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FILE4『ベートーヴェン・シンドローム』
6・楽聖
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「それに、暗譜も早い。君の暗譜の仕方は人とちょっと違う。大抵の人間は音符を見て一つずつ、一小節ずつ指に覚えさせて弾く。でも司くんは一枚の楽譜を頭の中の写真で撮って一瞬で覚えてしまうカメラアイを持っているだろう?」
「そのようです」
「一度頭の中で撮った写真は、弾くときに記憶の中から引き出して、それを頭の中で見て弾くって以前言ってたね。それは才能だよ、司くん。神様から贈られたギフトだ」
そうなのだろうか。俺の覚え方は特殊だと病院の先生にも言われたことがあるが、人がどういう方法で覚えているのかわからないので、自分の中では普通のことだった。
それに俺からしたら、絶対音感を持っている音楽家の方がすごいと思う。
先生はしばらく沈黙した後、やがて言いづらそうに重く口を開いた。
「……ただ、ベートーヴェン。それがちょっとネックかな。ピアノを三年間ほど習っていれば、『楽聖』の曲を弾かないことはまずない。もしピアノの先生になって、先生がエリーゼのためにすら弾けませんでは、生徒に示しもつかない。ピアノを習っている生徒ならば、エリーゼのためにを弾くことは絶対に通る道だからね。本当のところ、自分で原因はわかっているのかい?」
俺は俯いて首を横に振った。エリーゼのためにを習うときに、体中から拒否反応が出るようにじんましんが溢れた。
指を動かそうとすると、じんましんが増えて行き、両手を鍵盤に置こうものならば震えが止まらず、やがて脂汗がじわりとにじみ出てきた。そのときは冬だったと記憶している。
そして、失神してからというもの、弾こうとしても身体が拒否反応を示して弾けないというのが現状だった。
当時は何故か原因がわからず、エリーゼのためには飛ばして習った記憶がある。演奏を聴く分には拒否反応は出ないのだが、その理由はやがて徐々に判明していった。
その後、トルコ行進曲やピアノソナタのときも拒否反応が出た。このときはじんましんだけでなく、心身の震えがきて、寒気が全身を襲った。
そして先生が気付いたのは「ベートーヴェンの曲を弾こうとするときに症状が出る」ということだった。
ベートーヴェンが嫌いなわけではない。
ピアノソナタ十四番月光が大好きで、いつか弾けたら良いと思っている。
俺の好きな楽団がベートーヴェンの交響曲を演奏するときは、両親に頼み込んでチケットを取ってもらっていたし(対価に家の手伝いを積極的にし、小遣いは三カ月分なしだったけれど)年末には必ずテレビで第九のオーケストラを聴いてから眠りに就くくらいなのだ。
何故ベートーヴェンだけ弾けないのか、自分にもわからない。小児精神科の先生は何らかの原因があったはず、けれどその原因がまだ不明だ、と言うだけで結局はわからなかった。
ベートーヴェンが尊敬していたモーツァルトの曲は問題なく弾けるのに、何故だろうか。
自分が将来何をしたいか、どうやって生活をしたいか、もう一度見つめ直してみる必要がありそうだった。
しばらく直立不動で考え込んでいた俺を見かねて、先生がふと声をかけてきた。
「そうだ。以前のブロッサムピアノコンクール小学生の部に、すごいのがいたんだよ。その映像、司くんに見せてあげよう。きっと励みになるから」
先生はいそいそと部屋を出て行くと、しばらくしてDVDを一枚持ってきた。部屋に備え付けられていた五十インチくらいの大きなDVD内臓テレビに、それを入れて再生した。
『次の演奏は、霧島 サクヤくん、別れの曲です』
「……」
俺の弾く予定だった曲なので、思わず画面を二度見したのを、先生に苦笑されてしまった。
出てきたのは、俺と同じくらいの年齢の華やかな顔の美少年だった。お辞儀をする際、さらりとした髪の毛が眉にかかり、とろんとした二重の優しそうな眼差しが観客を魅了していた。それまでの観客の雰囲気がガラリと変わり、会場がしんと静まり返った。
「……会場の雰囲気が……変わった」
「彼、霧島 サクヤくんは音楽の天使に愛された二番目の男だと私は思っている。天才だよ。瞬きせずに彼の指を見ていてご覧。すごい弾き方をするから」
