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≪現在①≫
13 昔の女
しおりを挟む文香はケースの中に並べられた冷凍食品を真剣に吟味していた。
正直、週末限定で優のために昼食や夕食を作ってはいるが、さほど効果はないと始め思っていた。
だが実際の優はどこぞの欠食児童のように文香の料理を頬張り、それを無駄なく栄養に変えている。
あの日の情けなくふにゃふにゃした優の下半身は時を経るごとにすくすくと育ち、文香は内心で驚きながらも有難いと思っていた。
優の下半身にはお世話になりっぱなしだ。
金銭は受け取ってもらえないので、より一層食事には気を遣う。
優を健康にするため、そして少しでも美味しいと思えるものを作って喜んでほしい。
もちろん、文香の本来の目的は体力精力共に衰えた優を元の健康的な成体に戻してたくさんセックスすることである。
目的というよりも、あくまで目的のための手段の一つであるのだが、何事にも手を抜きたくない文香はいつだって全力投球だ。
今更手を抜くつもりはない。
「ねぇ、優」
とあるメーカーの味の違う冷凍唐揚げを難しい顔でしばらく見ていた文香だったが、もうこれは本人に好みを聞くしかないと思い後ろにいるであろう優を振り返る。
「にんにく醤油とレモンバジルだったら、どっちが……」
最後まで言い切る前に、文香は首を傾げる。
「……優?」
少し離れた所から文香を見守っていたはずの優は姿を消していた。
カートだけがぽつんと放置された状態で。
*
優は顔を強張らせながら、目の前の女を見下した。
俯くと余計に小さく見える彼女に優は複雑な気持ちを抱く。
「……何しに来たんだ」
どうして彼女、渡辺 志穂がここにいるのか。
疑問や不審に思うよりも前に、優はその細い手首を掴み急いであの場から離れた。
文香と志穂を会わせてはいけないという警鐘が脳内に響き渡り、それは今でも収まらない。
激しい耳鳴りと頭痛に耐えながら、優は自分の顔が途方もなく苦いものになっていることを自覚していた。
感情の伺えない低い声が出るのを止められない。
臆病な性格の志穂が優の冷たい態度に身体を震わせているのを見て、じんわりと湧いて来る苦々しい後悔と罪悪感で吐きそうだ。
優には、彼女を責める権利などないのに。
「ご、ごめん、なさい……っ、私、本当に…… ごめん……っ」
口から漏れそうになる嗚咽を耐えるためか、志穂が両手で口を塞ぎながら肩を震わせている。
長い髪がその度に揺れ動き、その白い顔の輪郭を飾った。
咄嗟に志穂を人気の少ない店の裏に連れ込んだが、誰かに見られたら確実に優が女を泣かしていると誤解されただろう。
あながち誤解でもないが、見られたくない光景であることは確かだ。
「なんで……」
優は苛立ちを覚えながらも、昔と変わらず弱弱しく頼りなさげな志穂の姿に慰めたくなる自分を自制する。
考えるよりも前に、泣かないでくれと、肩を抱きそうになる自分の手を憎らし気に睨みつけて誤魔化した。
下心とは違う、人の好い優の反射のようなものである。
「なんで、今更……!」
志穂とは実に三年ぶりの再会だ。
彼女とはもう決別し、その後連絡も絶った。
志穂が会社を退社し、音沙汰も無くなった後、彼女のことは時折夢に見る以外思い出しもしなかったというのに。
無理矢理忘れようとしていたのに、何故今更優の前に、優達の前に現れるのか。
よりによって、文香もいるときに。
「約束が、違う」
舌打ちしそうになるのを唾と共になんとか呑み込む。
「俺達は…… もう会ったらいけないんだ。そう、約束しただろう……!」
自然と、責めるような口調になる自分に焦りながらも、優は言わずにはいられなかった。
優の左手にはもう何もない。
だが、志穂の左手は違う。
「会いに来ちゃ、駄目だって…… 分かってるけど、けど……」
志穂の涙が左手の指輪を濡らす。
その左手薬指で堂々と輝くプラチナの指輪。
いつの間にか外されることが多くなったその指輪は、ぴったりと志穂の指にはめられている。
(よかった……)
最後に会ったときには外されていた指輪が今その指を飾っている事実に優は安心したのだ。
同時に、安心した自分の下劣さに優は舌打ちしたい気分だった。
(本当に俺は…… どうしようもない、屑だ)
彼女の名は渡辺 志穂。
優の元同僚であり、元不倫相手である。
* *
志穂の左手の指輪が、咎めるように優の目を刺した。
「分かってるなら…… なんで、ここに来たんだ……」
「っ……」
裏口に来てからずっと俯いていた志穂が優のその言葉に反応する。
「そんなの……」
初めて志穂の声に激情が込められた。
覚悟を決めたようにゆっくり顔を上げる志穂に優は押し黙る。
店の日陰に立っているせいか、顔を上げた志穂の表情は暗く、一瞬ひどく冷たい能面に見えたのだ。
だが、実際の志穂は顔を真っ赤にして、必死に優に気持ちを訴えようとしている。
「……分かってても、どうしようもできなかったの」
化粧気のない顔が涙で汚れている。
それでも見る人が思わず息を止めるほどの清廉さと美しさが志穂にはあった。
涙に濡れたその黒い瞳に、かつての優も呑み込まれたのだ。
それなのに、視線を反らすことができなくなる。
「我慢しようと、したけど…… 頑張って、香山さんを、優君のことを、忘れようとしたけど……!」
