毒殺された男

埴輪

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絶望

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 メリッサは目の前で不躾にも王女である自分を睨む女官の名を思い出そうとした。
 ディエゴが幼少の頃から仕えていたという女官で、顔も名前も知っていたはずなのに思い出せない。
 あんなに優しくしてくれたディエゴへの愛情すら冷めてしまったのだから、それにくっついていた金魚の糞など当に忘れてしまっても不思議ではない。
 ディエゴが最後にメリッサに別れを告げたいという名目でメリッサは女官に呼び出された。
 メリッサにはもうディエゴに対する情はなかったが、それでも恩は感じている。
 一言二言話を聞いたら戻るという条件でメリッサは女官の後を付いて行った。
 これ以上メリッサがディエゴを傷つけないよう、侍女達はなるべくメリッサとディエゴの面会の機会を邪魔してきた。
 メリッサには非常に有難かったが、もうすぐ隣国にディエゴが行くのを知っていたメリッサは最後の別れならば少しは我慢する気でいた。
 客観的に見てもメリッサの考えは傲慢であり、薄情で冷酷だ。
 誰よりもメリッサはそのことを自覚しながらも、今だにディエゴの変わり果てた姿を思い浮かべるだけで記憶が穢れた気がして吐き気がするのだ。

 メリッサは出来ることならディエゴの姿を二度と見たくなかった。
 メリッサが愛したディエゴはあの日毒殺されたのだと思うようにしている。
 記憶の中の凛々しくも逞しいディエゴこそがメリッサの愛する人なのだから。

 そんな風なことをここ最近何度も考えてしまう。
 ディエゴとの思い出は多すぎた。
 それはもうメリッサの歴史であり、生きた証なのだ。
 ディエゴの痛々しい姿を上書きするように、メリッサはいつもぼうとしながらディエゴの思い出を少しずつ思い出して大事に心の奥にしまうという作業に没頭していた。
 それを中断して女官の後について来たというのに、その女官はディエゴとよく遊んだ庭園に連れて来た途端に失礼にもメリッサを睨み、そしてその非情さを責め立て始めた。
 今までディエゴがどれだけメリッサに尽くしてきたのかと、この恩知らずという罵倒から始まり、ディエゴがどれだけの苦痛に耐えて来たことかと涙混じりに語る。
 悲愴な傷を負って一番苦しんでいたのはディエゴであり、それを拒絶するメリッサの非人道的な思考の否定、そしてメリッサのたかだか外見が変わったぐらいで人を愛せなくなる幼稚さと愚かを嘲った。

 メリッサは連れてこられた庭園に咲き乱れる花や木々を見つめながら、昔ここでディエゴに花冠を作ったこと、あそこに植えられた木はディエゴとメリッサが植えたものだと懐かしんでいた。
 一方的な話が終わったらしい女官をメリッサは温度のない視線で見据える。
 睨みつける女官は幼いメリッサよりも視線が上にある。
 今更ながら王女であるメリッサを前にして跪かないその豪胆さに感心するべきか呆れるべきか。
 話が終わったのなら、一応返事をしてやるだけの寛大さはある。

「そうね、お前の言う通りだわ」

 女官の言うことは全て正しい。
 正しすぎて、メリッサは愉快な気持ちになった。
 不敬罪で罰してやろうかとも思ったが、痛いことが嫌いなメリッサは理不尽に人を罰することを嫌っていた。
 それなのに、ディエゴを傷つけることに躊躇いがないのだ。
 本当はメリッサ自身が一番自分の気持ちの唐突すぎる変化に戸惑い、もう何度も絶望した。
 ディエゴが眠っていた間もメリッサはずっと己を責めながら葛藤し、そして全てを諦めた。
 そして、メリッサは変わったのだ。

 女官の言う通り、メリッサは欠陥品だ。
 それを認めることでメリッサは漸く息をすることができた。

 だからと言ってメリッサは他人に自分も苦しんだと被害者のように訴えることをしない。
 どんな言い訳をしようとも、ディエゴをメリッサは裏切り、そして彼を傷つけたことに変わりはなく、メリッサの葛藤など比べる方が馬鹿らしいほどディエゴの苦しみは大きいと知っているからだ。
 そして、それを知りながらもディエゴを嫌い、遠ざけようとする自身が不思議で仕方がなかった。

「で? それで一体私にどうしてほしいわけ?」

 メリッサの不遜な態度に、女官はその場に跪いて頭を垂れる。

「……少しでも、王太子殿下のお心をご理解くだされば良いのです」

 このまま不敬罪に問われて処刑されても構わないという意志とディエゴへの思いが彼女を突き動かしていた。
 その忠実な女官のいじらしい姿を見ても、メリッサは不快に思うことも面白いと思うこともなかった。

 だだ、面の皮の厚さならばメリッサも目の前の女官も変わらないのかもしれないと思っただけだ。

「さすが、お兄様のお手付きの女官は他と違って度胸があるわね」
「……なっ」

 慌てて目を見開く女官の顔を侮蔑の籠ったメリッサの視線が射抜く。
 普段は控えめにディエゴの後ろに付き従う女官とディエゴがとうの昔から肉体の関係があることをメリッサは知っている。
 まさか、メリッサが気づいていないとでも思っていたのか。
 ディエゴも、目の前の女官も、その他何食わぬ顔でディエゴに抱かれた女達も。
 一体彼らの目にメリッサはどのように映っているのか。
 どうやらメリッサは物を知らない幼子だと思われているようだ。

