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楽園
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しおりを挟むその臣下はディエゴが生まれたときから彼のことをよく知っていた。
もちろん、その従妹であるメリッサの誕生の日のこともよく覚えている。
武が尊ばれ、文官の頂点にいる彼はなかなか日の目を見ることはなかったが、老いてもなお彼の王家への忠誠心は変わらず、いずれ才気溢れるディエゴが即位することを心の底から待ち望んでいた。
歴代のどの王よりもディエゴはきっとこの国を発展させ、より強く豊かにしていくだろうと、彼は信じていた。
今仕えるべき現国王がディエゴとメリッサとの婚姻についてあまり良い顔をしていないのは察していたが、それでも彼は国王の不興を買って出ても若く美しい二人の王族の婚姻を望んでいた。
それがディエゴの望みであり、王家のより良き未来へ繋がるのだと信じていたからだ。
恐れ多くも我が子同然のように見守って来た王太子殿下と王女殿下。
神に愛されたかのように美しい二人の仲睦まじい姿をずっと見て来たのだ。
この二人が離れるところなど想像できず、またしたくないと思っていた。
その臣下はなんの策略も野心もなく、ただ若い二人の王族の幸福を願っていたのだ。
実際に彼の示した案こそが最善だと他の臣下達も内心で思っていた。
何よりも、今だかつてないほどに動揺し、そして戸惑いながらも溢れ出て来る激情を抑えようと左胸を握りしめるディエゴのその真っ赤に染まった表情を見て、反対できる者はいなかった。
そうして、事態は急変した。
*
ディエゴとメリッサの婚姻。
実現すれば大変喜ばしいことである。
だが、問題はディエゴが今だ自身の気持ちを把握していない点にあった。
誰も実際にディエゴがメリッサに対して性愛を抱いているのかどうか確かめてはいない。
確かめれるはずもない。
そのような不敬なことを口にすれば、ディエゴの怒りに触れるどころか斬り殺されても文句を言えないだろう。
また、臣下達にとって確かにディエゴは大事な王太子であったが、それと同時にメリッサもまた王家の純粋な血をひく最後の王女だ。
どちらも国にとって非常に重要な存在であり、いつ絶えるか分からない王家の血を残すためにも双方の婚姻には慎重にならざるを得ない。
ディエゴの気持ちは確かにメリッサにあり、その存在は大きい。
だが、メリッサはどうであろう。
成人したこの歳まで従妹を溺愛するディエゴが今後メリッサを手放すとは思えないが、まだ初潮を迎えたばかりの年頃であるメリッサはその飽きっぽい性格もあり、いつディエゴ以外の異性に靡くか分からない怖さがあった。
ディエゴ以上に強く、逞しく、英気に満ちた男はいないとメリッサは思っているが、それはあくまで幼いが故の視野の狭さによるところも大きい。
国一番の勇者と讃えられるディエゴ以上に優れた男は確かに早々いるものではないだろうが、誰にでも好みというものがある。
メリッサが異性に興味を持ち始め、そしてディエゴとは真逆の優男を好む可能性とてなくはないのだ。
また、それ以前に果たしてメリッサは親子ぐらいに年の離れたディエゴに、家族として慕っていた従兄の妻となることを真に望んでいるのだろうか。
王家の将来を憂う忠臣達の苦悩はなかなか尽きない。
しかし、メリッサとの関係に悩むディエゴはその後見合いの話に見向きする余裕もなくなり、目に見えて荒れていた。
メリッサもまた訳も分からず大好きな従兄に拒絶されたことを嘆き、ろくに食事も喉を通らない状態が続いている。
このままでは若い二人の仲が拗れ、修復できないかもしれない。
それは長年二人の姿を見守って来た臣下達には耐えられないことだった。
* *
しかし、ディエゴや臣下達の迷いや葛藤、不安はあっさり裏切られた。
肝心のメリッサにディエゴとの婚姻をどう思うかと問えば、一瞬戸惑ったのちに、すぐにそれを了承したからだ。
嫌がるどころか、その頬は興奮で上気し、輝くような眼差しで期待に胸膨らませているのが分かる。
逆にメリッサからすればわざわざ確認するまでもないことだった。
一番大好きな従兄とずっと離れずに側にいることができる権利を得れるのだ。
こんなにも喜ばしいことはないと純粋に思っていた。
メリッサにとってディエゴは生まれた時から自分の側にいた兄であり父なのだ。
最大の庇護者であり、その側を離れることも離されることも許せなかった。
そして、どんな身分の女でもディエゴに近づくのは許せない。
そう思う自身をメリッサは幼いながらに女の本能として理解していた。
自分が、ディエゴに恋をしていることを。
だが、いくらメリッサがディエゴを愛しても、我儘だけでディエゴの結婚を阻止したりはできない。
自身もまた王女として身分の釣り合う男のもとへ、いつかは嫁がなければならないと理解していた。
いつかディエゴの一番はメリッサではなくなり、メリッサもまたディエゴへの気持ちを捨てなければならないのだと、ちゃんと理解していたのだ。
だからこそメリッサは今だけ自由に振る舞えるこの時間を大事にし、なるべくディエゴの側にいたいと、いじらしいことを考えていた。
だからこそ、
「メリッサ。俺の妻に…… 未来のこの国の王妃になってくれないか?」
それは、まさに僥倖だった。
