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≪現在①≫
5 秘密の報告 後
しおりを挟むホテルは駅の近くにある。
車で送ると言う優を文香はやんわりと、それでいてきっぱり拒絶した。
「いいよ。駅に乗ればすぐ着くし」
なかなか引き下がらない優に文香は笑う。
「本当にいいってば。むしろ、お金とか全部返してもらっちゃって、本当にごめん、ありがとう」
「そんな、当たり前だろ? 特に日給とか…… もう二度と言わないでくれる方が、有難いよ」
結局、昨日今日と文香が優のために使ったお金は全て返した。
昨日から今朝までの拘束時間も日給ということで支払う算段を立てていた文香の厚意を優が受け入れるはずもない。
必死に財布を押し付ける優に、文香もそこまで意固地にならなかった。
社会人としてもう数年以上経った男女がこんなはした金で揉めるのも馬鹿らしいと途中で双方とも気づいたのだ。
金額の問題ではなく、金銭で解決できることなら、さっさと済ませた方がずっと楽である。
社会に揉まれ、それなりの経験や苦労を味わった二人だからこそ穏便に済ませようと思えた。
「本当に気にしなくていいから。……むしろ、チェックアウトまでまだちょっとあるから、部屋でゆっくり化粧したいんだよね」
そう言われてしまうと、優は何も言えなくなる。
人前に出るときは必ず化粧する文香だが、いつの間にこんなに美容に対する意識が高まったのだろうか。
(別に、化粧しなくてもいいのに……)
確かに、優がサンドイッチを珍しくも美味しく平らげていたときにわざわざ洗面台で化粧水やら乳液やら美容液やらなんだか、優にはまったく判別できないものを塗っていたことは知っていたが。
文香はそのままで十分綺麗だと心の中でのみ呟く。
数時間前までベッドを共にした仲とはいえ、あからさまに口説くほど優は器用でもなければ厚顔無恥でもなかった。
そして、優の本音交りの口説き文句を聞いて素直に文香が喜んでくれる……と思えるほど楽観的でもない。
だが、パウダーやらファンデーションやら下地がうんたらかんたら、優にはよく分からないそれらを落した文香の肌はとてもきめ細かく艶やかだった。
透明感があるというのか、間近で見ても潤った肌は思わず触れてしまいたくなるものだ。
文香を恋しく思うあまりに、久しぶりの当人に対して過剰なフィルターをかけて見ている可能性もあったが、実際に唇や指で触れた肌はやっぱりしっとりとしてずっと撫でていたくなるような絹の手触りである。
(なんだか、昔よりも綺麗になったな……)
むしろ、化粧を落とした今の姿を見ると昔よりも若返っている気さえする。
自分と別れてから急激に綺麗になったとしたら、それはとても悲しいことだ。
文香は優と同年齢のはずなのに、その肌艶も含め、まるで優だけが老けているような気がする。
気持ちのありようが違うからかもしれない。
離婚を望まなかった優、それを望んだ文香。
当時の二人の気持ちがどれだけすれ違っていたのかと、重苦しいものがせり上がりそうだ。
「……本当に、ありがとう。車の運転には気を付けてね」
「……ああ」
優がスープまで平らげたのを確認してから、頻りに時間を気にする文香にてっきり何か用事があるのかと思い、他に欲しいものや行きたい所はないかと聞く文香につい聞き分けの良い男を演じて帰ると言ってしまった。
まだ時間に余裕があるのなら、もっと一緒にいたかったというのが優の本音だ。
会話がなくてもいい、ただ同じ空間にいるだけで優は満足できる。
「……」
このまま、別れたくなかった。
一度文香の温もりに触れた後、またあの冷たく空虚な日々を過ごすなど優には耐えられないと思った。
「……また、連絡しても、いいかな?」
「……え」
何か、言わなければと焦っていた優は、あまりにも自分に都合の良すぎる文香の台詞に呆けた声を洩らす。
「だから…… 嫌じゃないって、さっき言ってたでしょ? 私を、抱くのが……」
早朝ということもあり、駐車場には今二人しかいないように思える。
それでも声が響くのを恐れ、文香は小声で優にだけ聞かせるように懇願した。
「……また、優に抱いて欲しい、って…… お願いしても、いい?」
消えそうな文香の言葉に、優は考えるよりも先に頷いていた。
夢みたいだった。
あの電話から、今のこの時まで。
全てが優の見ている都合の良い夢だったと言われた方がずっとリアルだと思えるほど。
夢みたいに幸せな現実に眩暈がしそうだ。
文香の真意を考える気が起きないほど、優は現実の至福に酔い痴れた。
*