一番目に愛された人は誰なのか聞くのを忘れるくらい、彼の演奏は俺の心を捉えた。小さな手で器用に鍵盤を自分のものとしていて、ピアノに踊らされていない、地に足を着けたような演奏だった。
楽譜に忠実で、まさしく優等生的な癖のない演奏だったけれど、機械的な印象は受けず、テレビ越しに聞こえてくる音が美しく澄んで、春の風のように爽やかな印象を受けた。彼の軽やかな雰囲気がそうしているのかもしれなかった。
別れの曲の名とは裏腹に、軽やかに演奏し淡々と終了した。弾き終わったという余韻を残さず、観客に判断を任せんばかりといった空気のような終わり方だった。衝撃的だった。自分の感情を押し付けるのではなく、観客に曲の印象を丸投げにしている演奏家を初めて見た。
誰しも演奏家には弾き癖があるが、彼はそれがない。それ以前に楽譜に忠実に弾くことで演奏家に敬意を表していることが一見してわかる。
チャラチャラした印象の男だが、誠意を持って作曲家たちに向き合っている精神が手に取るように伝わってきた。聞き手に自分の感情を押し付けないことで、逆に魂を揺さぶられた思いだった。
「……こんな人いるんだ」
涙がこぼれそうになるのを堪え、呟いた。
「彼の弾き方はまるで春の暖かい風だ。別れの次にある出会いを予感させる弾き方だ。こんな軽やかに、何でもないように難曲を弾けるのは彼の特徴だ。曲を弾き終わった後も飄々としている。『弾き終わった』という達成感が表に出ることなく、まるで諸法無我だと言わんばかりのこの飄々とした表情。にくいねえ」
俺も同じ印象を受けていたところだったので、静かにその声に頷いていた。しょほうむがは国語辞典に載っていたのを見たことがある。
確か、移ろう世界に永遠や不変な『我』は存在しない……という意味だ。
彼は恐らく、ピアノを弾いているときには音と一体になっている。そんな印象だ。すでに鍵盤を自分の身体の一部としているような感じだ。
「名前……何て言いましたっけ」
彼の演奏に衝撃を受けてしまい、言葉が掠れてしまった。先生は挑発するようににやりと笑った。
「霧島 サクヤ。このままいけば司くん最大のライバルになるかもね。彼は今、聖アランフェス学園高等部の二年生。十六歳だよ。君とは四歳差か。いいね、楽しみだ」
「きりしま、さくや……」
名前を心に刻みつけるように、俺は復唱した。
演奏を終えた彼が、観客に向かってお辞儀をし、その後投げキッスをしていた。せっかくの王子顔がもったいないくらい、チャラい印象を受けた。
6.続く
「そのようです」
「一度頭の中で撮った写真は、弾くときに記憶の中から引き出して、それを頭の中で見て弾くって以前言ってたね。それは才能だよ、司くん。神様から贈られたギフトだ」
そうなのだろうか。俺の覚え方は特殊だと病院の先生にも言われたことがあるが、人がどういう方法で覚えているのかわからないので、自分の中では普通のことだった。
それに俺からしたら、絶対音感を持っている音楽家の方がすごいと思う。
先生はしばらく沈黙した後、やがて言いづらそうに重く口を開いた。
「……ただ、ベートーヴェン。それがちょっとネックかな。ピアノを三年間ほど習っていれば、『楽聖』の曲を弾かないことはまずない。もしピアノの先生になって、先生がエリーゼのためにすら弾けませんでは、生徒に示しもつかない。ピアノを習っている生徒ならば、エリーゼのためにを弾くことは絶対に通る道だからね。本当のところ、自分で原因はわかっているのかい?」
俺は俯いて首を横に振った。エリーゼのためにを習うときに、体中から拒否反応が出るようにじんましんが溢れた。
指を動かそうとすると、じんましんが増えて行き、両手を鍵盤に置こうものならば震えが止まらず、やがて脂汗がじわりとにじみ出てきた。そのときは冬だったと記憶している。
そして、失神してからというもの、弾こうとしても身体が拒否反応を示して弾けないというのが現状だった。
当時は何故か原因がわからず、エリーゼのためには飛ばして習った記憶がある。演奏を聴く分には拒否反応は出ないのだが、その理由はやがて徐々に判明していった。
その後、トルコ行進曲やピアノソナタのときも拒否反応が出た。このときはじんましんだけでなく、心身の震えがきて、寒気が全身を襲った。
そして先生が気付いたのは「ベートーヴェンの曲を弾こうとするときに症状が出る」ということだった。
ベートーヴェンが嫌いなわけではない。
ピアノソナタ十四番月光が大好きで、いつか弾けたら良いと思っている。
