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並列世界大戦――陽炎記――
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いつの間にか成長した少年は、瞳に理解と強靱さを知らぬうちに同居させていた。
――アデライト・ラーゲルクヴィスト著・並列世界大戦回顧録「陽炎記」より抜粋――
〈どうした悠希? こんな朝早くに〉
怪訝な響きを思考に乗せ、陸がインプラント量子通信の向こうから問いかけた。躊躇いを覚えつつ、自室の机に座る悠希は思考を通信に乗せる。
〈悪い。どうしても、伝えておかなければいけないことがあるんだ。本当は、昨日陸に話すべきだったんだけど、僕にその勇気がなかった〉
〈? 何かあったのか?〉
奥深い相手を思いやる陸の思考音声に悠希は済まないと思いながら、端的に伝える。
〈昨日、澪が破壊された〉
〈何だって?〉
それまでの穏やかさが消え去った陸の声が、激しく乱れた。悠希は、大きく息を吸い込み覚悟を決めた。陸にありのままを話さなければならない、と。
〈僕が壊したんだ。昨日の戦いで〉
〈……そうなのか……。ニュースで、防壁を越えて機械兵が侵入してくるほどの激しい戦いがあったって、言っていたけど〉
〈ああ。その侵入したのが澪だったんだ。追ってた僕が、撃破した。僕がこの手でトリガスウィッチを押して、アイギスを――澪を破壊……否、殺した〉
電脳世界人を、思念体を血の通わぬ人の心を無くした演算するだけの冷徹な機械と思っている悠希だったが、物を壊したように言うことを何だか卑怯に感じて、紛れもなく加々美澪という存在を消滅させた事実から逃げているように感じて、人であるかのように言い直した。殺した、と。インプラント量子通信の向こうの陸はすぐには答えず、きっと様々な思いが去来していることが悠希には想像がついた。ホントに幼い頃から、悠希、陸、澪の三人は、一緒に過ごした。電脳世界にアップロードされるまでの幼い時期、悠希の記憶の中にある澪は生意気だったが、それでも愛おしく感じてしまうことも確かだ。様々な感情を秘めたような、陸の声が優しく悠希を包む。
〈大丈夫か? 悠希〉
〈え? 何が? え? これって……〉
〈だって悠希、通話越しに泣いてるから〉
知らず悠希の頬に、二筋の涙がはらはらと伝っていた。窓の外は灰色で、強い風に乗った雨が窓を強く叩いていた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ブリーフィングルームの机には、アデライト、寧々、錦、玲一、芽生が席に着き重たげな空気が漂う中朝のミーティングが始まるのを待っていた。まだ開始の時刻まで五分ほどあったので、室内のサーブスペースでアデライトが煎れてくれたコーヒーを、ブラックのまま一啜りした。口の中に苦みと酸味が広がり、悠希の奥底に沈殿する悲哀に何故だかよく馴染んだ。陸を相手にして悠希は泣いた。否、泣けた。もしかすると悠希は、幼馴染みと死に別れたというのに涙を流せなかったかも知れなかったのだ。澪を人ではない機械と思っていた悠希は、その死を物が壊れたように心の奥底は違っても考えていたのだから。
同じく幼馴染みの陸を相手にして、澪という物を破壊したと言ったままにしておけなかった悠希は言い直し、それで自分が何をしたのかを理解してしまったのだ。だから、涙が流れた。もしあのまま陸と話さなければ幼馴染みの澪の死に泣くこともなく、暗部となって悠希を歪な存在に遠からず変えていたに違いなかった。それこそ、悠希が忌み嫌う電脳世界人――血の通わぬ人の心を無くした演算するだけの冷徹な機械へ、と。
悠希は、あの涙で救われたのだ。決して思念体としての澪を人とは思わぬ悠希だったが、人間の感情が簡単には制御できない複雑な迷路であることをアデライトから教えられ、陸に晒してしまった態度も自分には必要だと分かっていた。思念体とは人間ではないが、かつては人間だった存在。それはとても哀れでもの悲しい。黒いコーヒーの液体を見詰め暫しの思索に迷い込んだ悠希の意識を、コノカのアルトが現実に引き戻す。
〈時間よ、悠希〉
「お早う、みんな。今日のミーティングを始める」
面を上げ悠希は、一同が複雑な視線を向けてくるのを敢えて構わず、その理由となる事柄を話すというのにさらりと続ける。
「昨日の戦いでは、敵に都市防壁内へ侵入されるという危機的状況を迎えた。けど、その機械兵は単独で昨日の戦闘の推移に鑑みてもイレギュラーであり、作戦行動とは別の要因が働いたためと推測される。それでも、防壁を越えられてしまったことは、僕たち軍人にとっては不名誉で、市民に不要の不安を与えてしまった。今後とも電脳世界軍との戦いには、さらなる精励が望まれる」
ブリーフィングを真面目に行う悠希だったが、今朝の話はやや訓示めいており模範解答のような言葉を淡々と連ねている印象が強い。まるで、己が内を知られまいとするかのように。だが、次に今朝微妙な空気が入埜第三小隊員たちに流れていた理由を話さなければならず、心臓の鼓動が早まる。
