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1巻
1-2
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「今日は晴れてるから外で朝食といこう」
白露は私をベランダに誘う。大きな窓の向こうには、朝の春龍街が広がっていた。
「わあ……!」
どうやら白露の家は、街のかなり高い所にあるらしい。ベランダから春龍街の様子がよく見えた。
こうして日の光のもとで見ると、街は様々な建物が危なっかしく入り組んでいる。その建物を階段や橋が無理やり繋いでいるといった感じだ。きっとここに建築法とかはないのだろう。
その階段ほんとに上れるの? とか、その屋根、ほとんど崩れて隣の家に倒れかかってるけど大丈夫? とか心配になる構造は、アクロバティックで見ていて飽きない。
「和洋中の建築物が混在してるって感じね。でも意外とすっきり見える」
「屋根の色は青か黒と決められているからじゃないかな」
「ああ、なるほど――あ、あの広場みたいなところは何?」
「あれは市場だよ。今日は日曜日だから……花市がやってるんじゃない?」
言いながら白露は私を椅子に座らせる。アンティークの鉄の椅子で、濃い緑のクッションが置かれていた。
テーブルには湯気の立つコーヒーと、どこかココナッツの香りのするトースト、そして温泉卵が並べられている。
「美味しそう! でもなんでトーストに温泉卵なの?」
「シンガポール式を気取ってみた。お代わりはセルフで、それじゃいただきまーす」
さくっとトーストにかじりつくと、ココナッツの甘くて香ばしい匂いが口内に広がる。半分に切られているので、さくさく感を存分に楽しめるのもいい。
私はブラックを飲んでいるが、白露はコーヒーに練乳と牛乳を入れていた。今度私も試してみようと思う。
「それにしても、誰かとご飯食べるのって、久しぶりかも」
「へえ? 家族や友人は? あるいは恋人でも」
「全部いない」
素っ気なく答える。同情されるかと思いきや、白露は優しく微笑むだけだった。
「奇遇だね。僕もだ」
沈黙が下りる。けれどそれは不思議と気まずいものではなかった。
コーヒーを飲みながら、春龍街を上から眺める。
この街には一回しか足を踏み入れたことがない。その時の思い出が衝撃的すぎて、あまりいい印象がなかった。
でも、残業明けの今、たっぷり眠った体で体感する春龍街は、思い出のそれより遥かに美しかった。雑多で建物がひしめき合っているけれど、活気があって、何より居心地がいい。
全身がゆるやかに弛緩する。クッションの上でくつろぐ猫みたいに、ぐぐっとのびをした。
「ぐっすり寝た後に、綺麗な景色を眺めながら美味しい朝ご飯が食べられるなんて、サイコー……」
「うーん、疲弊したサラリーマンの模範的なコメントだね」
笑いながらコーヒーのお代わりを注いでくれる白露を、私はちらりと横目で見る。
「――で?」
「で? とは」
「寝床に服に朝ご飯。ここまでもてなして、一体私に何をさせたいの」
そう尋ねると白露は一瞬固まったが、ややあってにこーっと嬉しそうに笑った。
「やっぱ、バレてた?」
「バレバレ。私の麒麟眼が目当てでここに連れてきたんでしょ」
「いや、最初は本当に地図が読めなくて、君の力を借りられたらと思ったんだよ。春龍街に連れてくる気はなかった」
「嘘ばっかり」
「本当だよ。鵺の言葉なんか、信じるに値しないかもしれないが」
苦笑交じりに言う白露は、何から話そうか、と呟いて腕を組んだ。
「まずは僕の仕事を説明しよう。僕は人間社会では美術商みたいなことをしていてね。春龍街のものを人間に売ったり、人間社会のものをあやかしに売ったりしているんだ」
「それって美術商っていうより、貿易商って感じに近いような気がするけど」
「人間社会では美術商と名乗った方が、通りがいいんだよね。実際、芸術品も多く取り扱ってるし。それで、二つの社会を行き来している間に、色々と頼まれごとをすることもあって、その頼まれごとの一つが真贋鑑定なんだ」
真贋鑑定。なるほど、麒麟眼が必要そうな依頼だ。