俺の好きな楽団がベートーヴェンの交響曲を演奏するときは、両親に頼み込んでチケットを取ってもらっていたし(対価に家の手伝いを積極的にし、小遣いは三カ月分なしだったけれど)年末には必ずテレビで第九のオーケストラを聴いてから眠りに就くくらいなのだ。
何故ベートーヴェンだけ弾けないのか、自分にもわからない。小児精神科の先生は何らかの原因があったはず、けれどその原因がまだ不明だ、と言うだけで結局はわからなかった。
ベートーヴェンが尊敬していたモーツァルトの曲は問題なく弾けるのに、何故だろうか。
自分が将来何をしたいか、どうやって生活をしたいか、もう一度見つめ直してみる必要がありそうだった。
しばらく直立不動で考え込んでいた俺を見かねて、先生がふと声をかけてきた。
「そうだ。以前のブロッサムピアノコンクール小学生の部に、すごいのがいたんだよ。その映像、司くんに見せてあげよう。きっと励みになるから」
先生はいそいそと部屋を出て行くと、しばらくしてDVDを一枚持ってきた。部屋に備え付けられていた五十インチくらいの大きなDVD内臓テレビに、それを入れて再生した。
『次の演奏は、霧島 サクヤくん、別れの曲です』
「……」
俺の弾く予定だった曲なので、思わず画面を二度見したのを、先生に苦笑されてしまった。
出てきたのは、俺と同じくらいの年齢の華やかな顔の美少年だった。お辞儀をする際、さらりとした髪の毛が眉にかかり、とろんとした二重の優しそうな眼差しが観客を魅了していた。それまでの観客の雰囲気がガラリと変わり、会場がしんと静まり返った。
「……会場の雰囲気が……変わった」
「彼、霧島 サクヤくんは音楽の天使に愛された二番目の男だと私は思っている。天才だよ。瞬きせずに彼の指を見ていてご覧。すごい弾き方をするから」
一番目に愛された人は誰なのか聞くのを忘れるくらい、彼の演奏は俺の心を捉えた。小さな手で器用に鍵盤を自分のものとしていて、ピアノに踊らされていない、地に足を着けたような演奏だった。
楽譜に忠実で、まさしく優等生的な癖のない演奏だったけれど、機械的な印象は受けず、テレビ越しに聞こえてくる音が美しく澄んで、春の風のように爽やかな印象を受けた。彼の軽やかな雰囲気がそうしているのかもしれなかった。
別れの曲の名とは裏腹に、軽やかに演奏し淡々と終了した。弾き終わったという余韻を残さず、観客に判断を任せんばかりといった空気のような終わり方だった。衝撃的だった。自分の感情を押し付けるのではなく、観客に曲の印象を丸投げにしている演奏家を初めて見た。
誰しも演奏家には弾き癖があるが、彼はそれがない。それ以前に楽譜に忠実に弾くことで演奏家に敬意を表していることが一見してわかる。
チャラチャラした印象の男だが、誠意を持って作曲家たちに向き合っている精神が手に取るように伝わってきた。聞き手に自分の感情を押し付けないことで、逆に魂を揺さぶられた思いだった。
「……こんな人いるんだ」
涙がこぼれそうになるのを堪え、呟いた。
「彼の弾き方はまるで春の暖かい風だ。別れの次にある出会いを予感させる弾き方だ。こんな軽やかに、何でもないように難曲を弾けるのは彼の特徴だ。曲を弾き終わった後も飄々としている。『弾き終わった』という達成感が表に出ることなく、まるで諸法無我だと言わんばかりのこの飄々とした表情。にくいねえ」
俺も同じ印象を受けていたところだったので、静かにその声に頷いていた。しょほうむがは国語辞典に載っていたのを見たことがある。
確か、移ろう世界に永遠や不変な『我』は存在しない……という意味だ。
彼は恐らく、ピアノを弾いているときには音と一体になっている。そんな印象だ。すでに鍵盤を自分の身体の一部としているような感じだ。
「名前……何て言いましたっけ」
彼の演奏に衝撃を受けてしまい、言葉が掠れてしまった。先生は挑発するようににやりと笑った。
「霧島 サクヤ。このままいけば司くん最大のライバルになるかもね。彼は今、聖アランフェス学園高等部の二年生。十六歳だよ。君とは四歳差か。いいね、楽しみだ」
「きりしま、さくや……」
名前を心に刻みつけるように、俺は復唱した。
演奏を終えた彼が、観客に向かってお辞儀をし、その後投げキッスをしていた。せっかくの王子顔がもったいないくらい、チャラい印象を受けた。
6.続く
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