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崩壊
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しおりを挟むメリッサは、呆然としたまま、国王に手を引かれながらディエゴが寝かされた寝台に近づいた。
争い事を知らず、知らされずにただ甘やかされて育てられたメリッサは目の前の光景を見て、ただただ怯えて全身を震わせることしかできなかった。
今、目の前で包帯を巻かれて、縛られながらも暴れようとする男が、いや生き物が本当にあのディエゴなのか。
メリッサが大好きな、あのディエゴだということが信じられなかった。
目を大きく見開いたまま硬直するメリッサを見下す国王に、周囲の者が今のディエゴに幼い王女を会わせるのは気の毒だと忠言する。
だが、国王はあえてその言葉を無視し、メリッサの背を押す。
「ほら、メリッサ。ディエゴに呼びかけてごらん。お前の声ならば、聞こえるかもしれん」
メリッサ。
その名に、悶え苦しんでいたはずのディエゴが激しく反応した。
「メリッサ……? メリッサっ」
「ぁ……」
聞いたことのない獣のような呻きに、メリッサは後ずさり、国王の袖を強く握りしめる。
その動きを、意識のないまま、感覚のみで捉えたディエゴは大事な従妹であり、婚約者である幼い少女の腕を包帯に包まれた手でがしっと掴んだ。
メリッサが思わず反射的に悲鳴をあげ、その手から逃れようとする。
今更ながら、ディエゴの身体から薬の匂いと強烈な悪臭が立ち籠っていることにメリッサは気づいた。
そして、包帯が巻かれたその逞しい手や腕、肩。
更にディエゴの顔面半分を覆っているのだ。
薄汚れた体液が染みてる包帯からはみ出た部位の、火傷のような傷跡にメリッサは恐怖した。
戦争から帰還した兵達の怪我した姿を何度も見た。
酷い火傷を負った者、手足を失った者、耳や鼻を削がれた者。
ディエゴが過去に負傷した姿も見て来たというのに。
何故、今自分はこんなにもディエゴに怯えるのだろう。
目の前で狂ったように呻く男の何に怯えているのだろうか。
「メリッサ…… メリッサ……」
いや、違う。
怯えだけではない。
メリッサはもっともっと、酷いことを考えている。
今、この瞬間。
ディエゴの哀れな姿を見た瞬間から、メリッサはとても酷いことを思った。
*
腕を掴むディエゴの力はどんどん強くなる。
「っ……」
メリッサは痛みと恐怖で、その手を剥がそうと手をかけた。
それを察したのか、ディエゴは突然包帯が巻かれていない方の左目を見開き、人が発したとは思えない悲鳴と怒号を響かせて起き上がろうとする。
ディエゴが暴れないために、無事な方の左腕や足、そして腰には太い紐のようなもので寝台に結ばれているため、起き上がることはなかった。
だが、その尋常ではないディエゴの苦しみのた打ち回る様子、そして激しい憎悪でぎらつく悪鬼のような表情はその半分を包帯で覆っても隠しきれなかった。
その怒気に当てられたメリッサはディエゴの手が離された途端、力が抜けたようにその場に倒れそうになったほどだ。
腰を抜かしたメリッサを背後にいた国王が支える。
まだ幼いメリッサは大きな衝撃を受けた。
ディエゴの変わり果てた姿に。
自身の心に。
「お兄様……」
婚約したため、なるべく普段からでも慣れるようにとこの頃はディエゴの名をメリッサは読んでいた。
そんなことも忘れてしまうほどの衝撃だったのだ。
メリッサの擦れた声に反応したディエゴは、その時奇跡的に一瞬だけ意識を回復した。
のろのろとメリッサをじっと見るディエゴ。
ディエゴのその強すぎる片目の視線に、メリッサは息を呑んで目を逸らすことができなかった。
「メリッサ……」
喉にも深い傷を負ったらしいディエゴの枯れた声にはそれでも十分すぎる愛情が感じられた。
今も死ぬほど辛いはずなのに、その目には優しい色が宿っている。
ディエゴの精神力とメリッサへの深い愛情に、側で見守っていた人々は目を潤ませた。
メリッサと国王だけは凍り付いたように、ただディエゴの顔を凝視している。
今のディエゴは一瞬だけ悪夢から覚めた状態だ。
今だ脳は覚醒しておらず、ディエゴは周囲の状況も、メリッサと国王が見せる表情の意味すら分からなかった。
ディエゴはただ、悪夢の中で必死に自分を生に執着させる存在、なんとしても生き残って守るべき存在に思いを伝えたかった。
ただ、それだけなのだ。
「あいしてる」
音にならない、罅割れたディエゴの唇は、確かにそう動いた。
その愛情は、伝わった。
メリッサに、確かに伝わったのだ。
「……い、」
メリッサは反射的に何かを口にしようとした。
そして、なんとかその衝動的な言葉を抑えた。
* *
メリッサは王に涙ながらに謝罪した。
自分自身のあまりにも酷すぎる気持ちの変化に、初めてメリッサは自分を憎いと思った。
そして、とんでもなく酷い、血も涙もない冷血な女だと詰った。
そんなメリッサを国王は酷く優しい表情で慰め、その身体を優しく抱いた。
「いいんだ、メリッサ。それでいいんだよ」
可愛いメリッサ。
お前は本当に良い子だ。
そう言って伯父の国王に慰められながらメリッサは一晩中泣き、目覚めれば自分の気持ちが変わるのではないかと、神に祈り、縋った。
だが、それから数日経ってもメリッサの気持ちは変わらず、ディエゴもまた回復しなかった。
メリッサは頭の良い少女だ。
何日もディエゴに対する懺悔の涙を流し続けた彼女はとうとう諦めて自分の気持ちを受け入れた。
もう、否定することも誤魔化すこともできない。
ディエゴが瀕死の状態でメリッサに愛を告げたとき。
メリッサは喜びも悲しみも哀れみも愛しさも感じなかった。
そして、メリッサは泣き過ぎて乾いた喉で一人、呟いた。
あのとき、ディエゴの愛に対する自身の本音を。
「いやだ」
愛しのディエゴの姿に恐怖し、嫌悪し、そして気持ち悪いと拒絶する自身のあまりの醜さと薄情さに、メリッサは笑い出したい気持ちだった。
もう、ディエゴを愛せない。
あんなディエゴに近づきたくもないと、その夜メリッサは罰せられることを覚悟して王に全てを語った。
王は、あの日と同じ様にメリッサを優しく慰めた。
「メリッサ、お前は悪い子じゃない。それでいいんだよ。それが当たり前なんだ。自分を責めないでくれ、メリッサ」
メリッサはもう、涙を流すことはなかった。
自分にはその資格がなく、もうどれだけ泣いても滑稽なだけだと分かっていたから。
* * *
それからメリッサは変わった。
いや、その本性を露にし、より我儘で傲慢な王女となったのだ。
自分が情も涙も、愛もない卑劣な女だと知ったメリッサに怖いものはなかった。
そして、一月後、死すら覚悟されたディエゴは奇跡的に回復し、漸く目覚めたのだ。
ディエゴが肉体の苦痛と悪夢に苦しみながらメリッサの名を呼ぶ間、メリッサが見舞うことはなかった。
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