「喜ぶべきこともあって、第三小隊が事に当たり日本エリア攻略方面軍参謀機アイギス八を撃破できた。かの敵は、最新鋭機であり従属型ヴァレットを子機として使用しこれまでになかった機械兵の運用法を戦場に持ち込み、現実世界軍を苦しめた。一時的にせよ参謀機が敵方にいなくなったことで、これまでの損耗で増大した味方の負担を少しでも軽減することができる。特にアデライトの活躍は顕著で、小隊の実戦指揮を執ってくれたお陰でアイギス八に対抗することができた」
「そうだな。あたしたちだけだったら、まともな戦闘になったかどうか」
「あの憎たらしい参謀機を、追い詰めてくれた。最後は、奴さんやけ気味だったしな」
「みんなの力があってこそよ。悠希が、一人でアイギスを引きつけてくれたし」
悠希の話に同意する寧々と錦に、アデライトははにかむような表情を可憐な面に浮かべ、クールさを感じさせる不思議な甘い声音に照れたような響きを帯びさせた。その様子に、これまでなかった何かが一体となったような空気が小隊の皆に生まれた。それは、とても心地よかった。アデライトを認めることができて、小隊の実戦指揮を任せることができて、よかったと悠希は思う。あのまま自分が指揮を執っていたら、小隊員とアデライトの絆は育まれなかっただろう。ほろ苦く感じないと言えば嘘になるが、後悔していないことも悠希にとっての事実だ。
縁なし眼鏡のブリッジを押し上げ、玲一が和んだ空気を切り替える。
「従属型が使用する特化型AIは、意思がないから絶対服従。アデライト同様戦場全体を見渡す目が、アレを手足のように使えばどうなるか……今回は凌いだが……以前、連隊長も懸念していた」
「ええ。今後、アイギスのような新型が投入される可能性は大きいと思います。アイギスとの戦いで得られたデータを新型機開発に活かして、対応していく必要がありますね」
受ける芽生の言葉で、皆の顔に真剣さが宿った。いい流れだと、悠希は思う。自分が無理に皆を引っ張らなくても、自然とあるべき方向へと小隊は向かって行く。今後が話し合われ最後に悠希が簡単に纏めると、寧々がメゾソプラノに懸念を乗せ問う。
「大丈夫か? 悠希」
そら来たと、悠希は思った。ブリーフィングルームに漂っていた、どこか陰鬱とした空気の原因。悠希は、「何が?」とまるきり見当がつかぬという顔で問い返した。一つ溜息を蜜柑色の唇に乗せ寧々は、美人顔をきつくし思慮の色彩がある虹彩に朱の混じった瞳を鋭くする。
「はぐらかすな。アイギス八、加々美澪だったか? 悠希の幼馴染みなんだろう?」
じっと注がれる寧々の視線を受け止め、悠希は無言だった。正直、そのことをここで話すつもりなどなかった。陸に晒した涙が、ぶり返すかも知れないから。更に何か言おうと寧々が口を開きかけるが、アデライトが先んじる。
「ごめんなさい、悠希。必要だったとはいえ澪の相手を悠希一人にさせて、その上とどめを刺させてしまって」
「気にしないで。それが、兵士の仕事だから。僕が、一番早く追いついた。だから、役目を果たした。それだけ」
口調は柔らかいが、それだけに素っ気ない悠希にアデライトは小ぶりな唇を開きかけ言葉を途切れさせる。
「……悠希……」
ヒューマノイドのボディではあったが、その可憐な面には気遣わしさがありありと浮かんでいた。絡みつくしがらみを振り払うように悠希は、やや低めの声にきっぱりとした意思を乗せる。
「この話は、おしまい。僕個人の問題だ。心配してもらわなくても、ちゃんと心の整理は付けるよ」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
〈ちょっと小隊のみんなに冷たいんじゃない? ああいうとき頼るのが大人の態度よ。悠希の事情はみんな知ってる。だから、弱音を見せて欲しかったと思うわ〉
〈澪のことは、僕の立場のために利用していいことじゃない〉
〈そういうことを、言ってるんじゃないわ。あの場合、それが自然だったって言いたいだけ。綾咲さんやアデライトだって、悠希に頼って欲しかったと思うわ〉
〈それは……〉
軍学校同期の寧々は昔から悠希の抱える闇を心配していたし、アデライトは澪を知っている上に悠希と分かり合おうとしていた。二人とも悠希の精神的な立ち直りのために、真摯に向き合ってくれただろう。悪かったかな、とちらりと思う。
〈今度、二人には話してみるよ。気を揉ませちゃ悪いから〉
〈五寧さんや、芭蕉宮さんにも、よ〉
〈えー〉
〈何で、そんな嫌そうなのよ。五寧さん、接し方はちょっと問題が、いえ、かなり問題がある人だけど、悠希のこととても気に入ってるみたいだもの。芭蕉宮さんとは、せっかく信頼関係が築け始めたところなんだから。それに、久留美川博士だって〉
〈気が向いたら。コノカの言うことは分かるけど、澪のことは不純な動機で他人に話していいことじゃない。裏切ったあいつは嫌いだった。けど、澪は幼馴染みでその命を奪ったのは、僕なんだ。何か飲んで、気持ちを整理するよ〉
