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FILE4『ベートーヴェン・シンドローム』
5・モレンド
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ハルカは幼稚園の頃から群れることを好まず、友達を作ろうという気もないようで、大抵一人で過ごしていた。
細かい作業が好きで、壊れたクラスのテレビのリモコンを分解して直していたり、本を読みふけっていたり、観葉植物の手入れを入念にしていたりと、色々勤しんでいるから友達と一緒にいない方が好きなことが出来ると笑っているような奴だった。
そんなハルカだが、たくみと一緒にいることは嫌ではないようで、度々うちのクラスに絡みにくることも多くなった。喜ばしいことだと俺は思う。
あれだけ他人のことに執着しなかったハルカが、人に興味を持つことは人間としての成長なのではないだろうか。
佐久間は誰にでもああいう態度を取るような奴だとはわかっているが、どうしても絡まれると心臓が跳ね上がって未だに鼓動を打っている。俺も人が怖い。恐らくハルカは選択して一人でいることを厭わないが、俺はそうじゃない。
人の目が昔から怖く、馴染むことがとても苦手だった。三年生の後半と四年生のはほとんど学校に行けず、家でピアノを弾いて過ごしていたくらいだ。
そんな俺からしたら、佐久間という存在は得体が知れず怖いのかもしれない。良く暴力をふるうということで、気の弱い人はやられていることが多かったからだ。自分を頂点にして、意見に従わない者は敵とみなされる。
俺も敵とみなされているようだった。彼に暴力を振るわれたらと思うと、ぞっとした。そして臆病な俺は、ハルカと自分を天秤にかけ、自分の身を守ってしまいそうで、それも恐ろしく怖かった。
「うん、いいね。司くんの演奏は深い海の底で、温かい膜を冷たい水に守られていると錯覚するような、そんなイメージかな」
深い皺が顔全体に浮かび上がった。若い頃の先生は、スパルタ教育で有名だったらしく、タクトで生徒の手の甲を叩くことなんてざらにあったらしいが、現在では体罰問題が大きな顔をするようになったということで、マイルドになったらしい。
男性の先生にピアノを教わりたいと言ったのは俺だった。性別の違う人に教わっても、弾き方や指の力の入れ具合、弾く姿勢一つとっても全然違うからだ。
実際、音符一つ間違えただけで鬼のような形相になるけれど、一曲通して完璧に弾けたときなどは、余韻に浸るようにしばらく目を瞑り、ようやく拍手をしてくれるような、感覚に正直な先生だった。
「右手小指は、どうだ? まだ筋が張った感じかな? 君は加減を知らず弾きすぎる悪い癖があるから、そこは直さないといけないよ」
白髪を整髪料できちんと固め、口髭を蓄えたピアノの先生は、俺の小指を触りながら言った。まだ張るときはあるけれど、以前よりは治ってきましたと伝えた。
「そうすると来週の発表会は、どうしようか? 夏に指をやったと聞いたときは、強制的に亡き王女のためのパヴァーヌにシフトしたけれど、もし指の状態が良ければ別れの曲に戻すかい?」
夏休みの間、俺が考えていたことを先生に伝えることにした。
「選曲の前に、少し良いですか。先生、将来音楽で食べていくためには、小学六年生で俺くらいのレベルだと間に合いませんか?」
「うーん、そうだねえ……」
先生は口髭をさすりながら考えているようだった。
正直、俺の家は音楽一家でも何でもない。ただ俺が頼み込んでピアノを習わせてもらっているだけだ。父親も母親も音楽に厳しくはない。小さい頃からピアノ漬けで育ってきたわけでもない。天才的な才能だって、絶対音感だってあるわけでもない。むしろ人よりも劣っている部分がある。
そんな俺が、将来音楽の世界に飛び込んでいくのは、かなりの努力が必要だと実感していた。世界には俺より下の学年でも、別れの曲を涼しい顔で弾ける人がたくさんいるだろう。
無理言って週に二回ピアノを習わせてもらっているが、個人レッスン料は安くない。母親は週一にさせたいらしいけれど、俺はむしろ増やして欲しいと思っている。
狭き門なのは知っているけれど、作曲家たちの精神に一生浸るには、音楽を職業にするのが一番だと考えたのだ。
受験だって、渋る両親を納得させてくれたのは兄と姉だった。公立に行き、健やかにのびのびと育って欲しい両親の教育方針に俺は当てはまらないから、親と衝突することも多い。
けれど、公立高校に通う兄や、公立中学に通う姉が援護射撃をしてくれて、何とか音楽科のある中学を受験させてもらえることになった。
「司くんの言う『音楽で食べていける』という概念が曖昧で何とも言えないけれど……」
先生は前置きをして頷いた。
「例えば、私のようにピアノの先生になりたいというならば、そうだね、音大に行って学んでいればなんとか食いつないではいけると思う。しかし、プロの演奏家になりたいという夢があるならば、色々なコンクールにたくさん参加して入賞し、専門家の目に留まった方が良い。露出が増えればスポンサーも付くからね。変な話、この業界はお金が物を言う世界でもある。君の堅実で、人と勝負することが苦手な性格を考えたら、お勧めは前者かな。ピアノの先生か、学校の音楽の先生になるのを目標とし、このまま練習を怠らなければ、君は努力家だし、食べていけるレベルだと私は思っているよ。小学生で別れの曲を弾ける人はそれなりにいるだろうけれど、人に『聴かせる』レベルで弾ける人は、そうそういない。君の演奏はそのレベルにはあると思う」