「人間社会にもあやかしの常識にも通じている僕なら、これが本物かどうか分かるだろう? って聞かれることがとても多くてね。今回もその手の依頼を受けたんだけど、どうも厄介な相手だから、対応には注意が必要そうなんだ」
困ったように頭をかく白露。そして私の方を見た。
「だから君に助けてもらいたい。僕のところに来た依頼を、君の麒麟眼で解決してほしいんだ」
言い切ってしまうと、白露は肩の荷が下りたといった顔で練乳をたっぷり入れたコーヒーに口をつける。
助けてあげる義理はない、と思う。私はこっちに無理やり連れてこられた身だし。
それでも、春龍街の爽やかな朝の風に吹かれながら朝食をとっていると、どうにも気が大きくなってしまうのは事実で。
どうしようか迷っていると、大きな声が響き渡った。
「ごきげんよう! 春龍街の夜はいかがだったかしら?」
声は向かいの西洋風の建物から聞こえてくる。
傾斜の急な屋根の上に苦もなく立ち、こちらを見つめているのは、狐耳の少女だった。
彼女はひらりと屋根を蹴ると、そのまま十数メートルはあろうかという距離を軽々と跳躍して、私たちのいるベランダにふわりと降り立った。
長い髪が美しくなびき、金色の尾がふわりと優雅に揺れた。
近くで見ると、少女はとても整った顔立ちをしている。緋色の目につんと上を向いた小さな鼻、八重歯の覗くさくらんぼのような愛らしい唇。
長い栗色の髪に映える青いローブが、よく似合っている。
少女は白露を軽く睨んでから、にっこりと笑みを浮かべて私に向き直った。
「私は佐那。種族は妖狐。春龍街の管理局にて、管理官を務めておりますわ。具体的に言うと、春龍街を出入りする人間の管理をしていますの。ただのあやかしには務められない大任ですのよ」
「ああ、聞いたことあります」
人間社会と春龍街は、出入り口の数こそ限られているけれど、通行証さえあれば誰でも行き来できる。
その通行証の数で人間の数を把握しているのだが、稀に通行証を持たないまま春龍街に入ってくる人間がいる。
私みたいにあやかしに無理やり連れてこられたり、出入り口と知らずに入ってきてしまったり。
後者は、猫を追いかけて電柱と塀の隙間をするりと通ったら、異世界へ来てしまった――と言えば、イメージできるだろうか。
「私、正規の方法でここに来ていないから、あなたが来てくださったんですよね」
「ええ、ですが不安に思う必要はありません。白露から既に届け出が――あら?」
佐那は私をまじまじと見つめる。その緋色の目にぱあっと喜びが走った。
「あなたもしかして、麒麟眼の持ち主じゃありませんこと⁉ まあまあなんてことでしょう、初めてお目にかかるわ!」
「はあ……」
「麒麟眼! 真実を見抜く神の業! あら、ということは、あなたはあやかしなのかしら?」
「いえ、人間です……多分。父はあやかしみたいですが、素性までは分からないので」
私の母は普通の人間だった。
父親についてはよく知らない。母はあまり多くを語らなかった。
春龍街にしょっちゅう出入りしていた、あやかしだったそうだが、父の素性など知りたくもない。
あやかしの血が混ざっていたからといって、外見が人間と変わらなければ、人間社会で差別に合うようなことはない。私には、麒麟眼以外にあやかしらしい力もないし。
こんな曖昧な回答では、管理官たる佐那は納得しないかもしれないと思ったが、予想に反して佐那はふむふむと頷いていた。
「お父様があやかしだったかもしれない、ということですわね。血縁関係はプライベートなことですから、春龍街への届け出には記載不要ですわ。ですが規則ですので、他のことを少し聞かせてくださいな。あなた、春龍街にいらしたことがある?」
「はい。六歳の時に一度だけ」
佐那はローブから手帳を取り出すと、ぱらぱらとめくった。小さな手帳なのに、やけにページ数が多い。
「常盤ちづる、確かに出入街の記録が十八年前にありますわ。お父様のお名前は弦闘。お名前からは、どんなあやかしだったのかは分かりませんわね」
記録を見ていた佐那が、微かに眉を寄せた。
「お父様は、春龍街で亡くなられていますのね。ご愁傷様でした」
「そうなのか」
初めて白露が声を上げる。意外そうなその様子に、私は軽く頷いてみせた。
「そう。昔のことだけど。春龍街に来るのはそれ以来だね」
「そうか。なら君は一体どこで麒麟眼を手に入れたんだ? 人間社会に流出するような代物ではないだろうし」
