奥様はとても献身的

埴輪

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≪現在①≫

6 元夫婦の自宅

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 人の気配も温度も感じられない埃っぽい自宅に着くと、優は今までの出来事は全部自分の白昼夢なのではないかと疑った。
 しかし、文香からの通話履歴はちゃんと残っており、珈琲の沁みがついたズボンやシャツ、真新しい下着に髭剃り道具など全てがそのまま優の手元にある。
 全部夢ではないという証拠だ。
 痛々しい髭の剃り跡が、こんなにも嬉しいと思ったことはない。

 だが、夢が現実だと分かっていても、帰って来た部屋はあまりにも冷たく優自身を拒絶していた。
 浮き立つ心は、昨日の朝のままの服や靴が散乱した部屋を見た途端に沈んでしまった。
 文香との情事、与えられた温もりは毒に等しい。
 文香と別れてから、時間が経つのがやたらと遅い気がして優はひどく時間を持て余していた。
 誤魔化すようにずっと我慢していた煙草を取り出して、ふと、コンビニの袋の中に自分の煙草の箱をそのまま入れてくれた文香のことを思い出し、自分が喫煙者になったことを文香に知られてしまったという事実に少し落ち込んだ。
 文香は嫌煙家ではなかったが、常に優の健康の心配をして得意ではない料理を頑張っていた彼女の後姿を思い出すと罪悪感が湧く。
 アルコールに弱かった自分は酒に溺れるよりも先に煙草で口寂しさを紛らわせることを覚えた。
 文香といる間は煙草を吸うこともなく、そして新品のシャツを羽織った今、部屋に沁みついた煙草臭さが妙に気になる。

 綺麗に畳んでくれた服なども思い出し、今の散らかった部屋を無言で暫く眺めた。

「……掃除、するか」

 休日に、ソファーから重い腰を上げるのは久しぶりのことだ。






 また、連絡するという文香の言葉に嘘はなかった。

 この一週間、時間があれば優は必ずスマホの画面を確認した。
 そわそわと落ち着きがない優の姿に同僚から不審な眼差しを向けられたりもしたが、まったく気にならなかった。
 仕事をセーブするようになり、禁煙も始めたが、未だ食事の時間は辛いままだった。
 文香に買ってもらったサンドイッチとスープはとても美味しかったことを思い出して自分で購入してみたが、変わらず砂の味がして、結局残してしまったのだ。
 喜び勇んで齧り付いたからこそ、余計にその味の落差に優はショックを受けた。

 そんな風に奇妙にテンションが上がったり下がったりと忙しかった日々は、待ちに待ち望んでいた文香からの連絡で終わりを告げたのだ。
 以前と同じ曜日の同じ時間に文香は電話を寄越した。

『もしもし、優……?』

 一週間前のときと違い、文香の声は少し柔らかく穏やかなものだ。
 対する優の声は今だ硬い。
 それでもその声には途方もない歓喜が紛れている。

「文香……」

 暗い部屋でひとり。
 でも、機械越しに文香の声が優の心を震わせ、寂しさは一瞬にして消え失せた。
 耳から伝わる声にじんわりと全身が温かくなる。

『……また、お願いしてもいいかな?』

 文香の擦れた声が途方もなく艶やかなものに聴こえた。

「抱いて欲しいってことか……?」 
『……うん』

 文香と別れてから優はずっと独り身だった。
 喫茶店で何の気も無しに再婚していないかどうか確認する文香からは優に対する未練は感じられない。
 文香の真意は掴めないままだが、あっけらかんとした態度に暗い陰は見えなかった。
 文香は本当にただ優に抱かれたいだけなのかもしれない。
 他の男でも構わないと言ったが、きっとそれは意地を張っただけだろう。
 そう思わないと、また沸々と腹の底から怒りが噴き出てしまう。

