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火傷
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しおりを挟む暗闇が広がっていた。
地下の牢獄には常に湿気と血や糞尿が混じった腐った匂いが充満している。
どこからか水が垂れる音と遠くから聞こえる微かな叫び声が時折カイルの耳に入る。
カイルはもう何日もその牢獄で苦しんでいた。
ディエゴに無惨に負け、そしてその後気絶して目覚めたときには地下の牢獄で両手両足を鎖で縛られていた。
自害させないように猿轡を噛まされ、不定期に水と腐りかけた残飯を与えられるときにだけそれは外される。
切れてしまった口内の痛みと鼻で呼吸するたびに酸っぱいような、それでいて錆びた鉄のような匂いに何度も吐きそうになった。
ディエゴに傷つけられた肉体は雑に包帯で巻かれ、無表情の牢番が時折カイルが死なない程度に様子を観察して治療した。
牢獄で目が覚めた後に松明を掲げて一人でディエゴは牢獄にやって来た。
食事と治療をたまにする牢番以外、基本その広い牢獄にはカイルのみがいた。
柵の向こうには見たこともない道具や薬が置かれ、それらが拷問のためのものだと気づくのに時間はかからなかった。
カイルは肉体的な苦痛と精神的な絶望で極限状態にあった。
いつ、狂っても可笑しくないほどカイルは消耗し、焦っていた。
メリッサがまだ生きていることをカイルは知っていた。
ディエゴが初めにメリッサを殺さないことを明言し、そしてメリッサの願いのためにカイルを飼っていること、もしもカイルが逃げ出そうとする素振りを見せればその咎はメリッサに行くと言われた。
元々傷だらけの身体で鎖に四肢を拘束されていたカイルはそれに従うしかなかった。
ディエゴの恨みと憎悪を向けられ、それが今もカイルを痛みで唸らせる。
痛みの中でもカイルは常にメリッサのことを考えた。
そして、目覚めたカイルにディエゴが語った真実が、彼を更に絶望させた。
メリッサへの愛と、今は亡き国王への困惑と哀れみがカイルの精神を蝕んでいた。
ひたすら国王が愚かであり、そして自身の存在が国の運命を、ディエゴとメリッサの運命を変えた元凶であることがカイルを絶望させる。
カイルさえこの世に生まれなければ、あるいは騎士になるなどという不相応な夢を抱かなければ。
国王と、そしてそれに連鎖するディエゴの凶行は起きなかったはずだ。
それでもカイルはメリッサを想い、彼女への愛情と後悔を抱くことで狂いそうな精神をなんとか保っていた。
今も意識が朦朧とした中でカイルはずっとメリッサの名を心の中で呟いた。
届くはずはないと思いながら、カイルは妻の名を呼んだ。
ふと、辺りが少し明るくなったのが分かった。
「カイル!」
初め、それは幻聴だとカイルは思った。
*
メリッサは逸る気持ちで女官の手から牢の鍵を奪い、強烈なまでの悪臭を漂わせ、壁に四肢を磔にされているカイルの側に駆け寄った。
足首の鎖が取り払われ、雲の上をかけているような気がした。
女官の手に持っていた燭台に挿された松明だけでは牢の隅々まで照らすことができず、途中で転びそうになりながら、メリッサはカイルの影と苦痛に満ちた呼吸音を頼りに抱き着いた。
風呂にもいれられず、汗と化膿、そして糞尿の匂いがメリッサの鼻に強烈な刺激を与えたが、その匂いこそがカイルがまだ生きている証だと思い、汚れるのも構わずにそのまま胸板に頬をすりつけた。
カイルの弱弱しい鼓動に、涙が溢れる。
近くに来てもカイルの顔は暗すぎて見えなかった。
カイルは朦朧とした意識から確かにメリッサの声を拾いあげ、そして温かく柔らかな懐かしいメリッサの身体を感じ、これが現実だと知ると首を伸ばしてメリッサの顔を確認しようとした。
カイルを縛る鎖が激しく暴れる。
牢番に賄賂を渡しているとはいえ、目立つことはできない。
メリッサは慌てて、カイルに大人しくしているよう囁く。