 顔を青褪める女官を哀れみながら、メリッサは淡々と告げる。

「別にお前を責めてはいない。私の気持ちがお兄様にあったときから既に知っていたことだ。嫉妬はしたけど、まだ幼い私ではお兄様の相手は務まらぬことぐらい知っていたから。お前も含めて、お兄様が気に入った女達に何かするつもりはないわよ」

 鈴を転がしたような可憐な少女の声を聴きながら、女官は冷や汗を垂らした。
 メリッサのディエゴに対する冷酷な仕打ちに納得のいかない女官は少しでもメリッサの良心に訴えかけようと思って死を覚悟して行動した。
 ディエゴがどれだけメリッサを特別扱いし、大事にしてきたことか。
 間近で愛する男の愛を独占するメリッサに女官が一体どれだけ嫉妬したことか。
 ディエゴが過度に出しゃばらない女官の態度と肉体、献身さを気に入って抱くようになっても、それは一時の優越感にしかならず、ディエゴがメリッサと婚約した後は虚しさだけを抱えて過ごしていた。
 それなのに、メリッサはいとも簡単にディエゴを拒絶し、今までの恩情を忘れて婚約を破棄してディエゴを捨てようとしている。
 なんて身勝手で、身の程知らずな小娘だと、女官は今この場でその細い首を絞殺しない自分を不思議にすら思っていた。

 だが、今このとき。
 真綿のように優しく首を絞められているのは女官の方である。

 メリッサは可憐な唇から女官を哀れむように言葉を紡ぐ。

「お前は昔からお兄様の側に仕えていたわね。私が生まれた時から、お前達の関係が出来ていたことも知っているし、何度かお兄様とお前が隠れて口づけていたところも見ていたもの。むしろ、城では暗黙の了解で、お前も少しは贔屓されていたものね」

 話し続けながら、メリッサはなんて不毛な時間を過ごしているのかと嘆いだ。
 昔は何度も嫉妬したが、今のメリッサはディエゴの愛情など迷惑でしかない。

「まさか、城の中で私だけが知らないとでも思っていたの?」
「も、申し訳ございません! 私のような身の程知らずが……」

 先ほど威勢よくメリッサを怒鳴りつけていた時の方がよっぼど身の程知らずだとメリッサは冷静に思ったが、あえて言わなかった。
 女官の言うことは全てメリッサが自分自身に何度も問いかけて詰った言葉だから。
 ただ、言われなくとも分かっていることをきゃんきゃん吠えたてられたことに対する仕返しと、メリッサのどうしようもないディエゴに対する嫌悪だけは伝えようと思った。

「お前、今もお兄様の相手をしてるの?」

 頬を一瞬で染めた女官の表情が答えだ。
 メリッサは心底感心したように、そして、その気持ちの悪い身体から一歩離れた。

「よく、あんな化け物と寝られるわね。心底尊敬するわ」

 今だ、少女といえる年頃の娘とは思えない嘲笑を浮かべる。

「男と女の同衾って、裸になってくっついて厭らしいことをするんでしょう? 気持ち悪いわ…… あんな化け物みたいな男に肌を触られるなんて……」

 想像しただけで気分が悪くなるのか、メリッサは顔を青褪めさせる。

「あの男に抱かれるなんて絶対に無理よ。他のどんな男でもいいけれど、私はあの男、化け物になったお兄様だけは嫌。裸なんて見ただけでその場で吐いてしまう自信があるわ」

 メリッサのあまりの侮辱の言葉に、女官は怒りと果ての無い無気力感に包まれていた。
 目の前の王女に何を言っても届かないのだという諦めである。

「……王女殿下、貴方は最低だわ」
「知ってるわよ」

 吐き捨てる女官に、メリッサは怒るではなく淡々と返す。
 たかだか女官如きに言われなくとも、メリッサは十分に自分の仕打ちの惨さを知っている。
 
 仕方がないのだ。

「だって、死ぬほどあの化け物が気持ち悪いんですもの」

 もしもこの場にディエゴ本人がいたとしても、メリッサは同じように答えただろう。
 隠れて二人の遣り取りを聞いていたディエゴの絶望した姿を見ても、メリッサは哀れまない。
 これ以上傷つきたくないのなら、早く隣国でも地獄でもどこにでも行ってしまえとメリッサは思う。
 メリッサはもう過去のディエゴを悼むだけで手一杯なのだ。
 醜くなったディエゴに構っている暇はない。

 メリッサの残酷なまでの純粋な本音を聞いたディエゴがどれだけ絶望したことか。
 ディエゴが自害を考えるほど絶望したことを知っても、メリッサはどうでも良いと答えるだろう。



* 


 絶望の先には希望があるという。
 確かに自害することを望んだディエゴはその先に生きる目標を見つけた。
 だがディエゴが絶望の先に見たのは希望ではなかった。

 その先には更なる絶望が彼を待ち受けていたのだ。

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