俺は先生の言葉を、口を挟まずに聞いた。素直に嬉しかった。
5.続く
細かい作業が好きで、壊れたクラスのテレビのリモコンを分解して直していたり、本を読みふけっていたり、観葉植物の手入れを入念にしていたりと、色々勤しんでいるから友達と一緒にいない方が好きなことが出来ると笑っているような奴だった。
そんなハルカだが、たくみと一緒にいることは嫌ではないようで、度々うちのクラスに絡みにくることも多くなった。喜ばしいことだと俺は思う。
あれだけ他人のことに執着しなかったハルカが、人に興味を持つことは人間としての成長なのではないだろうか。
佐久間は誰にでもああいう態度を取るような奴だとはわかっているが、どうしても絡まれると心臓が跳ね上がって未だに鼓動を打っている。俺も人が怖い。恐らくハルカは選択して一人でいることを厭わないが、俺はそうじゃない。
人の目が昔から怖く、馴染むことがとても苦手だった。三年生の後半と四年生のはほとんど学校に行けず、家でピアノを弾いて過ごしていたくらいだ。
そんな俺からしたら、佐久間という存在は得体が知れず怖いのかもしれない。良く暴力をふるうということで、気の弱い人はやられていることが多かったからだ。自分を頂点にして、意見に従わない者は敵とみなされる。
俺も敵とみなされているようだった。彼に暴力を振るわれたらと思うと、ぞっとした。そして臆病な俺は、ハルカと自分を天秤にかけ、自分の身を守ってしまいそうで、それも恐ろしく怖かった。
「うん、いいね。司くんの演奏は深い海の底で、温かい膜を冷たい水に守られていると錯覚するような、そんなイメージかな」
深い皺が顔全体に浮かび上がった。若い頃の先生は、スパルタ教育で有名だったらしく、タクトで生徒の手の甲を叩くことなんてざらにあったらしいが、現在では体罰問題が大きな顔をするようになったということで、マイルドになったらしい。
男性の先生にピアノを教わりたいと言ったのは俺だった。性別の違う人に教わっても、弾き方や指の力の入れ具合、弾く姿勢一つとっても全然違うからだ。
実際、音符一つ間違えただけで鬼のような形相になるけれど、一曲通して完璧に弾けたときなどは、余韻に浸るようにしばらく目を瞑り、ようやく拍手をしてくれるような、感覚に正直な先生だった。
「右手小指は、どうだ? まだ筋が張った感じかな? 君は加減を知らず弾きすぎる悪い癖があるから、そこは直さないといけないよ」
白髪を整髪料できちんと固め、口髭を蓄えたピアノの先生は、俺の小指を触りながら言った。まだ張るときはあるけれど、以前よりは治ってきましたと伝えた。
「そうすると来週の発表会は、どうしようか? 夏に指をやったと聞いたときは、強制的に亡き王女のためのパヴァーヌにシフトしたけれど、もし指の状態が良ければ別れの曲に戻すかい?」
夏休みの間、俺が考えていたことを先生に伝えることにした。
「選曲の前に、少し良いですか。先生、将来音楽で食べていくためには、小学六年生で俺くらいのレベルだと間に合いませんか?」
「うーん、そうだねえ……」
先生は口髭をさすりながら考えているようだった。
正直、俺の家は音楽一家でも何でもない。ただ俺が頼み込んでピアノを習わせてもらっているだけだ。父親も母親も音楽に厳しくはない。小さい頃からピアノ漬けで育ってきたわけでもない。天才的な才能だって、絶対音感だってあるわけでもない。むしろ人よりも劣っている部分がある。
そんな俺が、将来音楽の世界に飛び込んでいくのは、かなりの努力が必要だと実感していた。世界には俺より下の学年でも、別れの曲を涼しい顔で弾ける人がたくさんいるだろう。
無理言って週に二回ピアノを習わせてもらっているが、個人レッスン料は安くない。母親は週一にさせたいらしいけれど、俺はむしろ増やして欲しいと思っている。
狭き門なのは知っているけれど、作曲家たちの精神に一生浸るには、音楽を職業にするのが一番だと考えたのだ。
受験だって、渋る両親を納得させてくれたのは兄と姉だった。公立に行き、健やかにのびのびと育って欲しい両親の教育方針に俺は当てはまらないから、親と衝突することも多い。
けれど、公立高校に通う兄や、公立中学に通う姉が援護射撃をしてくれて、何とか音楽科のある中学を受験させてもらえることになった。
「司くんの言う『音楽で食べていける』という概念が曖昧で何とも言えないけれど……」
先生は前置きをして頷いた。
「例えば、私のようにピアノの先生になりたいというならば、そうだね、音大に行って学んでいればなんとか食いつないではいけると思う。しかし、プロの演奏家になりたいという夢があるならば、色々なコンクールにたくさん参加して入賞し、専門家の目に留まった方が良い。露出が増えればスポンサーも付くからね。変な話、この業界はお金が物を言う世界でもある。君の堅実で、人と勝負することが苦手な性格を考えたら、お勧めは前者かな。ピアノの先生か、学校の音楽の先生になるのを目標とし、このまま練習を怠らなければ、君は努力家だし、食べていけるレベルだと私は思っているよ。小学生で別れの曲を弾ける人はそれなりにいるだろうけれど、人に『聴かせる』レベルで弾ける人は、そうそういない。君の演奏はそのレベルにはあると思う」
俺は先生の言葉を、口を挟まずに聞いた。素直に嬉しかった。
5.続く
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