「分からない。気づいたら本音が見えるようになってたの」
嘘で父の話を無理やり終わらせ、私は佐那の手元を覗き込んだ。
「それにしても、小さな手帳なのに、昔の記録が分かるなんてすごいですね。検索性も高そう」
「あら、人間社会のスマートフォンも便利ですわよね」
「いやあ、急に発展しちゃったせいで、十八年前の記録を今の媒体で見ることはできないんですよね」
紙媒体と電子媒体の埋めがたき溝。そのせいでどれだけ無意味な残業を余儀なくされたことか。
いや、今は現代社会のことは忘れよう。ましてや激務を強いられたことなんて思い出したくもない。
白露が佐那の手帳を後ろから覗き込み、佐那の尻尾にばしっと叩かれていた。
「盗み見しないでくださる? 速やかに管理局に届け出たことはよろしいですが、白露、そもそも人間を勝手にこちらに連れてきてはいけません!」
「いやあ、鍵を落としちゃった上に、地図が読めないからねえ」
「人間社会とこちらをしょっちゅう行き来しているくせに、情けないことを仰るのね。そんな体たらくで、よく美術商なんてやれますこと」
その言葉に、白露が説明してくれた仕事内容に偽りがないことを知る。詐欺師の類ではなさそうだ。
私の疑念を見透かしたように、白露がこちらに視線を向ける。疑ったことへの罪悪感でちくりと心が痛んだが、そもそも白露が私を無理やり連れてきたのだと思い直す。
「……一つ聞いてもいいかな。君がこの春龍街にあまりいい印象を持っていないのは、お父さんを亡くしたから?」
「んー……それが原因でもある、っていうのが正しいかな」
私の言葉に、佐那がまあっと声を上げる。
「春龍街がお嫌いですか? そんなのもったいないですわ! 人間社会からいらした方にこの街を楽しんで頂くことこそ、管理官の務め!」
「管理官の務めは、人間とあやかしの出入りを正しく管理することでは?」
「お黙り白露。麒麟眼の方が、春龍街にいい思い出がないなんて悲しいこと。せめて少しでもお心を楽しませてさしあげなければ」
「何する気なんだ、佐那?」
佐那はにんまり笑って、私の手を取った。
「観光案内に決まっているでしょう!」
*
そういうわけで、私は今、朝風呂を決めているわけである。
「はうう……とろける……」
佐那に連れられてやってきたのは、春龍街の真ん中にある銭湯『千代』。
五階建ての和風の建物に、色んな効能や、入れる種族の異なるお風呂が八つある。
どれもとても広く、開放感がある。
ちなみに毛のあるあやかし専門風呂は、ケセランパセランや熊の精霊といった、全身毛むくじゃらのあやかししか入れないらしい。ちょっと見てみたい。
「やっぱりあのステンドグラスは素敵ですわね」
尻尾と耳に専用のカバーを被せた佐那が、大きな窓を指さす。
そうなのだ。『千代』の売りは、大きな窓とステンドグラス。
特にこの最上階のお風呂は、天窓からステンドグラスを通して入り込む七色の光がお湯に反射してゆらゆら揺れて、それはもう美しいのだ。それに受付の女性もかなりの美人だった。これはお風呂と関係ないが。
初対面のひとと、会ってすぐに裸の付き合いというのは、少し気恥ずかしくもあったが。っていうか、観光なのに真っ先にお風呂というのもどうかと思ったが。
相手はあやかしだし、ここは春龍街だ。海外旅行に来たような解放感で、私は佐那とお風呂に浸かっている。
「お湯もちょっとぬるめでサイコーです、佐那さぁん……」
「佐那でいいですわよ。敬語も結構。お風呂がお気に召したようで何よりですわ。ここ、七十年前にできた結構新しい銭湯で、人間にも評判がいいの」
「七十年前が、結構新しい部類に入るんだね」
「あやかしは人間より長命ですもの。そうそう、夜になったらあのガラスが動くそうなので、またいらっしゃいな」
「動くの? すごい、ハイテク」
「ええ。動くからあのステンドグラスもあやかしだという話があるそうですわ。そうだとすれば、性別が気になりますわね」
「あっははは、男……オス? だったらなんだかやだね」
朝っぱらからお風呂に浸かっていると、背徳的な喜びが込み上げてくる。
午前中ということもあり、他のあやかしの姿が少ないということもあるが、何より……
他人の本音が聞こえてこないのが、最高だ!
