奥様はとても献身的

埴輪

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≪現在①≫

2 喫茶店で再会

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 文香とは三年前に離婚した。
 原因は優の浮気だが、それを知る者は少ない。

 学生の頃から付き合い、二人とも互いが初めての恋人で周囲に祝福されながら結婚した。
 事務員の仕事を続けながらも文香は献身的に優に尽くしてくれたし、優もまたなるべく家事を手伝い二人で仕事を分担しながら平和に慎ましい結婚生活を送っていた。
 昔から人に流されやすくおっとりとした優と、真面目で芯の強い文香は相性が良かった。
 性格が違うからこそお互い惹かれたのかもしれない。

 優は自分に厳しいあまりにどこか不器用で危うい文香を。
 文香は優しすぎるあまりにいつも貧乏くじをひくお人よしの優を。

 互いを生涯のパートナーとして、結婚したいと願うほど好きだった。

 もう、昔の話だが。






 優は先ほどから何度もスマホや店の外を気にしていた。
 喫茶店のドアベルが鳴る度に振り向いてしまう。
 約束の時間まで後30分はある。
 時間に正確な文香は必ず約束の15分前には待ち合わせ場所に着くのだ。
 一方優は元来ルーズな性格のため大抵いつも遅刻してしまう。
 それが何度も許されるのが優の人柄だった。

 そんな優は約束の時間より三時間も早くそこで待っていた。
 もう何度珈琲をお代わりしたかも覚えていない。
 一睡もできず、目の下の隈はいつも以上に濃かった。
 胃が空っぽな状態で珈琲を飲み続けるのは良くないと知りながらも途中で昼食として注文したサンドイッチは少し口をつけただけでお腹がいっぱいになった。
 正しくは胸が苦しく何も食べたくないのだ。
 店員には待ち合わせしていると告げたが、きっとそわそわと貧乏揺すりしながら顔を赤く、時には青くする優を不審に思っているだろう。
 何度も伺うような視線を送られたが、いっぱいいっぱいの優は気づかない。

 ちくたくと店内の古い時計の針の音が遅いような速いような、奇妙なテンポで優の頭の中に響く。
 何度も真夜中のあの電話の履歴を確認した。
 夢だったのではないかと、何度も何度も。

 そして夢ではないと認めた頃には陽が大分高くなっていた。
 そこから優は無我夢中で顔を洗い、歯を磨き、髭を剃り、久しぶりに箪笥の中を漁った。
 仕事着以外はほとんど着なくなり、所謂プライベート用の服はクリーニングにも出さずに放置していたため湿っぽくかび臭い。
 いつ買ったのかも忘れた消臭スプレーを吹きかけ、一番皺の少ない服を着込み、靴箱の中身を散乱させながら靴を履き替える。
 家を出た後にシャワーを浴びれば良かったと少し後悔した。

 学生の頃、よく二人でお茶した喫茶店に入り、それから三時間ずっと待ち続けている。
 緊張で頭が可笑しくなりそうだった。
 別れてから吸う様になった煙草を口に銜えては、箱に戻すのを繰り返す。
 再会した文香に煙草臭いと思われたくなかった。
 緊張と口寂しさを誤魔化すように珈琲をお代わりし、より店員に不審がられた。

 そんな傍から見ると非常に怪しげな優の行動ももうすぐ終わる。

 きっかり約束の時間の15分前。
 優の元妻である文香が来店を知らせるベルとともに店に入って来た。

 ベルの音に反応して振り返った優の目に、三年前と変わらない生真面目な表情を浮かべる元妻の顔が飛び込んで来る。

「文香……」

 喉が絡みつくような不快感を気にする余裕もない。
 文香もまた優に気づいたようだ。
 店員に優のテーブルを差し、そしてこちらに歩み寄って来る。
 一瞬でも目を離したら煙となって消えてしまいそうで、優は瞬きもせずに懐かしい文香の全身を凝視する。
 春色のワンピースにふんわりとしたカーディガン、控えめな音を立てる華奢なサンダル。
 三年前の文香には見られない服装だった。
 シンプルなものを好み、物持ちの良い文香はいつも似たような服装をしていたことを優は思い出した。
 地味というよりも控えめで、似たような服を着まわしているはずなのにいつも清潔感を漂わせていた。

 今、優の視界に映り込む文香を優は知らない。
 当たり前だ。
 もう三年も会っていなかったのだ。
 一瞬、人違いかと思ったが、優が文香を間違えるはずもなかった。

 その証拠に文香は優の視線に困ったように少し笑った。
 漸く、優の知っている文香を見つけた気がした。

(そうだ、文香はこんな風に笑うんだっけ……)

