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慰問
春の女神
しおりを挟む慰問の式典の開会式は午前中に行われる。
軍の最高権力者である元帥と現国王、そして功績をあげた優秀な軍人が形式的な悔やみの言葉を戦死者やその遺族達に送り、遺族の代表の者がそれに答える形で始まる。
厳かな黙祷が終わる頃合いを見計らって軍に三人しかいない将軍の内の一人が毎年交代制で今後の軍の方向性について語り、最期に敬礼し、大砲を打つ。
大砲の合図で人々はしんみりした空気から解放され、そこで国王が締めの言葉を言って終わる。
そしてその後からは普段軍内部を気軽に見学ができない軍人家族達のための祭りのような催しが行われるという流れだ。
時間帯によって様々な催しが行われ、下っ端の兵士達や軍に属しているだけの普段は事務職やその他の内務事に務めている者達が走り回ることになる。
春の慰問式は国王を始めとした王族や地位の高い貴族達が大勢参加するため、それなりの身分が保証された者達がこの日だけは祭りの接待に集中するのだ。
その中で目玉となるのが士官学校生の編隊訓練や、実際に戦争経験のある軍人達による主力武器を使った模擬戦などである。
これが夏や秋の慰問式となると身分証明書があれば庶民でも参加できるため、バザーや軍人や部隊同士の力比べとそれを対象にした暗黙の賭け事も入る。
戦死者や遺族達を悼むための式があまりにも趣旨と外れていることに苦言を呈した者もいたが、葬式のときに散々泣いたのだからその後は楽しく元気に祭りめいたことをした方が死んだ者達も楽しいだろうという意見があったため、結局お祭り騒ぎは毎年どんどん規模を増し、盛り上がり続けているという。
俺は死んだらうじうじされるより笑ってほしいという当時の由緒正しき軍人貴族の一言が結局効いたらしい。
その由緒正しきミュラー家の現当主であるミュラー将軍は久しぶりに会う息子の嫁に普段のお堅く無愛想で女に素っ気ない姿からは想像できないほど相好を崩し、全身で感激していた。
何度も息子に直接、或いは間接的に二人の新居にいる馴染みの執事長に手紙を送り、若夫婦の様子を詳しく聞いていたが、いつも素っ気なく非常に良好としか返されなかった。
ゲーアハルト公爵も似たようなことを手紙で聞いているらしいが、その手紙は娘であるロゼ本人が返すため正直羨ましい。
立派に成長した息子とその可愛い嫁は誰が見てもお似合いの夫婦だと将軍は思っている。
そのため、例の息子夫婦不仲説の噂には強い憤りを抱いていた。
「お久しぶりですわ、お義父様」
正装の軍服の上からでも分かる立派な体躯の夫と腕を組みながら美しすぎる新妻は華麗に会釈した。
花咲くような眩しい笑顔に、すっかり娘を思う甘い父親気分で相好を崩す将軍とは違い、その周りの人々の心には強烈な嵐が吹き荒れていた。
空気の読める男のライナスはこういう事にだけ鈍い将軍を余所に直属の上官であるエアハルトの背後から明確に周囲の人々の動揺や複雑な感情を分析していた。
呑気に世間話に乗じる将軍と新妻のロゼとは裏腹に、二人を見るエアハルトの目は鋭い。
理由は定かではないが、何故か十日ぐらい前から常に目の奥に危ない何かを燻らせ、殺気と不穏なオーラを放っていた。
また、常軌を逸した鍛錬を繰り返し、訓練に付き合わされた部下達に強烈なトラウマを植え付けていたりもしている。
任務ではむしろ頼りになりすぎるほど活躍しているため、上層部はエアハルトの異常を放置していた。
誰も今のエアハルトに近づきたいと思わないからだ。
副官というだけでエアハルトの八つ当たりを一身に受けているライナスを慰めてくれる者はいない。
ライナスが犯したつまらない謀略を軍内部で知る者はいないのだが、それだけライナスに向けられた嫌悪と偏見は根深いということだ。
そう仕向けるように情報操作を行った元同僚のリリーは目が乾くのではないかとライナスが心配するほどロゼの後ろ姿を凝視している。
リリーに対して奇妙な同族意識を過去に一瞬でも感じた自分をライナスは後悔した。
自業自得な面もあるが、結局どんな理不尽な目に遭ってもエアハルトの側から離れたくないと思ってしまうライナスの愛情深さが枷となっていた。
そして当のエアハルトは見ている方がぞっとするほどの甘やかさを含んだ笑みを浮かべ、献身的ともいえる態度で幼な妻をエスコートしている。
馬車から降りたロゼを跪きながら迎え、唖然とする部下達を尻目に軍人というよりも姫君に仕える騎士のような誠実さと愛情で手袋越しでも麗しい妻の手を恭しく取る。
そのまま膝を踏み台代わりにしてロゼの華奢なヒールがついた靴を載せてしまいそうな雰囲気だ。
豪奢な馬車から降りて来る上品でありながら可憐で美しい乙女と、高級将官の正装姿で跪きながら出迎える美丈夫と称しても良い野性味のある軍人。
どこぞの浪漫小説の一幕のような光景に見惚れてしまう者は残念ながらその場にはいなかった。