激情が蘇りそうになった悠希は廊下の先にカフェを見つけ、このまま小隊の皆と顔を合わせたくなかったので少し休んでいこうと向かった。悠希がよく利用する打ちっぱなしの壁に裸電球が特徴的なレトロなカフェと違い、パステル色を基調とした明るい色彩の若い女の子が好みそうな雰囲気にたじろぎつつ、どの席にしようかちらほら客のいる店内を見渡した。すると、窓辺の席に園香が座っているのを見つけた。
近づく悠希に気づきもせず、園香は手元の携帯端末を熱心に見詰めていた。インプラントと連動したネットワークが発達した現代、物としての端末は必ずしも必要とされない。記憶媒体でもあるそれを個人で利用するのは、遠く離れたサーバ上に大切な情報を置くことに不安を感じる者か、何ものとも共有したくない者だ。よほど、それは園香にとって重要な情報に違いなかった。周囲に注意を全く払っていないのをいいことに、悠希は園香の背後に回り込み華奢な肩越しに覗き込んだ。そこに表示されていたのは、およそこのような軍事基地には相応しくない内容だった。
ファンシーの一言。何かのシリーズだろうか? 様々に形態の異なる熊のぬいぐるみがずらりと並んでいた。憂鬱な気分を忘れ微笑ましくなり園香の顔の横近くに自分の顔を近づけ、悠希はフランクに話しかける。
「可愛いですね、連隊長」
「そうだろう。見ているだけで、普段の汚れた気持ちが、洗い流されていく。え? って、悠希!」
自然に応じつつ園香は声の主を振り返り、緩んでいた精緻な美貌をはっとさせ漫画のように椅子の上で飛び上がった。次の瞬間、ガバリと覆い被さるように携帯端末を悠希の視線から隠した。半ば呆れつつ悠希は、その普段の才媛ぶりとはかけ離れた園香の様子に眉を下げる。
「そんなに警戒しないでくださいよ。連隊長の趣味は、この前僕にばれてるんですから」
「だ、だが、あれはパフェを奢ったことで、悠希は忘れることになっていただろう」
真っ赤な顔で振り返り抗議する園香を、悠希は立場を置いて年下の女の子と素直に思える。
「無茶苦茶言わないでください。あれは、公言しないということで、僕が記憶喪失になる約束じゃありませんでしたよ。連隊長は、僕のこと嫌いですか? 僕は、素の連隊長のことを少しでも知ることができて、結構嬉しかったんですけど」
「う……ま、確かに悠希には隠し立てしても今更だものな。ん」
諦めたように園香は姿勢を正すとまだいつもと様子が違うが、前の席を悠希に座れと指し示した。席に座り、悠希は年上としての雅量を中性的で端正な面に閃かせる。
「好きなものは、好きでいいと思いますよ。それは、大っぴらにしない方が、連隊長の立場上いいと思いますけど。でも、僕個人としては、年相応って感じがして好きですけど」
「そ、そうか。それは、何よりと言うか」
顔を俯け口調だけでも威厳を保とうとする園香は、それでも精緻な美貌が緩んでいた。二二五名からなる連隊の指揮官とはいえ、一四歳の女の子だ。二つだけだが年上の悠希に、軍の役職ではない部分で肯定してもらえて嬉しいのだろう。
そのとき聞こえた足音に振り向くと、髪を三つ編みにした部屋の色彩と合った柄の制服を着用したヒューマノイドのウェイトレスが、注文を取りに来たところだった。注文を済ませウェイトレスが下がると、悠希は置かれたお冷やを一飲みした。注文にインプラント量子通信を介さない古風な注文スタイルは、基地に勤める者たちからの評判がいい。自動化が行き届いた現在では、こうしたサービスの受けがいいのだ。それが、ヒューマノイドが行うことだったとしても。頃合いを見計らうように暫くすると、立ち直った園香が問いかける。
「大丈夫か、悠希?」
「何がです?」
何を園香が問いかけているのか分かってはいたが、悠希ははぐらかした。涼やかな目元を鋭くし、構わず園香は切り込む。
「悠希は、昨日幼馴染みをその手にかけた。確か、澪だったな。後悔しているか?」
軋るような痛みが胸に走り同時に容赦なく踏み入ってくる少女に怒りを覚えたが、注文の品が運ばれてきて気持ちを悠希は落ち着けることができた。今更、と思う。いずれ、誰かに話すことだ。コーヒーの苦みに思考をはっきりさせると、悠希は口を開く。
「……そんな筈はない、と思っていたんです。電脳世界にアップロードされた澪のことは、人の心を無くした演算するだけの冷徹な機械だって知ってたから、機械を破壊しただけだって。けど、昨日感じた不安が分からなくて、今日それを知ったとき悲しくなって。僕は、昨日壊したアイギス八を、思念体である澪のことを、殺したって、人間だって感じてしまったんです」
「それを悪いことのように、悠希は話すのだな」
哀れむような、同情するような園香の視線に晒されて、悠希は居心地が悪かった。軍服に隠れた胸のペンダントが、熱を帯びたような気がした。反発が、悠希の口を衝く。