人間社会では、かなり気を張っていないと他人の本音はシャットアウトできないのに、ここではさほど苦労しなくてもそれが叶うのである。
このストレスフリーな環境に加えて、いい寝床に服に朝ご飯に、朝風呂。
このコンボを決められては、機嫌も良くなろうというものだ。
「うーん……白露のお願い、聞いてあげてもいいかもなあ」
「あら、白露があなたに何かお願いをなさったの?」
「ちょっとね。ねえ、白露ってどんなあやかし?」
その言葉に佐那は難しい顔をする。カバーに覆われた耳が落ち着きなく動いた。
「そうですわねえ。悪い方ではありませんのよ、もちろん。美術商として人間社会と春龍街を行き来するだけの能力や常識もありますし」
「……奥歯に物が挟まったような言い方するね?」
「あの方は鵺ですから。鵺という存在はご存じかしら」
鵺。
辞書的に説明するならば『平家物語』に登場する妖怪で、顔は猿、胴体は狸、手足は虎で、尾は蛇とされるキメラである。もっとも、白露の姿はそれと少し違うようだから、鵺にも色々な姿があるのかもしれない。
そう告げると、佐那はこくんと頷いた。
「それに加えてもう一つ。鵺の鳴き声は凶兆を告げ、眼差しは闇夜に赤く光る凶星のようだと例えられているのですわ。人間にとっても、あやかしにとっても、鵺という存在は、恐ろしくて不気味なものなのです。掴みどころがないと申しましょうか」
「でも、実際に白露が悪いことをしてるわけじゃないんだよね」
「ええ。ですが、凶兆を告げる生き物は、実際の行いに関わらず『悪』なのですわ。だって、凶兆を運ぶものの後には必ず、災厄が訪れるのですから」
少し釈然としない。
鵺そのものが悪さをするとは限らないのに、凶兆を告げるものが、凶兆と同一視されるとは。あやかしの世界にも、不条理な差別というものがあるらしい。
「春龍街を始めとするあやかしの住処が、人間社会と接続するようになってから数百年。それほどの時間が経っても……いえ、時間が経ったからこそ、人間社会の水が合わず、あちらの世界に行けないあやかしもたくさんいます」
「ああ、最近だとコロボックルなんかは、もう人間社会に出てこられないって、新聞で見たことあるよ」
「ええ。そんな彼らも、人間社会の情報や品物、食品などを求めることがあります。その求めに応じているのが、白露のように人間社会と春龍街を自由に行き来できるあやかしなのです」
鵺はキメラの性質が強く、どの種族にも属さぬ代わりに、どこへでも自由に行き来できるらしい。だから白露はしょっちゅう人間社会に出入りしているわけか。
「鵺という存在の恩恵だけ被っておいて、必要なければ爪はじき、というのは、あまりにも勝手すぎると思いますわ。それを止められないのが歯がゆいですが……」
「……」
とろみのあるお湯を両手ですくう。
片や、凶兆を告げる生き物だからと、頭から不吉と厭われて。
片や、人間には過ぎた眼のせいで、見なくていいものを見てしまい。
どちらも、まともに他者と向き合えない。
成果だけをあてにされて、いいように使われて、心の中では疎んじられている。
「なんだ。私と同じか」
「ちづる? どうかなさった?」
「ううん。ありがとう佐那、大体分かった」
「お役に立てたならいいのですが」
佐那は微かに笑った。それから、じいっと私の顔を見つめる。
「な、何?」
「いえ。ちづるはスタイルがいいなあと思いましたの。特に胸の辺りのメリハリが羨ましいですわ……!」
「そう? 佐那の方がモデルみたいにすらっとしててかっこいいと思うよ。というか、あやかしもスタイルとか気にするんだね」
「人間社会の服を着こなそうと思ったら、細身で胸が出ていた方がいいですもの」
「人間が作った服の方がおしゃれ、っていうのがここの流行りなの?」
「今の流行りはそうですわ。あと五十年くらいしたら、すたれるかもしれませんが」
流行のサイクルが五十年とは。さすが、あやかし。
私は苦笑し、顔にお湯をぱしゃっとかけた。
それから佐那と春龍街をぶらついて、アナグマの精霊が経営するおしゃれなイタリアンレストランで、桜エビとかぶのパスタを食べた。
午後、仕事に戻るという佐那を見送り、白露の家へ帰る。
白露はダイニングテーブルで本を読んでいた。日本語の本ではないようだ。
「お帰り、ちづる。観光はどうだった?」
「楽しかったよ! 特にお風呂が最高だった。ステンドグラスがあって、きらきら光ってて……あと、佐那が途中で『遮断の守り』を持ってきてくれたんだ」
