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慰問
清楚な人妻の罪作りな微笑
しおりを挟む公爵家は現国王の信頼が厚く、お気に入りの側近ということもあり、開会式の後もその側を離れることができない。
幼い頃から何かと目をかけていた公爵家の娘と先代から常に国王の忠実な剣であり盾でもあったミュラー家の次代当主夫婦の挨拶に国王は穏やかに微笑み歓迎した。
国王の同行でついて来た王子達がうっとりと久しぶりに見るロゼの美貌に見惚れているのをエアハルトは感情を出すことなくいつもの様に平坦に儀礼的な挨拶を述べる。
分別も愛国心も人並みにあるのだ。
そしてどれだけ不埒な目でロゼを見ても、肝心のロゼはエアハルト一筋である。
エアハルトに抱かれてどんどん色気を増し、淫らで恥ずかしい奉仕を積極的に行うロゼの痴態を知るのは自分だけ。
ロゼに見惚れる男達に怒りと優越感を抱く事に、エアハルトの欲望は一層膨れ上がる。
国王や他の王族達や高位貴族達からの結婚祝いの言葉を聞きながら、エアハルトは常にロゼの存在にだけ意識を向け、頭の中で不埒な妄想を描いていた。
そんな夫の欲望をロゼが知っていたかどうかわからない。
ロゼは清楚で貞節を重んじる貴族の妻として誇らしげに夫の側に寄り添っていた。
*
あのエアハルトが例の可憐な奥方を連れて来るという話に軍内部、特にエアハルトが直接指揮する精鋭部隊の驚きと興奮はどんどん上がって行った。
最近のエアハルトの殺気立ち具合に血気盛んな軍人達もさすがに大人しくしていたのだが、例の噂の渦中の奥方と対面できる事実にどうしても高揚する気分が抑えられなかったのだ。
開会式で一際長身で目立つエアハルトの隣りに並ぶ姿が見えたが、生憎間近で見ることはできなかった。
遠目からも花嫁衣裳とは真逆の黒を基調とした落ち着いたドレスに包まれた肢体や姿勢の良さ、何気ない仕草の一つ一つすら美しいと思える可憐な姿に、密かな憧れを抱く若者達の心がときめかないはずがない。
奇妙な熱気に包まれた若い軍人達に水を差すようにして暗く陰気な雰囲気を纏った副官のライナスがエアハルトの奥方がこれから部隊見学をしに来ることを告げた。
色めき立つ若者達を乾いた目で見るライナスの顔色の悪さを心配する者はいない。
(哀れな奴らだ)
ライナスが内心で彼らを嘲っていることを知る者もまたいなかった。
* *
心地良い春の日差しの中で。
「妻のロゼだ」
眼光鋭く、それでいて自慢気に華奢な幼な妻の腰に手を回してエアハルトは厳かに一言だけ告げる。
戦場で指揮をするときのように、エアハルトの張りのある低い声は静まり返った鍛錬場によく響いた。
大勢の筋肉隆々な若者達に凝視されながら、ロゼは少し照れながらも鷹揚に微笑み挨拶をする。
格が下の夫の部下達にはちょこんと腰を曲げるだけでも十分すぎるほどだ。
それだけ貴族主義な国での公爵家の地位は高い。
蔑みも奢りも、そして遜りもないロゼの優雅な振る舞いは戦闘経験が豊富でもまだまだ人生経験が未熟な将来有望な若者達の胸を射た。
「お初にお目にかかりますわ。エアハルト様の妻のロゼと申します」
ふんわりと、花が咲くような笑みを浮かべる人妻は高嶺の花という言葉が最も相応しい。
そよ風に乗ってその芳しい香りが漂ってきそうだ。
若々しい春の妖精のような可憐さと落ち着いた上品な佇まいに見える清楚さ、そしてアンバランスなまでの匂いたつような色気を漂わせる絶世の美少女の姿に惹かれない男の方が珍しい。
あの血と戦場にしか興味の無さそうなエアハルトを骨抜きにしてしまうのだ。
ひよっ子のような若い軍人達が上司の只ならぬ視線に気づかずに鼻の下を伸ばしてロゼに見惚れていても仕方がない。
もはやそれは生理的現象に近しいのだから。
一人、その生理現象から外れているライナスは他人事のようにその奇妙な光景を見ていた。
例の尋問の記憶がまだ新しい侍女長と元同僚の侍女に挟まれるような形で。
元同僚のリリーが険しい顔で部下達を睨んでいるが、ライナスからすれば可愛いものである。
慣れ親しんだエアハルトの気配がどんどん怪しくなっていくのを敏感に肌で感じているライナスにとっては。
このままでは奥方の前でエアハルトが理不尽極まりないミュラー家考案の地獄の特訓を始めそうな勢いだ。