「だってそうでしょう。電脳世界人が、人間である筈がないんです。僕の故郷を滅ぼした彼らが。彼らは人間でないから、あんなことができる。なのに、澪を人間であるかのように感じてしまった僕は、現実世界を裏切ったんです。電脳世界に対する考えも、揺らいで」
「よかった」
反射的に悠希は、敵意を込め「は?」と園香を睨んだ。何を言っているんだ、と。湖面を思わせる智の宿りのある瞳を怜悧にし、園香は滑らかで涼やかな声に確かな意思を込める。
「悠希がまともになって、よかったと言ったんだ。模擬戦のとき悠希の思いを聞いて、心配していたんだ。戦時中のお題目ではなくて、悠希が本心から敵は機械でそんな連中は滅ぼさなければならないと、信じて渇望してたから」
「いけませんか?」
最早園香が自分を否定していると分かった悠希は、敵に対するように身構えた。園香も、表情と口調に鋭さを上乗せする。
「いけないな。本心でもないことを信じ込もうとするのは。わたしは、安心したんだ。あんなことを、心の底から思っていたら悠希は狂人だって。でも、そうじゃないって分かった。嬉しいよ。わたしは、悠希のことが嫌いじゃないからな」
「あなたは、現実世界軍の一軍を預かる連隊長の一人です。なのに敵を認めろ、と? 兵士は挨拶のように言ってますよ。電脳世界人は機械だ。そんな者たちが住む世界は、滅ぼさなければいけないって」
ずかずか踏み入ってくる園香に、悠希は止めろと言いたかった。だから詰るが、園香は態度と口調を先程見せた少女としての彼女とはまるで別物の、冷厳と高圧的なものとする。
「すり替えるな。わたしは、悠希と話していて悠希のことを話している。彼らが、戦争の気分に晒されて、そう言っているだけだってことくらい悠希は分かるだろう。本当に電脳世界を、思念体を憎んでいた悠希には。中には、家族や友人を戦争で失った者もいるだろうが、大半は違う。重みが違うよな。悠希とはまるきり。彼らのはただの挨拶」
「……挑発してるんですか?」
体内の温度が下がるのを悠希は感じ、怒りを声にそのまま乗せた。相手が上官だろうが関係ない。園香は、悠希の過去を愚弄したのだ。受け止める園香は一四歳の少女とは思えぬ胆力を見せ、悪そうな笑みを精緻な美貌に浮かべる。
「そうだ。全て吐き出してしまえ。それですっきりしろ。アデライトのことで少なくても蟠りは見えなくなって、いい方向へ悠希は向かってると思った。澪のことはいい契機だ。電脳世界への認識を変えるときだ、悠希」
「そんな必要はありません。アデライトは、電脳世界と現実世界の共存を望んでいますが、僕は望んだりしません。今でも僕は人の心を肉体に置き忘れた電脳世界は、あってはならないと思っています」
「死んだ澪も、進化し損ねた下等な猿が住む現実世界は滅ぶべきだと言っていたな。何だか、似てるな。悠希と澪は」
「アデライトにも言われました。電脳世界至上主義の澪の選民思想と、僕の考えは大差ないって。現実世界だけを存続させようと、他を認めないところが。それでも僕は、敵である彼らを許せない。僕から全てを奪った、彼らを」
軍服に隠れた故郷の象徴――家族の写真が入ったペンダントを、知らず悠希は握り絞めた。話していてもの悲しくなるが、故郷を、家族を、友人を奪った電脳世界を悠希は認めるわけにはいかないのだ。艶やかな珊瑚色の唇に一つ溜息を落とすと、園香は口調を淋しげにする。
「分かっていて、妄執に振り回されるのか? 過去が憎しみに染め上げた眼鏡を外して世界を見ることができないのは、哀れむべきことだな。アデライトといった格好の教師が身近にいるというのに」
「残念ですが、僕にはその世界は必要ありません」
冷たく言い切る悠希から、つと園香は視線を外し呟く。
「……春の嵐」
「え?」
唐突な言葉に問い返すと、園香は窓の外を見ていた。いよいよ雨脚は滝のように強まり暴風が吹き荒れ、外の風景を一変させていた。視線を悠希に戻し、悲しげな美貌を園香は向ける。
「まるで、悠希の心のようじゃないか。様々な思いが千々に吹き荒れ、決して光が差し込む雲間すら見えはしない。その目は、世界を覆い隠す嵐だけしか映し出さない」
席を立ち最低限礼を失しない暇乞いをすると、悠希はその場から去った。カフェの外へ出ると、心を落ち着けるように大きく息を吸い吐き出した。首を振り悠希は、抱いてしまった怒りを振り払い歩き出そうとした視線の先に、それを見咎めて一歩を踏み出すことを躊躇った。一匹のネズミが赤い目を振り上げ、悠希を見詰めていたからだ。首を傾げるような仕草をし、チュッチュと鳴いた。
――どうしてネズミなんかが、基地に? 通風口はシールドされてる筈。人の出入りに紛れて入り込んだのか? ――
疑問を悠希が巡らせているとネズミはちょこちょこと歩き出し、振り返りまたじっと悠希を見詰めた。まるで、ついて来いとでも言うように。惹かれるように悠希が近づくと、またちょこまかと歩き出した。悠希は、端正な面を顰める。
――僕も馬鹿なことを考える。ネズミに意思があるように感じるなんて。でも、気になるよな。それに、守啓連隊長のお陰でこんなに気持ちがささくれて……気分転換にいいか――
