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第一話 野望編

Prologue ラギ王歴1606年紅葉月ホクト島

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 ロワメールに会いたいんだ。

 最果ての海に住むという、美しい銀色の魚。孤高の海の支配者。
 生を望む者には生を、死を望む者には死を、与えてくれるという。

 ロワメールに会いたいんだ。
 そうすれば、きっと。
 そうすれば、俺はきっと……。



   ❖     ❖     ❖



「はぁ……はぁ……」

 荒い息を繰り返し、女はただひたすらに走っていた。

 中空高く輝く満月が、白銀の世界を照らす。
 遥か彼方に稜線を描く山並みの他は、ポツリと立つ冬枯れのサクラ以外、見渡す限りの雪野原だった。

「誰か……誰でもいい……」

 彼女から流れる赤い血だけが、白い闇の中で鮮明な色を放つ。鋭い爪に引き裂かれた背中からは、ドクドクと血が流れ続けていた。

「助けてくれ……」

 力を失った体は何度もくずおれかけ、それでも彼女は雪を踏みしめ走り続ける。

 けれど、逃げる先があるわけではなかった。

 人影はおろか、人家すら見当たらない。この辺りにあった唯一の村は、火の手を上げ、村人諸共焼け落ちてしまった。
 村人達を虐殺し、彼女の護衛も侍女も殺し尽くしても飽き足らず、魔獣はきっと彼女を追ってくるだろう。

 振り返る時間すら惜しみ、彼女は逃げ続けた。

「魔獣などの、好きにさせてたまるものか……っ」

 遠く、少しでも遠く。
 この命が尽きるまでに。

「はぁ……はぁ……っ」
 手足の感覚は、すでになかった。痛みも感じない。呼吸は乱れ、冷たい汗が頬を伝う。どこを走っているのかもわからなかった。

 それでも彼女は走り続ける。
 前へ。前へ。
 一歩でも遠くへ。

「誰か……助けてくれ……!」

 祈る声はかすれて小さく、天には届かない。
 荒く乱れた息すら静けさに吸い込まれ、静寂のみが世界を支配する。

 誰も、なにも、彼女の祈りに応えない。
 月光に照らされた白い白い世界は生者を拒み、どこまでも美しく、どこまでも残酷で――。


 それでも世界は、最後まで抗い続けた女に微笑みかけた。


「――おい! どうした!?」

 静謐を破り、黒いローブをはためかせて、空から舞い降りたその人は女に駆け寄る。

 朦朧とした意識でも、そのローブを見誤ることはなかった。

「あぁ……!」
 夢ではない。
 幻でもない。
 月影に浮かぶ、その黒いローブは――。

「魔法使い……!」

 張り詰めていたものが途切れ、女はガクリと膝をつく。
 魔法使いは慌てて、彼女の体を抱きとめた。 
 この華奢な体のどこに、それほどの力があったのか。
 生きているのが信じられないほど、彼女は冷たく、蒼白だった。

「しっかりしろ!」
「魔法使い……助けてくれ……」
 魔法使いの腕の中で、彼女は必死に言葉を紡ぐ。

 血と煤にまみれてもなお、女は美しかった。金の髪に縁取られた美貌は気高く、涙を浮かべる緑の瞳は翠玉さながら。

「頼む……」
 女は、最後の力を振り絞る。 
「この子を助けてくれ……!」
 彼女は胸に抱いた、生まれたばかりの我が子を差し出した。

「対価は、私の命を」
 金貨も宝石も高価な服も、今の彼女はなにひとつ持っていない。
 だがら彼女は、自分に残されたただひとつのものを、迷わず魔法使いに差し出した。

「それは、魔法使いのタブーだ……」 

 凄惨な姿が、なにがあったかを物語る。

 魔法使いは赤子を抱くと、目深に被ったフードを外した。まだ若い男だが、その髪は雪のように白い。
「対価は、これでいい」
 女を横たえ、魔法使いはその涙をそっと指ですくった。

「よく頑張ったな。もう大丈夫だ」
 低い囁きに、女の唇が微かに笑みを結ぶ。

 例え自らの命が尽きようと、我が子が助かるなら悔いはなかった。
 女はほっと、満足げに息を吐く。
 我が子を守り抜いた安堵から、女の瞼がゆっくりと力を失う。
 血の気の失せた頬、血濡れの着物……それでも、息を引き取った女の表情は穏やかだった。

 魔法使いはわずかに眉根を寄せると、赤子を片腕に抱いて立ち上がる。

 音もなく、背後に魔獣が忍び寄っていた。
 五匹の魔獣は、姿形はオオカミに似ている。しかし、漆黒に染まった体毛には赤黒い血がこびりつき、紫の両眼は立ち塞がる魔法使いを映して爛々と輝いていた。
 グルルルゥ……と低い唸りを上げ、牙を剥きながらも、魔獣は距離を保つ。
 黒いローブを警戒しているのか。

 魔法使いはアイスブルーの目で魔獣を見据えた。
 魔獣が怖気付いたように、一歩二歩と後退る。

「契約を執行する」
 だが、鋭い目は魔獣を逃さなかった。

 魔法使いは、片腕を前に伸ばす。
「マスター・セツの名において」

 その腕が振るわれると同時に、不可視の刃が魔獣の体を真っ二つに切断した。
 逃げる間も抵抗する間も与えない。断末魔の叫びすら、魔法使いは許さなかった。
 戦闘とすら呼べぬ短すぎる数瞬の後、魔獣の輪郭は崩れ、その体は黒い霧へとかわっていく。

 風が吹けば黒い粒子は空気に溶け、黒い宝珠のみが雪の上に転がった。

「おぎゃぁ……おぎゃぁ……」
 母の死を悟ったのか、それとも危険が去ったからか、それまで静かだった赤子が、急に弱々しく泣きだす。
 驚いた魔法使いは、不器用な手つきでおくるみに包まれた赤子を抱き直した。

 そこで初めて彼は、その赤ん坊を見たのである。
 そして、生まれたばかりの小さな赤子に目を奪われた。 

 母によく似た、綺麗な顔立ちだった。
 月明かりを紡いだような銀の髪、青と緑の色違いの瞳……。

「まるで、ロワメールの化身のようだな……」

 魔法使いは、そう呟いた。
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