さすがに普通ではない奥方も怯えてしまうと思い、ここは自分一人が犠牲になって止めるべきかと悩む。
健気にも自己犠牲を決意しようとしたライナスを尻目に、ロゼは先ほどからくっついて離れない夫を上目遣いに伺う。
そしてその耳元に何かを囁く素振りを見せ、エアハルトも自然な動作で耳を傾ける。
開会式は終わり、あくまで今は公式ではなく夫の職場を見学する妻という形で訪れているため、ロゼも初めの頃に比べてだいぶリラックスしていた。
それが無意識か、それとも意識して不穏な夫を宥めようとしての行動だったのか真意を知る者はいないが。
エアハルトがあまりにも自然にロゼのために身を屈めたことや、あの強面のエアハルトの顔が崩れていく様にロゼに見惚れていた部下達は皆信じられないとばかりに今度はエアハルトを凝視する。
正しくはまだまだ初々しい新婚夫婦の二人を、だ。
開会式の前から出迎え兼護衛として同行していた軍人達はもう既に衝撃が去ったのか、今は険しい表情で押し黙っている。
初めて見る上司の穏やかな笑みに、唾を呑み込む者が何人もいた。
ただただ、怖ろしい。
ロゼが何を囁いたのかは分からないが、悪戯っぽく微笑むロゼに胸を掻きむしりたくなるほどの甘い笑みを見せるエアハルトはすっかり上機嫌になったのか、より一層距離を縮めて覆い隠すように妻に寄り添う。
腰に腕を回されたロゼは恥ずかしそうに目元を染めながら、抵抗もなく引き寄せられるがままにエアハルトの広く逞しい胸板に手をつき、頬を寄せるように近づいた。
妻を見下すエアハルトの燻るような熱と愛おしさが甘く煮込まれた視線。
そして夫を見上げるロゼのとろけるように甘く幸福に満たされた信頼の眼差し。
仕方がないとばかりに頷き、そして当たり前のようにロゼの頬を親指で撫で、その美味しそうに染まった頬に口づけるエアハルトと、当然のように口づけ返すロゼという仲睦まじすぎる二人の様子。
大勢の部下達が呆然と見つめる中で、国の英雄であり、血も涙もない女嫌いと噂されるエアハルトとその妻が醸し出す桃色のオーラに彼らは当てられていた。
その光景はショックの一言に尽きる。
あのエアハルトのありえない姿はまさに悪夢であり、恐怖しか感じない。
そして若く純情な部下達は絶望した。
一度だけ結婚披露宴で見た美しい新妻に密かな恋慕を抱いていた将来有望な若者達。
初めから叶わぬ人妻への横恋慕に希望などないが、それでも夢を見るのは人の自由である。
貴族同士の良くある望まぬ婚姻と思い込みたかった彼らの希望はあっさり打ち砕かれた。
憧れの人妻の夫に向ける涙が出そうなほど色っぽい表情によって。
後にエアハルトが率いる精鋭部隊の軍人達の独身率が異様に高いことに上層部は疑問を持ち、それなりに困ったりするのだが、その理由を一番正確に良く知るライナスはひたすら沈黙を守っていた。
あまりにも馬鹿らしいのと、失恋の傷跡に塩を塗るような真似がどうしてもできなかったからだ。
日頃鍛え上げられているせいか、呆然自失となりながらも副官のライナスのいつも通りの訓練の開始の掛け声に条件反射のように身体が動く。
エアハルトは野外に用意された椅子にロゼを座らせ、侍女から日傘を奪って自らロゼに差していた。
遠慮するロゼを宥め、背後から肩に手を回しながらエアハルトは優しくロゼに訓練の内容と目的を解説してやる。
軍人志望の者なら泣いて喜びそうな贅沢な講師に甘やかされながら、ロゼは仕方が無さそうにそのまま晴天の下で勇ましい掛け声を上げながら訓練に集中する夫の部下達の姿を見つめた。
エアハルトがロゼを甘やかすことで精神の安定を図っていることをロゼは知っているため、基本的には言うことを聞いてしまうのだ。
また、この十日ほどエアハルトに夜の生活で不便な思いをさせている分、ついつい甘やかしてしまう。
甲斐甲斐しくロゼのために飲み物の用意をしたり、久しぶりの外出で体調の変化はないかと事あるごとに手を握ったり、目を覗き込んだり、額と額をくっつけたり、頬を撫でたり、髪を弄ったりと好き放題している。
見たくもない光景をつい見てしまう部下達の哀れな姿にライナスはいつも以上に声を張り上げて怒気を飛ばす。
ライナスとて見たくはないのだ。
軍内部で流れたエアハルトと奥方の不仲説は完璧に崩壊しただろうが、別の意味で被害が出ている。
