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楽園
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しおりを挟むディエゴは幼いメリッサの成長を側で見守って来た。
夜泣きするメリッサをあやしたり、そのおむつを替えたこともある。
メリッサは従兄であり王太子であるディエゴが戦で城を開けるときは泣いて嫌がり、無事に勝利を手土産に戻ればまた大泣きして喜んだ。
戦から帰って来たディエゴに真っ先に抱き着いて、その無事を確かめるのがメリッサの役目だった。
王女でありながら侍女達の手をすり抜け、護衛の騎士達の制止を振り解き、危なっかしい足取りで城を駆けていく。
美しい夜空色の髪が風と共に踊り、薄っすらとかいた汗が散っていく姿はまさに星屑が輝いているかのようだ。
王女の頬が熟された果実のように色づき、歓喜に染まった瞳は宝石のように輝いていた。
口では皆が王女にもっと慎みを持つよう嘆いていたが、愛らしく一途な笑みを浮かべて駆けていくメリッサを本気で叱れる者などいなかった。
ディエゴですらできないのだ。
飛びついて来るその無邪気な妖精を、ディエゴは拒むことができなかった。
誰よりもその身が愛しいと、無言で受け止め、至高の玉のように抱きしめていたのだから。
国の勝利よりも、メリッサだけが王太子でもないただのディエゴの無事を祈り、その帰還を純粋に喜んでいたのだ。
ディエゴの血の繋がった父よりもずっと、メリッサはディエゴの身を案じ、勝利よりも祖国に早く戻れることを祈っていた。
女ならば誰もが目を輝かせるような宝玉や金糸銀糸の刺繍がされた豪華絢爛な衣裳、メリッサが好む音楽を奏でる珍しい楽器や砂糖をたっぷり使った甘い菓子に珍味、喋る鳥や愛玩動物から伝説とされている獰猛な獣まで、ディエゴはまるで勝利の女神に捧げるようにそれらの戦利品をメリッサのためだけに集め、国へ持ち帰った。
だが、メリッサはそんな貴重で物珍しい土産よりもただ唯一の従兄の体温を欲し、その低い声で優しく自分の名を呼ぶことを求めた。
ディエゴさえ無事ならば、メリッサは本当に何もいらなかったのだ。
本当ならば戦などに行ってほしくない、ずっと自分の傍にいて欲しいと、なんとも困った我儘を口にするメリッサ。
その我儘はひどくディエゴを困らせ、そして喜ばせた。
戦場と勝利で湧く身体に、メリッサの温かな体温と生まれた時から知っている甘い乳のような匂いを嗅ぐとき、ディエゴは漸く戦が終わり自分が生きていることを実感する。
慣れた仕草で年々重くなるメリッサの身体を抱きかかえ、その涙に濡れた瞳や興奮で紅潮した頬、満面の笑みを覗き、頬に触れる。
猫のようにかさついたディエゴの指の腹にうっとりと甘える仕草をするメリッサにディエゴは目を細めて見つめた。
勝利の報酬はそれだけで十分だった。
赤子の頃から変わらぬメリッサのその甘えた姿をまた見ることができるとき、疲れたディエゴの身体にまた命の焔が蘇るような気がした。
メリッサは風のような女だ。
誰よりも自由で、無邪気で我儘。
燻る炎を煽り、燃え上がらせる風そのものだ。
メリッサを泣かせ、その涙を拭くのは自分だけで良い。
ディエゴはしょっぱい味のするメリッサの柔らかな頬に口づける度にそう思った。
*
だが、二人の仲睦まじすぎる姿を見て複雑な思いを抱く者もいた。
それは国王やその家臣達である。
今だディエゴの寝室に忍び込もうとするメリッサと、最終的にはそれを許してしまうディエゴ。
この二人の親密すぎる関係を危惧するようになったのだ。
それはメリッサが七つの頃のことで、王女としての教育はとうに始まっていた。
また、ディエゴはその頃齢二十一でありながら、気難しく、荒い気性のせいか今だまともな婚約者がいなかった。
何度も貴族の娘や他国の王女とお見合いをしたが、ディエゴの要望や理想は高く、その全てを拒否していた。
この際、身分の関係なく気に入った女を王妃にすることも考えられたが、ディエゴにはこれといった心当たりがないと言う。
気に入った側仕えの侍女や城の女官、貴族の未亡人の何人かと情を通じているが、妃にしたいとは思っていないそうだ。
特に側室ではなく王妃にするのならばもっと身分も教養も高い者でなければならないとディエゴは冷静に断言する。
ディエゴはとにかく美しく、若く、健康で身分の高い女を望んでいた。
王となる自分の隣りに平凡な女はいらないのだ。
隣国の若い年下の王女との見合いの後でもディエゴの主張は変わらない。
その王女もまた類まれな美少女であり、当然のようにディエゴとの身分も十分に釣り合っていた。
「確かにあの王女は美しく、教養もあり、国政に出しゃばるような性格でもない」
珍しくも好意的に評するディエゴに色めきだつ周囲だったが、続いたディエゴの言葉に呆れた。
「だが、それだけの女だ」