いかにも小動物じみた動きで廊下を移動するネズミの後を、悠希は追いかけ始めた。
――アデライト・ラーゲルクヴィスト著・並列世界大戦回顧録「陽炎記」より抜粋――
〈どうした悠希? こんな朝早くに〉
怪訝な響きを思考に乗せ、陸がインプラント量子通信の向こうから問いかけた。躊躇いを覚えつつ、自室の机に座る悠希は思考を通信に乗せる。
〈悪い。どうしても、伝えておかなければいけないことがあるんだ。本当は、昨日陸に話すべきだったんだけど、僕にその勇気がなかった〉
〈? 何かあったのか?〉
奥深い相手を思いやる陸の思考音声に悠希は済まないと思いながら、端的に伝える。
〈昨日、澪が破壊された〉
〈何だって?〉
それまでの穏やかさが消え去った陸の声が、激しく乱れた。悠希は、大きく息を吸い込み覚悟を決めた。陸にありのままを話さなければならない、と。
〈僕が壊したんだ。昨日の戦いで〉
〈……そうなのか……。ニュースで、防壁を越えて機械兵が侵入してくるほどの激しい戦いがあったって、言っていたけど〉
〈ああ。その侵入したのが澪だったんだ。追ってた僕が、撃破した。僕がこの手でトリガスウィッチを押して、アイギスを――澪を破壊……否、殺した〉
電脳世界人を、思念体を血の通わぬ人の心を無くした演算するだけの冷徹な機械と思っている悠希だったが、物を壊したように言うことを何だか卑怯に感じて、紛れもなく加々美澪という存在を消滅させた事実から逃げているように感じて、人であるかのように言い直した。殺した、と。インプラント量子通信の向こうの陸はすぐには答えず、きっと様々な思いが去来していることが悠希には想像がついた。ホントに幼い頃から、悠希、陸、澪の三人は、一緒に過ごした。電脳世界にアップロードされるまでの幼い時期、悠希の記憶の中にある澪は生意気だったが、それでも愛おしく感じてしまうことも確かだ。様々な感情を秘めたような、陸の声が優しく悠希を包む。
〈大丈夫か? 悠希〉
〈え? 何が? え? これって……〉
〈だって悠希、通話越しに泣いてるから〉
知らず悠希の頬に、二筋の涙がはらはらと伝っていた。窓の外は灰色で、強い風に乗った雨が窓を強く叩いていた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ブリーフィングルームの机には、アデライト、寧々、錦、玲一、芽生が席に着き重たげな空気が漂う中朝のミーティングが始まるのを待っていた。まだ開始の時刻まで五分ほどあったので、室内のサーブスペースでアデライトが煎れてくれたコーヒーを、ブラックのまま一啜りした。口の中に苦みと酸味が広がり、悠希の奥底に沈殿する悲哀に何故だかよく馴染んだ。陸を相手にして悠希は泣いた。否、泣けた。もしかすると悠希は、幼馴染みと死に別れたというのに涙を流せなかったかも知れなかったのだ。澪を人ではない機械と思っていた悠希は、その死を物が壊れたように心の奥底は違っても考えていたのだから。
同じく幼馴染みの陸を相手にして、澪という物を破壊したと言ったままにしておけなかった悠希は言い直し、それで自分が何をしたのかを理解してしまったのだ。だから、涙が流れた。もしあのまま陸と話さなければ幼馴染みの澪の死に泣くこともなく、暗部となって悠希を歪な存在に遠からず変えていたに違いなかった。それこそ、悠希が忌み嫌う電脳世界人――血の通わぬ人の心を無くした演算するだけの冷徹な機械へ、と。
悠希は、あの涙で救われたのだ。決して思念体としての澪を人とは思わぬ悠希だったが、人間の感情が簡単には制御できない複雑な迷路であることをアデライトから教えられ、陸に晒してしまった態度も自分には必要だと分かっていた。思念体とは人間ではないが、かつては人間だった存在。それはとても哀れでもの悲しい。黒いコーヒーの液体を見詰め暫しの思索に迷い込んだ悠希の意識を、コノカのアルトが現実に引き戻す。
〈時間よ、悠希〉
「お早う、みんな。今日のミーティングを始める」
面を上げ悠希は、一同が複雑な視線を向けてくるのを敢えて構わず、その理由となる事柄を話すというのにさらりと続ける。
「昨日の戦いでは、敵に都市防壁内へ侵入されるという危機的状況を迎えた。けど、その機械兵は単独で昨日の戦闘の推移に鑑みてもイレギュラーであり、作戦行動とは別の要因が働いたためと推測される。それでも、防壁を越えられてしまったことは、僕たち軍人にとっては不名誉で、市民に不要の不安を与えてしまった。今後とも電脳世界軍との戦いには、さらなる精励が望まれる」
ブリーフィングを真面目に行う悠希だったが、今朝の話はやや訓示めいており模範解答のような言葉を淡々と連ねている印象が強い。まるで、己が内を知られまいとするかのように。だが、次に今朝微妙な空気が入埜第三小隊員たちに流れていた理由を話さなければならず、心臓の鼓動が早まる。