「ああ、麒麟眼隠しね」
麒麟眼のせいで、街のあやかしから注目されてしまうことがあった。それでは不便だろうと、佐那が管理局からお守りを持ってきてくれたのだ。
お守りは蜂の形をしたブローチだったので、胸元につけている。
「これで、普通のあやかしには、私の麒麟眼が見えなくなるって」
「そうだね。僕には見えるけど」
「鵺だから?」
「そう。一応あやかしの中では強い方だからね。麒麟眼も使いにくいと思うよ」
「私、身近な人に麒麟眼は使わないよ」
「そうなの? 身近な人ほど、口にできない本音を抱えているかもしれないのに?」
「だからだよ」
「そうか。ちづるは賢いね」
白露は私をベランダに誘う。大きな窓の向こうには、朝の春龍街が広がっていた。
「わあ……!」
どうやら白露の家は、街のかなり高い所にあるらしい。ベランダから春龍街の様子がよく見えた。
こうして日の光のもとで見ると、街は様々な建物が危なっかしく入り組んでいる。その建物を階段や橋が無理やり繋いでいるといった感じだ。きっとここに建築法とかはないのだろう。
その階段ほんとに上れるの? とか、その屋根、ほとんど崩れて隣の家に倒れかかってるけど大丈夫? とか心配になる構造は、アクロバティックで見ていて飽きない。
「和洋中の建築物が混在してるって感じね。でも意外とすっきり見える」
「屋根の色は青か黒と決められているからじゃないかな」
「ああ、なるほど――あ、あの広場みたいなところは何?」
「あれは市場だよ。今日は日曜日だから……花市がやってるんじゃない?」
言いながら白露は私を椅子に座らせる。アンティークの鉄の椅子で、濃い緑のクッションが置かれていた。
テーブルには湯気の立つコーヒーと、どこかココナッツの香りのするトースト、そして温泉卵が並べられている。
「美味しそう! でもなんでトーストに温泉卵なの?」
「シンガポール式を気取ってみた。お代わりはセルフで、それじゃいただきまーす」
さくっとトーストにかじりつくと、ココナッツの甘くて香ばしい匂いが口内に広がる。半分に切られているので、さくさく感を存分に楽しめるのもいい。
私はブラックを飲んでいるが、白露はコーヒーに練乳と牛乳を入れていた。今度私も試してみようと思う。
「それにしても、誰かとご飯食べるのって、久しぶりかも」
「へえ? 家族や友人は? あるいは恋人でも」
「全部いない」
素っ気なく答える。同情されるかと思いきや、白露は優しく微笑むだけだった。
「奇遇だね。僕もだ」
沈黙が下りる。けれどそれは不思議と気まずいものではなかった。
コーヒーを飲みながら、春龍街を上から眺める。
この街には一回しか足を踏み入れたことがない。その時の思い出が衝撃的すぎて、あまりいい印象がなかった。
でも、残業明けの今、たっぷり眠った体で体感する春龍街は、思い出のそれより遥かに美しかった。雑多で建物がひしめき合っているけれど、活気があって、何より居心地がいい。
全身がゆるやかに弛緩する。クッションの上でくつろぐ猫みたいに、ぐぐっとのびをした。
「ぐっすり寝た後に、綺麗な景色を眺めながら美味しい朝ご飯が食べられるなんて、サイコー……」
「うーん、疲弊したサラリーマンの模範的なコメントだね」
笑いながらコーヒーのお代わりを注いでくれる白露を、私はちらりと横目で見る。
「――で?」
「で? とは」
「寝床に服に朝ご飯。ここまでもてなして、一体私に何をさせたいの」
そう尋ねると白露は一瞬固まったが、ややあってにこーっと嬉しそうに笑った。
「やっぱ、バレてた?」
「バレバレ。私の麒麟眼が目当てでここに連れてきたんでしょ」
「いや、最初は本当に地図が読めなくて、君の力を借りられたらと思ったんだよ。春龍街に連れてくる気はなかった」
「嘘ばっかり」
「本当だよ。鵺の言葉なんか、信じるに値しないかもしれないが」
苦笑交じりに言う白露は、何から話そうか、と呟いて腕を組んだ。
「まずは僕の仕事を説明しよう。僕は人間社会では美術商みたいなことをしていてね。春龍街のものを人間に売ったり、人間社会のものをあやかしに売ったりしているんだ」
「それって美術商っていうより、貿易商って感じに近いような気がするけど」
「人間社会では美術商と名乗った方が、通りがいいんだよね。実際、芸術品も多く取り扱ってるし。それで、二つの社会を行き来している間に、色々と頼まれごとをすることもあって、その頼まれごとの一つが真贋鑑定なんだ」