失恋とエアハルトの変わり果てた姿に失望して退役者が出るのではないかと危惧するライナス。
エアハルトに少しは自重しろと忠告しても、それぐらいで辞めたがるのなら元からその程度の人材だろうとあっさり捨ててしまう可能性の方が高い。
なら、ぱっと見てエアハルトの操縦が上手そうな奥方の方にお願いしようにも、ライナスの行動を監視する屋敷の使用人達の厳しい視線の中で近づこうものなら暗器が堂々と投げ込まれること確実だ。
何故ロゼという爆弾を軍部に連れて来たのだと心の中でエアハルトを責めるライナスは忘れていた。
そもそもロゼを同行させる案を言い出したのはライナス自身であることを。
自業自得という言葉が彼ほど似合う者はいないだろう。
時折ライナスに手を振り、親し気に声をかけようとするロゼが一層厄介だ。
エアハルトや部下達の嫉妬の眼差しに、ライナスはもう何も考えないことにした。
疲れとストレスで血迷ったのか、何度かロゼの嬉しそうな微笑みに癒されてしまった自分をライナスは決して認めようとしなかった。
もしもエアハルトに知られれば本気で今度は抹殺される。
* * *
真剣に軍人達の汗にまみれた訓練を見つめているロゼの横顔や項、鎖骨に見入るエアハルト。
エアハルトの軍服に合わせたのか、黒に近いサテン生地に人魚の下半身を模した流れるようなスカート。
俗にいうマーメイドラインはロゼの足の長さと腰の細さを強調し、あえて宝石ではなくビーズの装飾品でさり気なく飾られた襟元から見える白い鎖骨や繊細なレースによる華やかな袖から覗く手首と手袋越しの指の細さに品のあるショール。
今回のためにロゼは普段は大事にしまっている結婚指輪を左の薬指に嵌めてきている。
手袋越しにそれに気づいたとき、エアハルトは感激した。
特別な行事のときにのみ結婚指輪を嵌める風習があり、エアハルトもまたチェーンに通してネックレスとして身につけている。
エアハルトは意味のないことを嫌う。
意味があると思うからこそ、彼は指輪を身につけている。
ロゼが常に例の小瓶を懐に忍ばせるように、エアハルトは指輪でロゼに縛られたかったのだ。
黒の装いのロゼには真珠がよく似合っていた。
イヤリングから始まり、ネックレス、複雑に編みこまれたシニヨンの黒髪の髪飾りやトーク帽に縫い付けられたベールの飾りにも真珠が使われている。
行事のことを考え、派手すぎず品の良さを重視した装いは清楚な趣があった。
以前エアハルトがつけてしまった欝血の跡は化粧で誤魔化しているらしく、間近で見る首筋や項、鎖骨に目立った所有印は見当たらない。
それを残念に思いながらも、屋敷での薄化粧とワンピースの装いとは違うロゼの新鮮な姿にエアハルトは見惚れた。
やはり何度見てもエアハルトの妻は美しい。
その禁欲的ともいえる美しい妻の姿に、エアハルトは唾を呑み込む。
先ほど屋敷の使用人からこっそりとこの後の昼食を共にしようという誘いが複数来ていることを告げられた。
ロゼと親しい貴族の者達はそのまま断っても構わないが、公爵家と父からの誘いはさすがに断れない。
一気に大人っぽくなり、色気が増したロゼの姿に魅入っていた王族達からの誘いがないだけマシであろうが。
昼食に付き合うのは構わない。
ただ、その前にエアハルトは腹を満たしてしまうつもりだ。
その後のロゼが屋敷に帰りたいと望めば、相手方も無理強いはしないだろう。
馴染みのない軍人達の激しい訓練姿を興味津々で見つめているロゼの耳元に囁く。
「ロゼ、今度は違うところを見ないか」
「違うところを、ですか……?」
「ああ。俺の執務室だ。軍人とて常に戦っているわけではない。一日のほとんどを書類仕事で潰すこともある。なかなか、広くて快適な所だ。……興味はないか?」
ロゼの紅がひかれた唇を見つめながら、エアハルトは上機嫌に笑う。
扇情的な唇とは裏腹の純粋なまでに無垢な瞳の輝きが非常に背徳的だ。
「もちろんですわ。旦那様のことなら、ロゼはなんでも知りたいです」
可愛いことばかりを紡ぐロゼの唇を今すぐ味わいたいと思いながら、エアハルトは満足気に微笑んだ。
酷く、悪い笑みである。
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