「喜ぶべきこともあって、第三小隊が事に当たり日本エリア攻略方面軍参謀機アイギス八を撃破できた。かの敵は、最新鋭機であり従属型ヴァレットを子機として使用しこれまでになかった機械兵の運用法を戦場に持ち込み、現実世界軍を苦しめた。一時的にせよ参謀機が敵方にいなくなったことで、これまでの損耗で増大した味方の負担を少しでも軽減することができる。特にアデライトの活躍は顕著で、小隊の実戦指揮を執ってくれたお陰でアイギス八に対抗することができた」
「そうだな。あたしたちだけだったら、まともな戦闘になったかどうか」
「あの憎たらしい参謀機を、追い詰めてくれた。最後は、奴さんやけ気味だったしな」
「みんなの力があってこそよ。悠希が、一人でアイギスを引きつけてくれたし」
悠希の話に同意する寧々と錦に、アデライトははにかむような表情を可憐な面に浮かべ、クールさを感じさせる不思議な甘い声音に照れたような響きを帯びさせた。その様子に、これまでなかった何かが一体となったような空気が小隊の皆に生まれた。それは、とても心地よかった。アデライトを認めることができて、小隊の実戦指揮を任せることができて、よかったと悠希は思う。あのまま自分が指揮を執っていたら、小隊員とアデライトの絆は育まれなかっただろう。ほろ苦く感じないと言えば嘘になるが、後悔していないことも悠希にとっての事実だ。
縁なし眼鏡のブリッジを押し上げ、玲一が和んだ空気を切り替える。
「従属型が使用する特化型AIは、意思がないから絶対服従。アデライト同様戦場全体を見渡す目が、アレを手足のように使えばどうなるか……今回は凌いだが……以前、連隊長も懸念していた」
「ええ。今後、アイギスのような新型が投入される可能性は大きいと思います。アイギスとの戦いで得られたデータを新型機開発に活かして、対応していく必要がありますね」
受ける芽生の言葉で、皆の顔に真剣さが宿った。いい流れだと、悠希は思う。自分が無理に皆を引っ張らなくても、自然とあるべき方向へと小隊は向かって行く。今後が話し合われ最後に悠希が簡単に纏めると、寧々がメゾソプラノに懸念を乗せ問う。
「大丈夫か? 悠希」
そら来たと、悠希は思った。ブリーフィングルームに漂っていた、どこか陰鬱とした空気の原因。悠希は、「何が?」とまるきり見当がつかぬという顔で問い返した。一つ溜息を蜜柑色の唇に乗せ寧々は、美人顔をきつくし思慮の色彩がある虹彩に朱の混じった瞳を鋭くする。
「はぐらかすな。アイギス八、加々美澪だったか? 悠希の幼馴染みなんだろう?」
じっと注がれる寧々の視線を受け止め、悠希は無言だった。正直、そのことをここで話すつもりなどなかった。陸に晒した涙が、ぶり返すかも知れないから。更に何か言おうと寧々が口を開きかけるが、アデライトが先んじる。
「ごめんなさい、悠希。必要だったとはいえ澪の相手を悠希一人にさせて、その上とどめを刺させてしまって」
「気にしないで。それが、兵士の仕事だから。僕が、一番早く追いついた。だから、役目を果たした。それだけ」
口調は柔らかいが、それだけに素っ気ない悠希にアデライトは小ぶりな唇を開きかけ言葉を途切れさせる。
「……悠希……」
ヒューマノイドのボディではあったが、その可憐な面には気遣わしさがありありと浮かんでいた。絡みつくしがらみを振り払うように悠希は、やや低めの声にきっぱりとした意思を乗せる。
「この話は、おしまい。僕個人の問題だ。心配してもらわなくても、ちゃんと心の整理は付けるよ」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
〈ちょっと小隊のみんなに冷たいんじゃない? ああいうとき頼るのが大人の態度よ。悠希の事情はみんな知ってる。だから、弱音を見せて欲しかったと思うわ〉
〈澪のことは、僕の立場のために利用していいことじゃない〉
〈そういうことを、言ってるんじゃないわ。あの場合、それが自然だったって言いたいだけ。綾咲さんやアデライトだって、悠希に頼って欲しかったと思うわ〉
〈それは……〉
軍学校同期の寧々は昔から悠希の抱える闇を心配していたし、アデライトは澪を知っている上に悠希と分かり合おうとしていた。二人とも悠希の精神的な立ち直りのために、真摯に向き合ってくれただろう。悪かったかな、とちらりと思う。
〈今度、二人には話してみるよ。気を揉ませちゃ悪いから〉
〈五寧さんや、芭蕉宮さんにも、よ〉
〈えー〉
〈何で、そんな嫌そうなのよ。五寧さん、接し方はちょっと問題が、いえ、かなり問題がある人だけど、悠希のこととても気に入ってるみたいだもの。芭蕉宮さんとは、せっかく信頼関係が築け始めたところなんだから。それに、久留美川博士だって〉
〈気が向いたら。コノカの言うことは分かるけど、澪のことは不純な動機で他人に話していいことじゃない。裏切ったあいつは嫌いだった。けど、澪は幼馴染みでその命を奪ったのは、僕なんだ。何か飲んで、気持ちを整理するよ〉