「志穂……」
「……迷惑だって、いけないことだって、分かってるのに……… 貴方のことが、忘れられなかった……!」
その悲痛な叫びに、優は居た堪れない気持ちでいっぱいだった。
できることなら、今すぐにでも志穂に謝罪したい。
志穂がとても弱く、繊細な女性であることを優は知っていた。
彼女を慰めるごとに、まるで傷ついた子猫が徐々に懐いて来るような心地良さをあの頃の優は何の考えも無しに喜んでいた。
今にも壊れそうな、死にそうな彼女を抱き締めた夜は忘れたくても忘れられない優の罪の証だ。
文香と離婚し、そのことに絶望して自暴自棄になっていた優は自分の殻に閉じこもったまま虚しい三年間を無為に過ごした。
薄情なことに、志穂のその後を知ろうとも調べようともしなかったのだ。
「簡単に、忘れられるはずがないよ…… すぐに、忘れられるような恋愛だったらよかったのにって…… ずっと、ずっと思ってた……」
縋る様な志穂の上目遣いに、優の心がキリキリと悲鳴を上げる。
「……私達の関係は、私と、優君は…… そんな軽いものじゃ、ない、から……」
「志穂……」
もう止めてくれと、その口を塞ぎたい衝動に駆られるのに、地に縛られたかのように動けない。
心臓が早鐘を打ち、もうこれ以上聞いてはいけない、志穂を喋らせてはいけないと分かっているのに。
「今だって、苦しくて、辛くて…… 寂しくて…… あの頃と同じ、独りぼっちが怖くて仕方がないの」
文香の頬にまた一滴涙が流れる。
伏せられた睫毛が瞬き、人形めいた可憐な顔が痛々し気な笑みを作る。
自分自身を嘲うような、嘆くような顔に優は声をかけることも出来なくなった。
志穂の孤独を知りながら、結局彼女ではなく文香を選んだ自分自身が間違っていたのではないかと、一瞬でも考えた自分に愕然とする。
(っ、何を、考えてるんだ、俺は……!)
寂しく一人では生きていけない子猫を可愛がり、存分に懐かせて捨てた自分。
家庭にも会社にも、どこにも居場所がないと優に涙ながらに縋り付いた志穂に甘えることを覚えさせた自分の罪深さに今更ながら戦慄する。
(違う、あれは間違いだった。志穂との関係は、許されないものだ……!)
人々から称賛される優のその優しさが、妻であった文香を傷つけた。
文香を裏切ったのだ。
(俺と志穂はもう、終わったんだ)
自分自身に言い聞かせながらも、一度生まれた疑念は急速に優の心に根づいた。
苦しい立場に追いやられた志穂のことを放置していた自分。
本当にそれが正しかったのか。
間違っていたのではないか。
お前は結局、文香からも志穂からも、彼女の夫からも逃げただけではないのか。
今後一切の接近を禁止されたことを言い訳に、優は自分自身の罪から目を逸らしたのではないか、と。
「私が、本当に心の底から安心できたのは、笑えたのは、三年前の、あの短い間だけ……」
志穂の声が優を揺さぶる。
下手くそなその作り笑いに、優は罪悪感でいっぱいだった。
志穂を捨てて、文香を選んだことに後悔はしていない。
それでも、本当にそれが正解だったのだろうかと迷う自分がいる。
優を見上げる志穂の目はあの頃と変わらず澄んでいた。
恨みも憎しみも後悔もなく、ただ優への信頼と愛情が甘く煮詰まった目に優は呆然と見つめることしかできない。
「……優君と一緒にいるとき、私はやっとこの世界で息をすることができる。優君とお話しているときが一番楽しくて、灰色だった世界がキラキラ眩しく光るの」
日陰にいるのに、じりじりと項を焼かれるような感覚が優を襲う。
脳内には捨てたはずの志穂との秘め事が、確かに二人で笑いあった記憶がどんどん溢れて来る。
「……優君が側にいない世界は、私にとってただ虚しいだけのものだったわ」
これ以上はいけないと頭を鈍器で殴られるような激痛がさっきから優を苛んでいた。
痛みと同時に、志穂の穏やかな声が直接優の脳を揺さぶるのだ。
罪悪感と焦燥で可笑しくなりそうだ。
「結局、別れてもただ思いが募るだけだった。会いたくて、声が聴きたくて、一瞬でいいから、優君の姿が見たくて……、ッ」
ふらふらと、今にも倒れそうな志穂を支えてやりたいという気持ちが湧く自分に優は絶望する。
何を、馬鹿なことを考えているのだと、自分自身の卑しさが信じられなかった。
「めいわく、かけた、く……っ あ、なたに、めいわくを、ぁ…… かけたく、ないのに……っ」
ぐしゃぐしゃに顔を崩して大粒の涙をあふれさす志穂は子供のようだった。
「ごめんなさい、ごめん、なさいっ!」
泣きじゃくり、優に謝る志穂。
それでも、その折れそう指が求めるのは、志穂が求めることができるのは優しかいなかった。
優しかいないのだと、その目が何よりも雄弁に訴えている。
「し、ほ……」
「いけな、いって、わ、かってるっ…… 許されないって、もう、過ちを犯しては、い、いけないって……、でも、わたし、わたしは、今でも……っ!」
恐る恐る胸元に伸ばされた志穂の手を、戦慄く唇から紡がれる言葉を、優は、
「ストップ」
どうしようと思ったのだろうか。
文香の平坦な声がもしもその場に響かなかったら。
果たして優はどうしたのだろうか。
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