* * *
ディエゴへの気持ちを半ば諦めていたメリッサからすれば、それは僥倖としか言い様がなかった。
予想に反してあっさりと承諾したメリッサにディエゴは逆に戸惑ったほどだ。
「お前を傷つけてしまった俺を、許してくれるのか……?」
メリッサを拒絶したことを謝罪し、そして見たこともないような真剣な表情を向けるディエゴ。
ディエゴはメリッサを抱きかかえ、涙で腫れた痛々しい目を見つめながら、懺悔する。
「メリッサ、俺は心底お前が愛しく、大切に思っている。だが、今だ俺は、その愛が親愛なのか、情愛なのか…… 分かっていない」
ディエゴのその率直すぎる言葉を聞いたのはメリッサだけだ。
人払いされたメリッサの宮で、二人は久方ぶりに互いの目を覗き込んだ。
ディエゴのその苦悶に満ちた表情も、弱弱しい声も、全てメリッサに向けられている。
唯一、メリッサにしか見せないディエゴの柔らかな心が曝け出される。
「それでも…… それでも、お前を手放したくない」
まるで獣の呻きのように、顔を真っ赤にして告白するディエゴにメリッサは幼いながらも胸が切なくなった。
「俺の側に…… 妃として、ずっと、いてくれないか?」
力強く握られた手。
大きく硬いディエゴの日に焼けた手と小さく精細なメリッサの白い手は同じ生き物と思えないほど違った。
実際にディエゴのその言葉には拒むことを許さない絶対的な強制力が秘められていた。
生まれついでの王であるディエゴは無意識にこうして命令をする。
本人は気づいていないだろうが、メリッサは長い付き合いでそれを知っているのだ。
幼くとも自尊心の高いメリッサは他者から何かを強要されることを嫌うが、ディエゴだけは好ましく思えた。
たぶん、生まれた瞬間からメリッサはずっとディエゴに恋をしているのだ。
メリッサが満面の笑みでその告白を承諾するのは当然のことだった。
「メリッサも、ずっとお兄様のお側にいたいです」
メリッサはディエゴが何に苦しんでいるか、いまいちよく分かっていなかった。
「お兄様が好き。大好き。ずっと、側に、メリッサの側にいてほしい」
メリッサはディエゴが大好きで、ずっと一緒にいたいと思っている。
そしてディエゴも同じように望み、今それが叶えられようとしているのだ。
何も、悩むことなどないのにとメリッサは笑った。
「メリッサ……」
花咲くように頬を染めるメリッサの、その常にない可憐な表情にディエゴは目を奪われた。
恋する乙女の華やかな表情に胸が高鳴った。
「お兄様の、妃になりたい」
そっと、恥じらうように紡がれた一途な言葉に、ディエゴは全てに許されたような気がした。
この世の全てから、祝福されているような高揚感に包まれた。
* * * *
こうして、血が濃すぎてしまうという国王の反対を押し切ってディエゴとメリッサの婚約は成立した。
気難しく、気性の激しいディエゴを唯一宥めて癒すことができるメリッサ。
我儘で気まぐれなメリッサを唯一諫めることができるディエゴ。
いくら国王が反対しようとしても、相性の良い二人の婚約を祝福する者の方が圧倒的に多かった。
血が濃くなれば身体の弱い子が生まれるという話を聞くが、王家はそもそも近親相姦を繰り返して来た一族なのだ。
それを信じる者は少なく、またそれを認めれば過去の王族を否定することになる。
国の法でも従兄妹同士の婚姻は認められているため、国王のその拒絶をまともに受け取る者はいなかった。
何よりも次代の国王であるディエゴが望み、その隣りにいるのが最も相応しいのはメリッサだと本人が主張しているのだ。
若く、美しく、健康で身分もあり、教養もある。
少し悪戯っぽいところはあるが、頭の回転も悪くない。
そして常に他国から恨みを買い、裏切りや報復の脅威に晒されて来た国にとって、決して祖国を裏切らない純粋たる王家の血をひくメリッサはある意味では理想の妃候補であり、未来の国母としても相応しいと人々は思った。
こうして、渋々婚約を認めた国王と裏腹に大半の臣下や民達は見目麗しいディエゴとメリッサの婚約を国中をあげて祝福した。
その後、ディエゴは戦から帰還するたびに婚約者となったメリッサを堂々と抱きしめながら、今までとはまた別の、より大きな幸せを感じた。
ディエゴはまさにこの世の全てから祝福されていた。
その秀麗な顔立ちに、武人の理想であるしなやかで強靭な体格。
人を惹きつけ、そして従わせる、持って生まれた王者としての風格。
生粋の文官ですら舌を巻く博識さも、それを理解し自分の糧へと昇華できる頭脳も。
そして強き者こそ正義とするこの国で圧倒的な強さを誇り、戦場では天才的な指揮力を持つ。
厳格であり苛烈な性格は裏を返せば非常に冷静であり公平でもあるということだ。
私利私欲に溺れることも、己の力を過信し、己惚れることもないディエゴはまさに理想の国王であり、戦神の現身として民からも臣下からも崇められた。
ディエゴ自身が民と臣下達、そして唯一の肉親である国王と婚約者となったメリッサの期待に応えることを至上とし、常に高みを目指すための努力をしていた成果でもある。
メリッサと婚約してからのディエゴはまさに順風満帆であり、神に愛されていた。
このときのディエゴは幸福の絶頂にいたのである。
毒を呷った、あの日までは。
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