見慣れた優の車を送り、文香は目的を達したことに心底ほっとした。
安堵の余り、その場に座りこみたい程だ。
だが、今ここで気を抜くわけにはいかない。
まだ早すぎる。
優との次の約束を取り付けたとはいえ、今の段階ではまだ安心はできない。
ひとまずは部屋に戻らなければ。
文香は車が完全に見えなくなったのを確認して、お守りのように大事に握りしめていたスマホの画面を見やる。
現時刻と、何か連絡が来ていないかと確認した。
優と来た通路を逆戻りし、エレベーターに乗り込んでボタンを急いで押す。
落ち着けと自分に言い聞かせようとしても、色んな事が昨日今日ありすぎて今更ながら随分と大胆なことをしたと身体が震える。
後悔はしていない。
それでも、怖くなかったのかといえば嘘になる。
一番怖いのは、自分が恥も外聞も捨ててまで手にした成果が、結局なんの役にも、なんの糧にもならなかったらという可能性だ。
(大丈夫、きっと、大丈夫)
深呼吸をして、自分自身に暗示をかける。
本当は不安で仕方がないけど、きっと大丈夫だと自分に言い聞かせた。
シャワーを浴びる前に今の状況を通話アプリで向こうにも伝えたではないか。
返信として送られて来た写真の画像と、よくやったという褒め言葉に思わず泣いてしまいそうなほど安堵した。
写真を見て、そこに映り込む姿に早く会いたいと心底思ったものだ。
あと少しで、もう会えるはずだからと、文香は祈る様にスマホをぎゅっと胸元に抱き寄せる。
(焦っちゃだめ、焦っちゃだめ)
部屋に戻り、数時間前まで元夫と行為をしていたベッド脇のゴミ箱を漁る。
当然のようにゴミはそのままになっており、ひとまず文香は肩の力を抜いた。
必要になるのかも分からないが、セックスしたという事実が残るものは、一応全て揃えた方がいい。
何が役に立つのか分からないのだから。
使い終わったスキンや、その他の汚れを拭いたティッシュはまとめてコンビニの袋に入れた。
優の前でそれをそのままバッグの中に入れるのは躊躇われたため、こうして文香は慌てて取りに戻って来たのだ。
じっとこちらを見ていた優にこれ以上不審感を持たせるのは得策ではない。
大事そうに、袋をゴミ箱から引っ張り出す。
こんな汚いもの、三年前の文香、いや、数日前の文香なら嫌悪感しか抱かなかっただろう。
今は、とても貴重なもののように思える自分に少し笑った。
連絡は来ない。
なら、もうそのまま部屋に行ってもいいということだろうが、一応文香は優が完全にホテルを出たこと、そして優との性交の証を無事手に入れたことを報告しようと思った。
部屋を出て、早くチェックアウトを済ませ、鍵を返そうと文香は足音を荒くして廊下を歩く。
履歴からそのまま通話ボタンをタッチした。
文章を打つ時間も惜しい。
ワンコール以内に出た相手に、文香は心底安堵した。
「もしもし……?」
そして、喜々とした表情で言葉を紡ぐのだ。
* *
ルームキーを返す客にフロントにいた従業員はマニュアル通りに対応した。
「チェックアウトでいらっしゃいますか?」
「はい。お願いします」
客には見覚えがあった。
男女二組でツインルームを利用していたが、男の方の影は見えない。
二人で外に出て、女のみが慌てて部屋に戻ったのをちらっと確認したことを覚えている。
たまにチェックアウトし忘れる客や忘れ物をして取りに戻って来る客がいるため、たぶん目の前の女はその両方なんだろうと澄ました顔で従業員はやりとりを続けた。
内心でほぼ手ぶらのいい年をした男女がビジネスホテルをラブホテル代わりにするのは如何なものかと思いながら。
「当ホテルをご利用いただき、ありがとうございます」
苦情が来なかっただけマシであろう。
大して珍しいことでもないと従業員は顔色を変えずににこやかに対応する。
「またのお越しをお待ち申し上げます」
「ありがとうございました」
律儀にお辞儀を返す客にほんの少しだけ好感度が上がったが、すぐに多くいる客の一人としてその印象はその他大勢に溶けて紛れた。
見送ったはずの従業員の目の前で、その客がホテルを出ることなくまた部屋の方へ戻って行く。
再びエレベーターで、チェックアウトした部屋とはまた違う階へと。
対応していた従業員も、ちらほらと周りにいた客も誰一人その行動を不審に思うことはなかった。
誰一人として。
ホテルの騒めきが少しずつ賑やかになって行くのを、従業員は欠伸を噛み殺していつものように見守った。
なんてことのない一日がまた過ぎていく。
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