 今はまだ、その真意を追及してはいけない。
 万が一、文香が優からの追及に嫌気が差して消えてしまったら?
 せっかく繋がった文香との絆をまた失ってしまったら、なんて考えただけでも怖ろしかった。
 臆病になった優は文香に必要とされる自分を演じることを選んだ。

 一つ、深呼吸した後に優はカラカラに乾いた喉からなんとか平静に聞こえるだろう声を絞り出す。

「…………いつがいいんだ?」
『あ、明日とか?』

 なんだか初デートの予定を二人で立てているような初々しさだ。
 その内容は極めて生々しいが。

 前回と同じように明日は休みだった。
 すぐに返事をしようとした優はそのとき片手に持っていた粘着カーペットクリーナーを見て咄嗟に想像とは違うことを口走った。

「なら、明日家に来ないか……?」
『……え?』

 もしかしたら文香はまたどこかのホテルを既に予約したのかもしれない。
 可能性は大いにあったし、いくらなんでも二人が昔住んでいたこの部屋に呼ぶのは如何なものか。
 それも、そういう目的で。

『……優がいいなら』

 正直すぎた自分に慌て、すぐに訂正しようとしたが、文香は特に嫌悪も拒絶もなく了承した。
 逆に優が驚いてしまうほど。

「い、いいのか?」
『……うん』
「な、なら、駅まで迎えに行くから……!」
『いや、そこまでしなくていいから』

 そんなこんなな押し問答の末に文香と明日の約束をした。
 時間はこの前と同じで現地集合だ。

 しばらく暗くなった画面を呆然と眺めていたが、はっと正気に戻ってすぐに自分の軽率な言動に青褪める。

「そ、掃除……!」

 家の掃除などほとんどしたことがない優はこの一週間ちょっと埃を掃いたり、ゴミを出したり、溜まりに溜まった洗濯物を洗濯機で回したりと、会社から帰ってなんとかできる程度のことしかしていない。
 文香は清潔好きだ。
 べたべたしたフローリングや、ずっと放置されたトイレや洗面台、風呂場、キッチンetc.を見たらなんと思うだろうか。
 特に、寝室などはあえてその存在を無視するようにずっと使っていない。
 事実として明日の二人は寝室を使うというのに。
 朝一で新しいシーツを買って来ようと優は決意した。

 優が有頂天になれたのはほんの一瞬だ。
 とにかく徹夜で部屋の掃除をしなければと、今の優は焦りに焦っていた。

 しかし、焦燥が滲むはずのその顔はひどく嬉しそうでもあった。



* *


 きっかり15分前に文香は玄関のチャイムを鳴らした。
 エントランスで連絡を受けていたため、もう来ていたことは知っていたが、カメラで見る文香と肉眼で見る文香はやっぱり違った。

 なんというか、輝きが違うのだ。
 白のノースリーブに涼し気なロングスカート。
 サンダルから覗く爪はミルクに一滴ピンクを垂らしたような色で優の視線をつい惹きつける。

「……いらっしゃい」
「お邪魔します」

 油断するとずっと見てしまいそうで、優はなんとか視線を反らして不器用な笑みを浮かべた。
 二人の家だったのに、今は他人行儀に挨拶して上がる文香に多大な違和感と痛みを覚えたが、どうにか顔に出さずにいられた。

「……懐かしい」

 優について来る文香が背後でぼそっと呟いた台詞に心臓が大きく跳ねる。
 三年前から壁紙もカーペットも、ありとあらゆる家具も家電も全てそのままにしているのだ。
 変える勇気もなく、かと言って使えば使う程文香の不在を突きつけられる気がして掃除もしなければ使用することもほとんどなかった。
 そのため昨日の夜から朝にかけて溜まった埃を掃除するのに相当苦労したのだ。
 シーツはなんとか替えられたが、若干ヤニが沁みついたような気がする壁紙はさすがに変えられず、文香の反応がなんとなく怖ろしかった。