近隣諸国で持て囃される隣国の美姫も、どうやらディエゴには意志の弱いつまらない女としか映らなかったようだ。
自国の王女の我儘に慣れてしまったディエゴには隣国の王女の控えめな性格の美点が分からないのだろうと家臣の一人は嘆いた。
だが、いくらこちらが説得してもディエゴはその後隣国の王女からの好意的な手紙が来ても当たり障りのない返事しか返さなかった。
家臣達が用意した見目麗しく高貴な身分の見合い相手達の欠点を次から次へと言い並べ、ろくな返事を返さない。
そしてディエゴが挙げ連ねた欠点は言いがかりに近いものもあったが、どれも的確で、反論するのも難しいものばかりだ。
また、王太子であるディエゴはその気難しい性格を抜きにすれば見目も良く、頭が良い上に戦も上手い。
兵士や民からの信望も厚く、欠点といえる欠点がほとんどなかったのだ。
だからこそディエゴは高貴な姫君達を傲慢に品定めすることになんの躊躇いもなく、また周囲もその選定の厳しさに苦い顔はしても批難することはなかった。
だが、いずれ王位を継ぐディエゴには早々に妃を決めてもらわなければならない。
国王が独断で決めてしまえば良いのだが、それを決断するにはディエゴは実績と周囲の忠誠を上げすぎていた。
元より、穏やかな気質と称された国王は逆に言えば気弱すぎる情けない国王だと影で言われているのだ。
権力を持ちすぎた王太子と気弱な国王。
だが、一見危ういこの親子の関係は周囲の思惑に反して悪くなかった。
ディエゴは意外なほど父である国王には順従であり、もしも国王が勝手に王妃を決めたとしてもそれに不満を言うことはなかったであろう。
だが肝心の国王は息子であり今はまだ臣下であるディエゴに対してただただその珍しい我儘に苦笑いを浮かべるのみである。
その姿は威風堂々としたディエゴに比べるとあまりにも情けなく、臣下の何人かは眉を顰めた。
そんな周りの反応には慣れている国王は周囲の反応など気にもしない。
まるで王家の存続に対して関心がないように振る舞い、より周囲の焦燥を掻き立てるのだ。
国王は穏やかにディエゴに問いかけた。
「では、お前がこの世で最も美しく、好ましいと思う女は誰だ」
隣国の王女の美貌すら物足りないと言うディエゴに対する嫌味でもあった。
そして当のディエゴは特に難しく考えることもなく、当たり前のようにこう返した。
「そんなの決まっている」
その反応に国王と家臣達は目を丸くする。
散々見合い相手達の欠点を上げ連ねていたディエゴだが、その口調に迷いはなく、まるでこの世の真理を説いている学者のようだ。
むしろ、何故お前達はそんな簡単な真理も分からないのだと小馬鹿にしているような雰囲気すらある。
「俺が最も美しく、最も好ましいと思う女はメリッサの他にいない」
そこに色恋の類は全く無く、純粋にディエゴは溺愛する従妹の容貌を気に入っており、その我儘で高慢な性格すらも可愛らしいと言い切れた。
「メリッサはまだ幼いが、今でも末恐ろしいほどに美しい。飽きっぽく、礼儀作法の習い事をさぼりがちだが、頭は良く、覚えも早い。教養などすぐに覚えるだろう」
ディエゴは当たり前のように見合いをするたびに、幼いメリッサと比較して評価していた。
だが、誰が聞いてもディエゴのメリッサに対する評価は甘い。
「何よりもその血筋はどんな王家の姫君にも及ばない。今は多少我儘で驕りやすいところがあるが…… この国の唯一の王女だ。それぐらいの気位の高さが無ければならない」
ディエゴの従妹に対する過剰な溺愛は年々酷くなるが、まさかここまで酷いとは思わなかったと話を聞いていた臣下達は頭を抱えた。
散々見合い相手の欠点を並べたその口でメリッサの美点を並べる。
しかも本人はそれを当然のことのように冷静に述べて来るのだ。
自国の王女であり、彼らも幼少の頃から可愛がっていたメリッサのことのため反論もできない。
多少我儘でも、確かに王女は愛らしく、また周囲に愛されていた。
「幼少の頃からメリッサは俺の跡をついて回り、政治についても軍事についても肌で理解している。最近ではしなくても良い鍛錬の真似事をし、乗馬にも興味を示している。やらせるつもりはないが…… あの艶やかな肌と血色の良さを見れば十分な健康体であることが分かる。子を作るのに何の支障もないだろう。それから―――」
珍しくディエゴが饒舌にメリッサの美点を並べたこの日、国の重臣達は危機感を覚えた。
「何よりも…… メリッサは誰よりも俺を愛している」
ただ、国王のみは愛し気に語るディエゴに静かな眼差しを向けた。
「ディエゴよ。それは少し違う」
怒るわけでも呆れるわけでもなく、国王はまるで神官が真理を説くように穏やかに微笑んだ。
「メリッサがお前を愛しているのではない」
穏やかに、そしてどこか皮肉気に国王は珍しくも丸く見開かれた息子の目を覗き込む。
「お前が、誰よりもメリッサを愛しているんだ」
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