少し冷静になったカイルは、自分に縋り付いているのが本物のメリッサだと知ると何故ここにいるのかという疑問と久方ぶりに感じるメリッサの体温を愛しく思うよりも先に恐怖した。
メリッサは他にもう一人いる女に灯りをつけてほしいと言う。
カイルの鼓動は大きく跳ね、痛みやメリッサの制止を振り切って暴れた。
灯りをつけることを阻止したかった。
だが、口を封じられているカイルがそれを告げれるはずはなく、メリッサを牢獄に連れて来た女官は躊躇いもなくカイルが磔にされている両側の燭台の松明に火を移した。
そして、眩しくなった視界に目を細めながら、メリッサはカイルの無事を確かめようと抱き着いたままその顔を見上げた。
見上げたメリッサの目に映ったのはカイルの怯えた表情と。
その顔の焼き印だ。
* *
ディエゴが家畜には焼き印が必要だと、笑いながらカイルの右顔面に焼鏝を押し付けた。
そのときのディエゴの歪んだ笑みと皮膚が焼かれる苦痛は、今だカイルの中に生々しく残り何度も悪夢を見た。
だが、本当の悪夢はその続きである。
苦痛で叫び暴れるカイルの耳に、何故かディエゴの淡々とした台詞があの時はよく聞こえた。
そんな顔では俺と同じ様にメリッサはお前を嫌い、裏切り、捨てるだろう、と。
醜くなったその顔ではメリッサは二度とお前を愛さない、と。
焼印を押される夢の続きには必ずメリッサがいた。
カイルが見たことのないような恐怖と嫌悪に満ちたメリッサがカイルを拒絶する夢である。
醜くなった自分をメリッサは受け止めてくれるのか。
その恐怖に対する答えのように悪夢が延々とカイルを苦しめていたのだ。
そして、ついにメリッサに顔を見られてしまった。
カイルの恐怖に満ちた視線に気づかず、メリッサは呆然とカイルの醜く焼かれ、爛れた皮膚を見ていた。
その視線を避けるようにカイルは俯き顔を逸らした。
メリッサを愛していても、ディエゴが語るメリッサの心変わりの急激さと冷たさを知っている。
どんなに愛しても、もうメリッサの愛は醜いカイルのせいで冷めてしまったのだと。
責める気持ちはない。
戦に負け捉えられ、能無しの家畜として屈辱の焼印を押されたまま生かされている自分はメリッサに相応しくない。
カイルは必死に荒れ狂う自分を抑えようとした。
メリッサのためにどんな屈辱も苦痛も耐えようと誓ったのに、メリッサからの愛が失われたと分かった途端、このまま死んでしまいたいと強く思ってしまう。
このままではメリッサを無理やり道連れにして心中したくなる自分への焦燥もあった。
メリッサの反応が怖ろしく、目を合わすことができないままのカイルにメリッサは震える声で囁いた。
「……お兄様が、やったのね」
口の聞けないカイルの頬を、メリッサの手が添えられた。
驚くカイルを下から見上げ、メリッサは今だ癒えていない生々しい焼印の痕をそっとなぞるように触れる。
満足な治療がされなかったせいで、指には湿った粘液がついた。
メリッサはあまりにも残酷なことをしたディエゴを恨み、哀れんだ。
何よりも一生消えない焼印という、罪人の印を顔に刻まれたカイルに申し訳なく思い、その痛々しい傷をなんとか癒してやりたかった。
「ごめんなさい…… 私のせいで」
メリッサと国王のせいで。
カイルをこんな辛い目に遭わせてしまった負い目と、それでもカイルが確かに生きているという安堵に、メリッサは涙を流して強くその身体にしがみ付いた。
「ごめんなさい…… それでも、貴方が好きなの。カイルを愛してる」
どうか、この罪深い自分が愛することを許して欲しいと、メリッサはその顔に両手を添えて口づけができない代わりに痛々しい傷跡にそっと唇を近づけた。
メリッサが自分の傷跡を見ても受け入れ、更には愛していると囁かれたカイルは初め信じられなかった。
そして、あの運命の日以来のメリッサの愛の告白に、カイルは夢を見ているような、途方もない幸福に酔いしれた。
かつてないほどの憎悪が込められた、ディエゴの鋭い怒声を聞くまでは。
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