 長い付き合いだった。
 学生の頃の出会いから始まり、三年間の穏やかな結婚生活。
 もしも、二人が離婚さえしなければ、かれこれ十年の付き合いになる。
 だが、現実の二人は三年前に離婚し、その後音信不通となった。

 たった三年、されど三年。
 別離の間に優の記憶は少しずつぼやけ、いつの間にか文香の表情や仕草が薄れて行った。
 それは優にとってとても苦しく辛いものだ。

 自分に傷つく権利などないと知りながらも、文香と別れてから優はずっと彼女を求めていた。
 狂おしいほど。

「……久しぶり」

 目の前の椅子に腰かける文香から目を逸らすことができない。
 どこか他人行儀な声色に優は息がつまりそうだった。
 知らない服装に、一瞬だけ鼻腔を擽った甘い匂い。
 化粧が変わったからか、文香はまるで別人のようだ。
 昔は明るい色を避けていたのに、今の文香の顔は華やかさに満ちていた。
 その色使いは意外なほど文香によく似合っていて、優は嬉しいのか悔しいのかも分からない切なさを感じた。

「ああ…… 本当に、久しぶり、だな」

 ずっと、会いたかった。
 会いたくて堪らなかったと、出来ることなら大声で叫びたい。

「ごめんなさい、突然呼び出して」
「……謝るなよ。俺は、むしろ…… こうやって、また文香と会うことができて嬉しいから……」

 語尾がどんどん弱くなる。
 文香はいつも優と話すときに目を合わせて来る。
 最後に見た文香の視線を優は忘れていなかった。

 今の文香の目に映る自分がなんだかとても薄汚く、情けない存在に思えて、気づけば優は膝に置かれた自分の手の甲を睨みつけていた。
 日焼けをすることもなくなり、随分と白く弱弱しくなった手に過ぎ去った年月の長さ、文香を失ってからの空虚な日々が頭を過ぎる。
 できることなら、今この場でもう一度謝りたい。
 だが、それを文香はきっと望んでいないのだ。
 優はもう二度と文香を傷つけたくない。

(いや、違う…… 俺は、ただ……)

 ぎゅっとズボンを握りしめ、歯を食いしばる。
 分かっていた。
 どれだけ綺麗な言葉で飾り立てても、結局のところ優は怖いだけなのだ。

 もう一度、文香に拒絶されることが。

「ありがとう…… 優に…… 香山さんにそう言ってもらえて」
「……」

 どこか言いづらそうに、かつては文香自身も名乗っていた苗字で呼ばれた優は胸を抉られるような痛みを覚えた。

「なんか、変だな…… 文香に、香山って呼ばれるの」
「うん…… 初めて出会ったとき以来だね。私も、呼んでみて違和感たっぷりだった」

 ふふふ、と文香ははにかんだように笑う。
 その柔らかな笑みと穏やかな雰囲気は優と別れた三年の間に生まれたものだった。
 優は見慣れない文香の姿に、その態度に当惑し、次いで可憐といってもいい仕草に頬が熱くなった。
 優の知る文香はこんな場でこんな風に柔らかく言葉を返すような器用さも器量さも持ち合わせていなかったからだ。
 三年の間に文香にどんな心境の変化があったのか、優は知らない。

「なら、前と同じように…… 名前で呼んでくれない、か?」 

 穏やかな文香の表情に優の口が勝手に動いた。

「……優が、それを許してくれるのなら」
「許すも何も…… 俺がそう呼んでほしいだけなんだ」
「……迷惑じゃない?」
「迷惑なわけないだろ!」

 文香の台詞に慌てて否定する優は本人も自覚するほど興奮していた。
 すぐに慌てたように口を閉ざす優に文香は呆れることなく、微笑んだ。

「ありがとう、優」

 それが堪らなく優には嬉しかった。

「……それで、早速で悪いんだけど。今日、呼び出したのはね…… 優に頼みたいことがあるからなの」
「電話で、言ってたことか?」

 電話でも確か文香はそう言っていた。
 詳しいことは直接話したいと。

「うん…… こんなこと頼める人、優以外思い浮かばなくて……」

 言いづらいことなのか、文香の視線が運ばれて来た紅茶に向けられる。
 思い出したようにティーカップに口をつける文香の仕草は懐かしいものだった。
 唯一違うのは、その左手の薬指に何も飾られていないことぐらいだ。
 かつてその薬指には結婚指輪と婚約指輪が嵌められていた。
 それが無くなったことに傷つく自分と、ほっとする自分が共存する。
 この三年間、もしも文香が他の男と付き合ったら、結婚していたらという恐怖と嫉妬に優は苛まれて来たのだから。
 まさかこんな状況でそれを確認できるとは思わなかった。
 複雑な自分の感情を誤魔化すように何杯目かも分からない珈琲に優も口をつける。