真贋鑑定。なるほど、麒麟眼が必要そうな依頼だ。
「人間社会にもあやかしの常識にも通じている僕なら、これが本物かどうか分かるだろう? って聞かれることがとても多くてね。今回もその手の依頼を受けたんだけど、どうも厄介な相手だから、対応には注意が必要そうなんだ」
困ったように頭をかく白露。そして私の方を見た。
「だから君に助けてもらいたい。僕のところに来た依頼を、君の麒麟眼で解決してほしいんだ」
言い切ってしまうと、白露は肩の荷が下りたといった顔で練乳をたっぷり入れたコーヒーに口をつける。
助けてあげる義理はない、と思う。私はこっちに無理やり連れてこられた身だし。
それでも、春龍街の爽やかな朝の風に吹かれながら朝食をとっていると、どうにも気が大きくなってしまうのは事実で。
どうしようか迷っていると、大きな声が響き渡った。
「ごきげんよう! 春龍街の夜はいかがだったかしら?」
声は向かいの西洋風の建物から聞こえてくる。
傾斜の急な屋根の上に苦もなく立ち、こちらを見つめているのは、狐耳の少女だった。
彼女はひらりと屋根を蹴ると、そのまま十数メートルはあろうかという距離を軽々と跳躍して、私たちのいるベランダにふわりと降り立った。
長い髪が美しくなびき、金色の尾がふわりと優雅に揺れた。
近くで見ると、少女はとても整った顔立ちをしている。緋色の目につんと上を向いた小さな鼻、八重歯の覗くさくらんぼのような愛らしい唇。
長い栗色の髪に映える青いローブが、よく似合っている。
少女は白露を軽く睨んでから、にっこりと笑みを浮かべて私に向き直った。
「私は佐那。種族は妖狐。春龍街の管理局にて、管理官を務めておりますわ。具体的に言うと、春龍街を出入りする人間の管理をしていますの。ただのあやかしには務められない大任ですのよ」
「ああ、聞いたことあります」
人間社会と春龍街は、出入り口の数こそ限られているけれど、通行証さえあれば誰でも行き来できる。
その通行証の数で人間の数を把握しているのだが、稀に通行証を持たないまま春龍街に入ってくる人間がいる。
私みたいにあやかしに無理やり連れてこられたり、出入り口と知らずに入ってきてしまったり。
後者は、猫を追いかけて電柱と塀の隙間をするりと通ったら、異世界へ来てしまった――と言えば、イメージできるだろうか。
「私、正規の方法でここに来ていないから、あなたが来てくださったんですよね」
「ええ、ですが不安に思う必要はありません。白露から既に届け出が――あら?」
佐那は私をまじまじと見つめる。その緋色の目にぱあっと喜びが走った。
「あなたもしかして、麒麟眼の持ち主じゃありませんこと⁉ まあまあなんてことでしょう、初めてお目にかかるわ!」
「はあ……」
「麒麟眼! 真実を見抜く神の業! あら、ということは、あなたはあやかしなのかしら?」
「いえ、人間です……多分。父はあやかしみたいですが、素性までは分からないので」
私の母は普通の人間だった。
父親についてはよく知らない。母はあまり多くを語らなかった。
春龍街にしょっちゅう出入りしていた、あやかしだったそうだが、父の素性など知りたくもない。
あやかしの血が混ざっていたからといって、外見が人間と変わらなければ、人間社会で差別に合うようなことはない。私には、麒麟眼以外にあやかしらしい力もないし。
こんな曖昧な回答では、管理官たる佐那は納得しないかもしれないと思ったが、予想に反して佐那はふむふむと頷いていた。
「お父様があやかしだったかもしれない、ということですわね。血縁関係はプライベートなことですから、春龍街への届け出には記載不要ですわ。ですが規則ですので、他のことを少し聞かせてくださいな。あなた、春龍街にいらしたことがある?」
「はい。六歳の時に一度だけ」
佐那はローブから手帳を取り出すと、ぱらぱらとめくった。小さな手帳なのに、やけにページ数が多い。
「常盤ちづる、確かに出入街の記録が十八年前にありますわ。お父様のお名前は弦闘。お名前からは、どんなあやかしだったのかは分かりませんわね」
記録を見ていた佐那が、微かに眉を寄せた。
「お父様は、春龍街で亡くなられていますのね。ご愁傷様でした」
「そうなのか」
初めて白露が声を上げる。意外そうなその様子に、私は軽く頷いてみせた。