激情が蘇りそうになった悠希は廊下の先にカフェを見つけ、このまま小隊の皆と顔を合わせたくなかったので少し休んでいこうと向かった。悠希がよく利用する打ちっぱなしの壁に裸電球が特徴的なレトロなカフェと違い、パステル色を基調とした明るい色彩の若い女の子が好みそうな雰囲気にたじろぎつつ、どの席にしようかちらほら客のいる店内を見渡した。すると、窓辺の席に園香が座っているのを見つけた。
近づく悠希に気づきもせず、園香は手元の携帯端末を熱心に見詰めていた。インプラントと連動したネットワークが発達した現代、物としての端末は必ずしも必要とされない。記憶媒体でもあるそれを個人で利用するのは、遠く離れたサーバ上に大切な情報を置くことに不安を感じる者か、何ものとも共有したくない者だ。よほど、それは園香にとって重要な情報に違いなかった。周囲に注意を全く払っていないのをいいことに、悠希は園香の背後に回り込み華奢な肩越しに覗き込んだ。そこに表示されていたのは、およそこのような軍事基地には相応しくない内容だった。
ファンシーの一言。何かのシリーズだろうか? 様々に形態の異なる熊のぬいぐるみがずらりと並んでいた。憂鬱な気分を忘れ微笑ましくなり園香の顔の横近くに自分の顔を近づけ、悠希はフランクに話しかける。
「可愛いですね、連隊長」
「そうだろう。見ているだけで、普段の汚れた気持ちが、洗い流されていく。え? って、悠希!」
自然に応じつつ園香は声の主を振り返り、緩んでいた精緻な美貌をはっとさせ漫画のように椅子の上で飛び上がった。次の瞬間、ガバリと覆い被さるように携帯端末を悠希の視線から隠した。半ば呆れつつ悠希は、その普段の才媛ぶりとはかけ離れた園香の様子に眉を下げる。
「そんなに警戒しないでくださいよ。連隊長の趣味は、この前僕にばれてるんですから」
「だ、だが、あれはパフェを奢ったことで、悠希は忘れることになっていただろう」
真っ赤な顔で振り返り抗議する園香を、悠希は立場を置いて年下の女の子と素直に思える。
「無茶苦茶言わないでください。あれは、公言しないということで、僕が記憶喪失になる約束じゃありませんでしたよ。連隊長は、僕のこと嫌いですか? 僕は、素の連隊長のことを少しでも知ることができて、結構嬉しかったんですけど」
「う……ま、確かに悠希には隠し立てしても今更だものな。ん」
諦めたように園香は姿勢を正すとまだいつもと様子が違うが、前の席を悠希に座れと指し示した。席に座り、悠希は年上としての雅量を中性的で端正な面に閃かせる。
「好きなものは、好きでいいと思いますよ。それは、大っぴらにしない方が、連隊長の立場上いいと思いますけど。でも、僕個人としては、年相応って感じがして好きですけど」
「そ、そうか。それは、何よりと言うか」
顔を俯け口調だけでも威厳を保とうとする園香は、それでも精緻な美貌が緩んでいた。二二五名からなる連隊の指揮官とはいえ、一四歳の女の子だ。二つだけだが年上の悠希に、軍の役職ではない部分で肯定してもらえて嬉しいのだろう。
そのとき聞こえた足音に振り向くと、髪を三つ編みにした部屋の色彩と合った柄の制服を着用したヒューマノイドのウェイトレスが、注文を取りに来たところだった。注文を済ませウェイトレスが下がると、悠希は置かれたお冷やを一飲みした。注文にインプラント量子通信を介さない古風な注文スタイルは、基地に勤める者たちからの評判がいい。自動化が行き届いた現在では、こうしたサービスの受けがいいのだ。それが、ヒューマノイドが行うことだったとしても。頃合いを見計らうように暫くすると、立ち直った園香が問いかける。
「大丈夫か、悠希?」
「何がです?」
何を園香が問いかけているのか分かってはいたが、悠希ははぐらかした。涼やかな目元を鋭くし、構わず園香は切り込む。
「悠希は、昨日幼馴染みをその手にかけた。確か、澪だったな。後悔しているか?」
軋るような痛みが胸に走り同時に容赦なく踏み入ってくる少女に怒りを覚えたが、注文の品が運ばれてきて気持ちを悠希は落ち着けることができた。今更、と思う。いずれ、誰かに話すことだ。コーヒーの苦みに思考をはっきりさせると、悠希は口を開く。
「……そんな筈はない、と思っていたんです。電脳世界にアップロードされた澪のことは、人の心を無くした演算するだけの冷徹な機械だって知ってたから、機械を破壊しただけだって。けど、昨日感じた不安が分からなくて、今日それを知ったとき悲しくなって。僕は、昨日壊したアイギス八を、思念体である澪のことを、殺したって、人間だって感じてしまったんです」
「それを悪いことのように、悠希は話すのだな」
哀れむような、同情するような園香の視線に晒されて、悠希は居心地が悪かった。軍服に隠れた胸のペンダントが、熱を帯びたような気がした。反発が、悠希の口を衝く。
「だってそうでしょう。電脳世界人が、人間である筈がないんです。僕の故郷を滅ぼした彼らが。彼らは人間でないから、あんなことができる。なのに、澪を人間であるかのように感じてしまった僕は、現実世界を裏切ったんです。電脳世界に対する考えも、揺らいで」
「よかった」