屋敷の者達からすればこれはまだまだ序の口であり、エアハルトの部下達からすればロゼの美しさに見惚れる前に良く知るはずの上官の別人具合に唖然としていた。
脳が視覚からの情報を拒否しているのかもしれないが、残念ながら聴覚からも恐ろしくエアハルトに不釣り合いな甘ったるい会話が入って来る。
話を少し聞くだけで、どうやら今朝は奥方のドレス姿をいち早く見ようと衣装部屋に入ろうとしたことを年下のはずの奥方に咎められ、お楽しみは後でと可愛らしく言われたこと。
今は奥方の言う通りだったと感激しているらしく、地獄の悪鬼とも怖れられているはずのエアハルトはとにかく奥方を褒めている。
色んな確執やしこりが残っているライナスから見てもロゼは大層美しかったので大げさではないと分かるが。
だが、あのエアハルトが笑顔を浮かべながら、それも心なしか目元を染めてうっとりと一回りも年の離れた奥方を舐めるように見ているのだ。
その不穏ともいえる熱の入れ具合にライナスは薄ら寒いものを感じた。
心なしかロゼに付き添っている使用人達の視線が険しい。
屋敷の者達はエアハルトがロゼの懇願によってこの十日の間に禁欲生活を強いられていることを知っている。
主夫妻が慰問で外出した後に屋敷に居残りしている使用人達は既に寝室やら寝間着やら浴室の準備をしていた。
料理長も手慣れたように明日の朝用のスープやデザートを仕込んでいる。
夕食までエアハルトが待てるはずがないと彼らは当たり前のように受け入れていた。
だが、そんな忠実な屋敷の使用人の大半はエアハルトの真の目的を知らない。
そもそもが独占力の強いエアハルトがわざわざロゼを飢えた野獣のいる軍部に連れて行くことにした理由を正確に把握している者はいないのだ。
きっかけとなったライナスですら、エアハルトの今日の予定を知らない。
自慢の妻を見せびらかしたいという目的が十日の禁欲によって奇妙に膨れ上がってしまったことを。
人知れず欲情しながらエアハルトはロゼの細い腰を撫で、腕を回そうとする。
これから挨拶しに行けなけれはならないことを考慮し、やんわりと窘めるロゼの恥じらうような純情な姿に、エアハルトは誰が見ても分かりやすくでれでれだった。
護衛の軍人達の青褪めた顔を見ながら、昼に集まるエアハルトの部隊の者達にロゼのお披露目をするという予定を知っているライナスは同情しなかった。
他人に同情する間もなく、萎びれた枯草のようなライナスを見つけてぱっと歓喜の笑みを浮かべて声をかけて来るロゼという天敵と、嫉妬深いエアハルトの殺意に当てられているライナスの方が哀れだからだ。
そもそも何故ロゼはライナスを好意的に受け止め、しかもまた後でゆっくりお話ししましょうと親し気に絡んで来るのか、本気で分からなかった。
そしてライナス以上に人の機微に聡いロゼがライナスの迷惑だという心境を知らないはずがない。
だが、ライナスともう一人の少女になら嫌われても構わないと思っているロゼはそんなライナスの迷惑などまったく意に介さなかった。
その有難迷惑な特別扱いは余計にエアハルトの嫉妬心を煽る。
ライナスに親し気に対応したロゼの態度から、エアハルトの機嫌は少しずつ悪くなっている。
肝心のロゼと話す間だけは雰囲気が甘く穏やかになるのだが。
すれ違いと敬礼の間にもロゼに見惚れる数多の軍人を見るたびにエアハルトは威嚇紛いの殺気を放つ。
そしてその度にロゼが取りなすようにエアハルトに甘えるため、エアハルトの放つオーラは非常に複雑だった。
まだまだ未熟だが、このまま行けばロゼがエアハルトを完全に操縦する日も近い。
エアハルトが情けないと思うこともなく、ライナスはロゼを末恐ろしく思っていた。
今も十分に怖ろしいが。
ロゼが将軍とだけお喋りしているのが気に入らなくなって来たのか、エアハルトの眼光はどんどん鋭くなる。
エアハルト以上の勇名さで成り上がって来た将軍はそんな殺気など痛くも痒くもないらしく、目尻を下げて久しぶりに会った愛娘を可愛がるようにロゼを構い倒す。
軍部でその名を知らぬ者はいないミュラー親子に囲まれている春の女神のように麗しい少女の存在に、周囲の視線が集中していく。
穏やかな表情のエアハルトは恐ろしいが、今のように嫉妬と苛立ちをなんとか抑えようと無表情に徹しているエアハルトはある意味では見慣れたものである。
見せつけるように、出来ればロゼの腰を抱いてキスをしたかったが、肝心のロゼは義父の前でそんなことはできないとやんわりとエアハルトの手を拒否した。
落胆とロゼの拒絶に強い衝撃を受けたエアハルトの意気消沈ぶりを面白がれるのは将軍ぐらいだ。
そしてまた苛立つエアハルトという悪循環。
まだ慰問の開会式すら始まっていないというのに。
空は晴れていたが、ライナスを含めた屋敷の使用人達の心には不穏な曇り空がかかっていた。
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