「そう。昔のことだけど。春龍街に来るのはそれ以来だね」
「そうか。なら君は一体どこで麒麟眼を手に入れたんだ? 人間社会に流出するような代物ではないだろうし」
「分からない。気づいたら本音が見えるようになってたの」
嘘で父の話を無理やり終わらせ、私は佐那の手元を覗き込んだ。
「それにしても、小さな手帳なのに、昔の記録が分かるなんてすごいですね。検索性も高そう」
「あら、人間社会のスマートフォンも便利ですわよね」
「いやあ、急に発展しちゃったせいで、十八年前の記録を今の媒体で見ることはできないんですよね」
紙媒体と電子媒体の埋めがたき溝。そのせいでどれだけ無意味な残業を余儀なくされたことか。
いや、今は現代社会のことは忘れよう。ましてや激務を強いられたことなんて思い出したくもない。
白露が佐那の手帳を後ろから覗き込み、佐那の尻尾にばしっと叩かれていた。
「盗み見しないでくださる? 速やかに管理局に届け出たことはよろしいですが、白露、そもそも人間を勝手にこちらに連れてきてはいけません!」
「いやあ、鍵を落としちゃった上に、地図が読めないからねえ」
「人間社会とこちらをしょっちゅう行き来しているくせに、情けないことを仰るのね。そんな体たらくで、よく美術商なんてやれますこと」
その言葉に、白露が説明してくれた仕事内容に偽りがないことを知る。詐欺師の類ではなさそうだ。
私の疑念を見透かしたように、白露がこちらに視線を向ける。疑ったことへの罪悪感でちくりと心が痛んだが、そもそも白露が私を無理やり連れてきたのだと思い直す。
「……一つ聞いてもいいかな。君がこの春龍街にあまりいい印象を持っていないのは、お父さんを亡くしたから?」
「んー……それが原因でもある、っていうのが正しいかな」
私の言葉に、佐那がまあっと声を上げる。
「春龍街がお嫌いですか? そんなのもったいないですわ! 人間社会からいらした方にこの街を楽しんで頂くことこそ、管理官の務め!」
「管理官の務めは、人間とあやかしの出入りを正しく管理することでは?」
「お黙り白露。麒麟眼の方が、春龍街にいい思い出がないなんて悲しいこと。せめて少しでもお心を楽しませてさしあげなければ」
「何する気なんだ、佐那?」
佐那はにんまり笑って、私の手を取った。
「観光案内に決まっているでしょう!」
*
そういうわけで、私は今、朝風呂を決めているわけである。
「はうう……とろける……」
佐那に連れられてやってきたのは、春龍街の真ん中にある銭湯『千代』。
五階建ての和風の建物に、色んな効能や、入れる種族の異なるお風呂が八つある。
どれもとても広く、開放感がある。
ちなみに毛のあるあやかし専門風呂は、ケセランパセランや熊の精霊といった、全身毛むくじゃらのあやかししか入れないらしい。ちょっと見てみたい。
「やっぱりあのステンドグラスは素敵ですわね」
尻尾と耳に専用のカバーを被せた佐那が、大きな窓を指さす。
そうなのだ。『千代』の売りは、大きな窓とステンドグラス。
特にこの最上階のお風呂は、天窓からステンドグラスを通して入り込む七色の光がお湯に反射してゆらゆら揺れて、それはもう美しいのだ。それに受付の女性もかなりの美人だった。これはお風呂と関係ないが。
初対面のひとと、会ってすぐに裸の付き合いというのは、少し気恥ずかしくもあったが。っていうか、観光なのに真っ先にお風呂というのもどうかと思ったが。
相手はあやかしだし、ここは春龍街だ。海外旅行に来たような解放感で、私は佐那とお風呂に浸かっている。
「お湯もちょっとぬるめでサイコーです、佐那さぁん……」
「佐那でいいですわよ。敬語も結構。お風呂がお気に召したようで何よりですわ。ここ、七十年前にできた結構新しい銭湯で、人間にも評判がいいの」
「七十年前が、結構新しい部類に入るんだね」
「あやかしは人間より長命ですもの。そうそう、夜になったらあのガラスが動くそうなので、またいらっしゃいな」
「動くの? すごい、ハイテク」
「ええ。動くからあのステンドグラスもあやかしだという話があるそうですわ。そうだとすれば、性別が気になりますわね」
「あっははは、男……オス? だったらなんだかやだね」
朝っぱらからお風呂に浸かっていると、背徳的な喜びが込み上げてくる。
午前中ということもあり、他のあやかしの姿が少ないということもあるが、何より……
他人の本音が聞こえてこないのが、最高だ!