反射的に悠希は、敵意を込め「は?」と園香を睨んだ。何を言っているんだ、と。湖面を思わせる智の宿りのある瞳を怜悧にし、園香は滑らかで涼やかな声に確かな意思を込める。
「悠希がまともになって、よかったと言ったんだ。模擬戦のとき悠希の思いを聞いて、心配していたんだ。戦時中のお題目ではなくて、悠希が本心から敵は機械でそんな連中は滅ぼさなければならないと、信じて渇望してたから」
「いけませんか?」
最早園香が自分を否定していると分かった悠希は、敵に対するように身構えた。園香も、表情と口調に鋭さを上乗せする。
「いけないな。本心でもないことを信じ込もうとするのは。わたしは、安心したんだ。あんなことを、心の底から思っていたら悠希は狂人だって。でも、そうじゃないって分かった。嬉しいよ。わたしは、悠希のことが嫌いじゃないからな」
「あなたは、現実世界軍の一軍を預かる連隊長の一人です。なのに敵を認めろ、と? 兵士は挨拶のように言ってますよ。電脳世界人は機械だ。そんな者たちが住む世界は、滅ぼさなければいけないって」
ずかずか踏み入ってくる園香に、悠希は止めろと言いたかった。だから詰るが、園香は態度と口調を先程見せた少女としての彼女とはまるで別物の、冷厳と高圧的なものとする。
「すり替えるな。わたしは、悠希と話していて悠希のことを話している。彼らが、戦争の気分に晒されて、そう言っているだけだってことくらい悠希は分かるだろう。本当に電脳世界を、思念体を憎んでいた悠希には。中には、家族や友人を戦争で失った者もいるだろうが、大半は違う。重みが違うよな。悠希とはまるきり。彼らのはただの挨拶」
「……挑発してるんですか?」
体内の温度が下がるのを悠希は感じ、怒りを声にそのまま乗せた。相手が上官だろうが関係ない。園香は、悠希の過去を愚弄したのだ。受け止める園香は一四歳の少女とは思えぬ胆力を見せ、悪そうな笑みを精緻な美貌に浮かべる。
「そうだ。全て吐き出してしまえ。それですっきりしろ。アデライトのことで少なくても蟠りは見えなくなって、いい方向へ悠希は向かってると思った。澪のことはいい契機だ。電脳世界への認識を変えるときだ、悠希」
「そんな必要はありません。アデライトは、電脳世界と現実世界の共存を望んでいますが、僕は望んだりしません。今でも僕は人の心を肉体に置き忘れた電脳世界は、あってはならないと思っています」
「死んだ澪も、進化し損ねた下等な猿が住む現実世界は滅ぶべきだと言っていたな。何だか、似てるな。悠希と澪は」
「アデライトにも言われました。電脳世界至上主義の澪の選民思想と、僕の考えは大差ないって。現実世界だけを存続させようと、他を認めないところが。それでも僕は、敵である彼らを許せない。僕から全てを奪った、彼らを」
軍服に隠れた故郷の象徴――家族の写真が入ったペンダントを、知らず悠希は握り絞めた。話していてもの悲しくなるが、故郷を、家族を、友人を奪った電脳世界を悠希は認めるわけにはいかないのだ。艶やかな珊瑚色の唇に一つ溜息を落とすと、園香は口調を淋しげにする。
「分かっていて、妄執に振り回されるのか? 過去が憎しみに染め上げた眼鏡を外して世界を見ることができないのは、哀れむべきことだな。アデライトといった格好の教師が身近にいるというのに」
「残念ですが、僕にはその世界は必要ありません」
冷たく言い切る悠希から、つと園香は視線を外し呟く。
「……春の嵐」
「え?」
唐突な言葉に問い返すと、園香は窓の外を見ていた。いよいよ雨脚は滝のように強まり暴風が吹き荒れ、外の風景を一変させていた。視線を悠希に戻し、悲しげな美貌を園香は向ける。
「まるで、悠希の心のようじゃないか。様々な思いが千々に吹き荒れ、決して光が差し込む雲間すら見えはしない。その目は、世界を覆い隠す嵐だけしか映し出さない」
席を立ち最低限礼を失しない暇乞いをすると、悠希はその場から去った。カフェの外へ出ると、心を落ち着けるように大きく息を吸い吐き出した。首を振り悠希は、抱いてしまった怒りを振り払い歩き出そうとした視線の先に、それを見咎めて一歩を踏み出すことを躊躇った。一匹のネズミが赤い目を振り上げ、悠希を見詰めていたからだ。首を傾げるような仕草をし、チュッチュと鳴いた。
――どうしてネズミなんかが、基地に? 通風口はシールドされてる筈。人の出入りに紛れて入り込んだのか? ――
疑問を悠希が巡らせているとネズミはちょこちょこと歩き出し、振り返りまたじっと悠希を見詰めた。まるで、ついて来いとでも言うように。惹かれるように悠希が近づくと、またちょこまかと歩き出した。悠希は、端正な面を顰める。
――僕も馬鹿なことを考える。ネズミに意思があるように感じるなんて。でも、気になるよな。それに、守啓連隊長のお陰でこんなに気持ちがささくれて……気分転換にいいか――
いかにも小動物じみた動きで廊下を移動するネズミの後を、悠希は追いかけ始めた。
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