 実際の文香は空気がじめっとしたかつての我が家のあまり良くない変化にそれとなく気づいていたが、それについて口を出さないぐらいの分別を弁えていた。
 今更女房面するのも気持ち悪いと内心で文香が思っていたことを幸いにも優は知らずにすんだ。

 優がベッド代わりにしているソファーに腰かける文香。
 文香が今この家にいる。
 のだと、改めて実感した優は涙腺が緩みそうになり慌てた。

「今、お茶出すから」

 誤魔化すようにキッチンに用意してある紅茶セットを持って来ようと立ち上がる優に、文香は眉を顰めた状態でその手首を掴んで阻止した。

「気を遣わなくてもいいから」
「やっ、でも、喉とか、乾いている…… だろうし……?」
「さっきお茶飲んで来たから」
「…………そ、っか」

 しどろもどろに、顔を赤くしたり青くしたりしながら文香の真っ直ぐな視線から必死に目を逸らそうとする優。
 伸ばされた腕の白さにドキドキしてしまう。
 意識しないようにしても、土台無理な話だ。

 つい先週まではこの部屋に独りっきりでただ虚しさしか感じなかった。
 だが、今は文香がいる。
 思い出の残骸が蓄積されたこの部屋に、今文香がいるのだ。
 それだけで十分奇跡だと思えた。

(……文香と、また)

 そして、文香の目的を、二人が交わした約束を思うだけで興奮してしまう。
 なんてことない態度でいられる文香が信じられない。
 それとも、優が意識しすぎているのだろうか。

(ああ、本当に夢みたいだ……!)

 出来れば色んな話もしたいが、文香の態度を見るとそういうことはあまり望んでいないらしい。
 いつだって文香の行動はシンプルだ。

 優とセックスすること。

 考えただけで、冷静ではいられなくなる。



* * *


 一方、文香はおどおどしすぎな優の態度にだいぶ性格が変わったなと思いつつ、前回と変わらず不健康そうな様子に溜息を吐き出したい気分だった。
 掴んだ手首の骨っぽさや、前に別れのときは僅かばかりに薄れた目の下の隈がまた濃くなっていることに嫌でも気づいてしまう。
 前回は痩せた優の姿を気にしながらも時間がないということであえてスルーしていた。
 だが、今は少し事情が違う。

(……後で、いいか)

 優の不摂生を叱るのは、全部終わった後でいい。
 流されやすい優の気持ちが変わらない内に、まず事を終わらせることを文香は選択した。

「……早速で悪いけど」

 一度、やることをやったため更に度胸がついた文香はにっこりと優に微笑みかける。
 弧を描く文香の唇に塗られた口紅は前回とはまた違うものだ。
 きっと鈍い優は気づかないだろうと思いつつ、掴んだままだった優の手首を放す。
 そっと、指が離れる際に、その手の甲を悪戯に撫でてやると優の目が丸く見開かれ、真っ赤になった。
 その表情と、熱の籠った瞳に少し逃げ腰になりそうになるが、これはチャンスだと自分に言い聞かせる。
 優がノリ気なのはいい事だ。

「抱いて、くれるんでしょう?」

 ソファーに深く腰かけ、わざとらしく足を組む。
 ロングスカートの裾がちらりと揺れて、優の視線が文香の足首に集中する。
 白い甲を辿り、塗ってもらったペディキュアに優の視線が止まった。
 優の喉仏が大きく上下する。
 かつて共に暮らした部屋に湿った空気が流れた。

 髪を緩く後ろに纏めて露になった文香の項につうっと汗が伝う。
 二回目の誘惑でも、やはりこの瞬間は緊張してしまうのだ。
 優の射抜くような視線に圧倒されそうになる自分がいる。
 左手をぎゅっと握りしめて、なんとかそれを誤魔化しながら、文香は優を挑発した。

「ね? もう、我慢できないから……」

 はやく、抱いてよ。

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