人間社会では、かなり気を張っていないと他人の本音はシャットアウトできないのに、ここではさほど苦労しなくてもそれが叶うのである。
このストレスフリーな環境に加えて、いい寝床に服に朝ご飯に、朝風呂。
このコンボを決められては、機嫌も良くなろうというものだ。
「うーん……白露のお願い、聞いてあげてもいいかもなあ」
「あら、白露があなたに何かお願いをなさったの?」
「ちょっとね。ねえ、白露ってどんなあやかし?」
その言葉に佐那は難しい顔をする。カバーに覆われた耳が落ち着きなく動いた。
「そうですわねえ。悪い方ではありませんのよ、もちろん。美術商として人間社会と春龍街を行き来するだけの能力や常識もありますし」
「……奥歯に物が挟まったような言い方するね?」
「あの方は鵺ですから。鵺という存在はご存じかしら」
鵺。
辞書的に説明するならば『平家物語』に登場する妖怪で、顔は猿、胴体は狸、手足は虎で、尾は蛇とされるキメラである。もっとも、白露の姿はそれと少し違うようだから、鵺にも色々な姿があるのかもしれない。
そう告げると、佐那はこくんと頷いた。
「それに加えてもう一つ。鵺の鳴き声は凶兆を告げ、眼差しは闇夜に赤く光る凶星のようだと例えられているのですわ。人間にとっても、あやかしにとっても、鵺という存在は、恐ろしくて不気味なものなのです。掴みどころがないと申しましょうか」
「でも、実際に白露が悪いことをしてるわけじゃないんだよね」
「ええ。ですが、凶兆を告げる生き物は、実際の行いに関わらず『悪』なのですわ。だって、凶兆を運ぶものの後には必ず、災厄が訪れるのですから」
少し釈然としない。
鵺そのものが悪さをするとは限らないのに、凶兆を告げるものが、凶兆と同一視されるとは。あやかしの世界にも、不条理な差別というものがあるらしい。
「春龍街を始めとするあやかしの住処が、人間社会と接続するようになってから数百年。それほどの時間が経っても……いえ、時間が経ったからこそ、人間社会の水が合わず、あちらの世界に行けないあやかしもたくさんいます」
「ああ、最近だとコロボックルなんかは、もう人間社会に出てこられないって、新聞で見たことあるよ」
「ええ。そんな彼らも、人間社会の情報や品物、食品などを求めることがあります。その求めに応じているのが、白露のように人間社会と春龍街を自由に行き来できるあやかしなのです」
鵺はキメラの性質が強く、どの種族にも属さぬ代わりに、どこへでも自由に行き来できるらしい。だから白露はしょっちゅう人間社会に出入りしているわけか。
「鵺という存在の恩恵だけ被っておいて、必要なければ爪はじき、というのは、あまりにも勝手すぎると思いますわ。それを止められないのが歯がゆいですが……」
「……」
とろみのあるお湯を両手ですくう。
片や、凶兆を告げる生き物だからと、頭から不吉と厭われて。
片や、人間には過ぎた眼のせいで、見なくていいものを見てしまい。
どちらも、まともに他者と向き合えない。
成果だけをあてにされて、いいように使われて、心の中では疎んじられている。
「なんだ。私と同じか」
「ちづる? どうかなさった?」
「ううん。ありがとう佐那、大体分かった」
「お役に立てたならいいのですが」
佐那は微かに笑った。それから、じいっと私の顔を見つめる。
「な、何?」
「いえ。ちづるはスタイルがいいなあと思いましたの。特に胸の辺りのメリハリが羨ましいですわ……!」
「そう? 佐那の方がモデルみたいにすらっとしててかっこいいと思うよ。というか、あやかしもスタイルとか気にするんだね」
「人間社会の服を着こなそうと思ったら、細身で胸が出ていた方がいいですもの」
「人間が作った服の方がおしゃれ、っていうのがここの流行りなの?」
「今の流行りはそうですわ。あと五十年くらいしたら、すたれるかもしれませんが」
流行のサイクルが五十年とは。さすが、あやかし。
私は苦笑し、顔にお湯をぱしゃっとかけた。
それから佐那と春龍街をぶらついて、アナグマの精霊が経営するおしゃれなイタリアンレストランで、桜エビとかぶのパスタを食べた。
午後、仕事に戻るという佐那を見送り、白露の家へ帰る。
白露はダイニングテーブルで本を読んでいた。日本語の本ではないようだ。
「お帰り、ちづる。観光はどうだった?」
「楽しかったよ! 特にお風呂が最高だった。ステンドグラスがあって、きらきら光ってて……あと、佐那が途中で『遮断の守り』を持ってきてくれたんだ」
「ああ、麒麟眼隠しね」
麒麟眼のせいで、街のあやかしから注目されてしまうことがあった。それでは不便だろうと、佐那が管理局からお守りを持ってきてくれたのだ。
お守りは蜂の形をしたブローチだったので、胸元につけている。
「これで、普通のあやかしには、私の麒麟眼が見えなくなるって」
「そうだね。僕には見えるけど」
「鵺だから?」
「そう。一応あやかしの中では強い方だからね。麒麟眼も使いにくいと思うよ」
「私、身近な人に麒麟眼は使わないよ」
「そうなの? 身近な人ほど、口にできない本音を抱えているかもしれないのに?」
「だからだよ」
「そうか。ちづるは賢いね」
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