「頼み事をしたいんだけど…… その前に、質問してもいいかな?」
「質問?」
「今、好きな人とかいる?」
「え」

 危うくコーヒーカップを落すところだった。

「もしかして、今付き合ってる人がいるとか? それか、もう既に再婚しちゃったり」
「してないっ、そんな、再婚なんてするわけないだろう!?」

 文香の台詞を最後まで聞く余裕もなく優は全力で否定した。
 その額には焦りのあまり冷や汗が浮き出ている。
 そんなことありえなかった。
 優はこんなにも文香に未練たらたらで、今だって怖いぐらいに再会した文香の全部に年甲斐もなくときめいているのだから。
 文香と付き合う前だってこんなにドキドキしなかった。
 だが、そんな感情は今更すぎるもので、ときめけばときめくほど、まだ好きだと、愛していると実感すればするほど心を切り刻まれるような痛みに襲われる。

 優の葛藤など知らず、文香はあからさまにホッとしたような表情を浮かべ小さく「良かった」と呟いた。

「へぇ、意外かも。もう再婚しててもおかしくないって思ってたから」

 今度は味わうように紅茶を飲む文香と違い、優はその台詞に頭から冷水をぶっかけられたような気がした。
 文香の言葉には棘も嫌味も恨みもない。

「そっか…… なら、今は独り身なんだね」

 口を開いては閉じ、結局優は沈黙を選んだ。
 文香の他愛のない台詞に、その真意を掴もうと、或いはもう一度謝罪をしようと開きかけた口は結局沈黙を選んだ。
 それはとても賢明なことであり、この三年間で優もまた変わったということだ。
 臆病になったともいう。

 沈黙が落ちた。
 店の中の騒めきから切り離され、優と文香の二人だけが別世界に迷い込んでしまったみたいだ。
 現実逃避にも似た考えに、優は自嘲する。
 ほんの少しだけ、自身のその拙い妄想に幸せを感じた自分が可笑しかった。

 そんな、優にとっては苦くも微かに甘い沈黙の生は短かった。
 沈黙を生み出すきっかけを作ったのが文香であれば、それを摘み取るのもまた文香だった。
 唇を湿らしている内に、文香は漸く意を決したのか、ゆっくりとティーカップを下す。
 文香の視線が真っ直ぐ、優に向けられる。
 その視線に、吸い寄せられるように優の手はカップを持ったまま動けなくなった。

「優に、お願いがあるの」

 ちらっと、周囲を伺い、微かに眉間に皺を寄せて唇をきゅっと噛む。
 文香が緊張しているときの癖だった。
 もしくは、何かを躊躇うときの。

 昔と変わらない文香の仕草に吸い寄せられるように優はテーブル越しに顔を寄せる。
 無意識の行動を懐かしく思った。
 昔はよくこうして互いの耳に他愛のない秘密を洩らしたものだ。

 文香は一体優に何を頼みたいのか。
 三年越しに会いたいと願うほど。
 優にしか頼めないことなら、疚しい気持ちを抜きにしても優は全力でそれに応えたかった。

(何か、トラブルにでも遭ったのか? 詐欺? 事故? 借金?)

 どんなことであれ、文香を助けることができるのならなんだっていい。
 慰謝料すら拒まれた優にとって、文香の頼み事は救いであり贖罪だった。
 文香が優を頼るほど切羽詰まっていることを心配する気持ちと裏腹に、期待している自分もいる。
 本当に、自分はどうしようもない屑野郎だと優は思った。

 だが、文香の頼み事は彼にとってまったく予想のつかないものだった。
 むしろ、予想してはいけない類のものだ。

 無言で近づいて来た優に、文香は一度唾を呑み込んでから、その耳にお願い事を囁いた。
 電話越しに聴いたのと同じ、強張り擦れた声だ。

 はじめ、優はそれを幻聴だと思った。


「私を、抱いて欲しい」


 その言葉の意味を認識するのに時間がかかった。
 動かなくなった優に焦れたのか、本来短気である文香は追い打ちをかけるように、切羽詰まった声でもう一度囁く。
 遠まわしすぎたかと、今度はもっと直接的に伝えることにした。

「お願い、私とセックスして」

 身を乗り出すようにして懇願する文香に、優は呆然とするほかなかった。



* *


 しばらくして、ガタッと、テーブルの上一面に黒い沁みが広がった。
 零れた珈琲の匂いが辺りに充満する。
 白いテーブルを侵食する黒い沁みは優の混乱した思考そのものだった。

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