの持たせて…… 後は全部俺が持つから」
「いいわよ、別に」

 甲斐甲斐しく荷物を全部持とうとする優に、文香は腕を摩りながら素っ気ない。

「別に、ゆ……」

 何か喋ろうとして、不自然に声が途切れた文香に優は困惑する。
 文香の視線は優を素通りしていた。
 薄情なことに、文香の登場で全ての意識を持って行かれた優はすっかり志穂のことを忘れていたのだ。
 二人を会わせてはいけないという危機感や文香になんと言い訳するべきかという焦りが一気に表面化する。
 ずっしりと腕に抱えていた荷物が更に重くなった気がした。
 上手い言い訳など思いつかず、抱えた重みにそのまま地面の中に沈んでしまいそうな絶望が優を支配する。

「……が」

 優の絶望とは裏腹に、文香の声は平坦なままだ。
 荷物にひぃひぃ言っていたさっきとは違い、なんとも冷静である。

「貴方達がどこで会おうとどんな話をしようと、今の私には全く、これっぽっちも、興味関心もないけど……!」

 いや、冷静なのは最初だけだ。
 徐々に不機嫌そうに優を、その背後の志穂を睨みながら文香の口調が熱っぽくなる。
 分かりやすく怒っている文香に優は少し安心した。

「お願いだから、場所を考えてちょうだい……」

 荷物が無ければ苛立ちのまま髪を掻きむしっていそうなぐらい、文香は不快感を全面に出していた。
 吐き捨てるように優と志穂を睨む文香。

「……どうして、今の文香さんにそんな事を言われなきゃいけないの?」

 必死に感情を抑えたような志穂の涙声に優の心臓は再び凍り付く。
 ぎょっと後ろを振り返りそうになったが、文香の目つきの悪い一瞥に固まってしまった。
 ただの一瞥であり、特に意味がないと知りながらも優はこれ以上文香の前で志穂とのやりとりを続けたくなかった。
 志穂の泣き顔に自分が弱いことを痛感した直後である。

「……もう、関係がないのなら、に興味がないのなら…… お願いです。邪魔をしないでください」

 懇願のような、必死に何かを耐えようとする志穂の声が優の胸を締め付ける。
 背後で志穂が文香に頭を下げたのだと、気配で悟った優はやめてくれと叫びたくなった。

 昔の志穂であれば決して口にしなかっだろう、文香を責めるような台詞。

「……こんなこと、私に言う権利がないことは分かっています」

 優を擁護するために文香の足元に縋り付き土下座までしようとした志穂の姿が記憶の奥底から湧き出て来る。

「どうか、お願いです! 一瞬でも、一瞬だけでいいから…… っ、優、君と……ッ」

 耐え切れなくなったのか、言葉を詰まらせる志穂。
 この場で一番情けない自分を呪いながらも、優はその哀れな泣き声に応えてはいけないことを理解していた。
 それは文香へのなけなしの誠意と、過去の不倫相手である志穂への慈悲である。

「……だから」

 眉間に深い皺を寄せ、今にも志穂へと舌打ちしそうな文香に優は思わず身構えてしまう。
 いけないと自制していても、本能が志穂を守らなければと動きだそうとするのだ。
 優は文香を愛している。
 過去の裏切りを心底反省し、償いたいと思っている。
 文香へは未練しかない。
 再び文香に愛してもらえるのなら、他何もいらないと本気で思っている。
 それでも、志穂を庇おうとする自分も確かにいるのだ。
 志穂には罪悪感を感じることはあれど、色恋の感情はもうほとんどない。
 今にも死んでしまいそうなほど儚く、薄幸な過去を持つ志穂へ最初に芽生えた感情が保護欲だったせいもある。
 自分の感情を吐露することができず、一人で抱え込んでしまう志穂と自身の怒りをコントロールし、どんな場面でも理性でもって冷静に物事を見極めて対処する文香ではあまりにも対照的すぎるのだ。
 文香が志穂に憎悪を抱き、嘲笑したことを優は忘れられない。
 不器用ながらも優しい文香にあんな怖ろしく歪んだ悪意を吐き出させたことを優は一生後悔するだろう。
 そして、文香の憎悪に曝されて恐怖に震えながら優の目の前でひたすら謝る志穂の哀れな姿も。
 志穂もまた自分の過ちの犠牲者だと思い込んでいるからこそ、優は下手にどちらかを庇うことができない。
 これ以上文香を刺激するなと志穂を諫めることも、文香と早くこの場を立ち去ることもできないのだ。

 優自身、一番自分の心が分からなかった。
 文香だけを求めているのに、志穂に縋り付かれただけで捨てきれぬ情が湧きたってしまう自分自身の軽率さが。

 優の荒れ狂う内心を知らず、文香は畳みかけるように話を続ける。

「……だから、こんな所で、そういう話をしないで欲しいって言ってるの」

 頭悪いんじゃないの?という内心を隠しもせずに文香はイライラと吐き捨てる。

「貴方達がどんな話しようと、どこで会おうと勝手だけど。場所や人目ぐらい気にして欲しいの」

 志穂を、そして優を呆れたとばかりに見た後に文香はため息を零す。
 今日何度目かも分からない疲れたような文香のため息に文香の心労具合が察せられる。
 肉体だけではなく精神的にも疲れたような雰囲気に優は居た堪れなかった。
 優が間に入って解決すべきところを、この体たらくだ。

「お願いだから、不特定多数の人目がある場所で過去の醜聞をこれ以上掘り返さないで。貴方達がどうなろうと構わないけど、そのにこっちは嫌でも巻き込まれてるの。分かるわよね、それぐらい?」

 小馬鹿にしたように鼻を鳴らして文香は冷めた目で志穂を見つめる。
 優にはもう視線の一つも向けてくれない。

「調子に乗って、私のプライバシーに関わりそうなことまで安易にべらべらと人のいる所で喋んなって言ってるのよ」

 漸く優に文香は視線を向けた。
 その目には侮蔑も嫉妬もなかったが、代わりにどこまでも世話のかかる子供を見るような呆れた感情が込められていた。
 下手に怒りを向けられるよりもずっと心が傷つくような視線だ。
 文香は志穂にではなく優に話しかける。

「分かってる? ここがどこだか? 家の近所よ?」
「……ごめん」
「知り合いに聞かれて困るのは貴方達二人で、恥をかくのは私なの。今度こそ会社にバレたらどうするつもり? ちょっとは考えられるでしょ? それぐらいのこと」
「……ごめん、本当に俺って馬鹿だよな」
「知ってるわよ。死んでも治らない馬鹿だってこと」

 と、下から睨みつけて来る文香に優はすぐにでもその場で土下座をしたい気分だった。
 生憎自分の土下座は逆に文香に絶大な怒りを齎すことを優は既に知っている。

 文香の攻撃対象が自分に移り、その視界に自分でいっぱいになっていることに優は場違いにもほっとした。
 繊細な志穂にこれ以上は過酷だ。
 また、優にとってもこんなに近くにいるのにまったく意識されていないのはきつい。
 怒りでも侮蔑でも構わないから、文香に自分を意識してほしかった。

 無関心こそが一番辛いことを優は知っている。

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