背徳者  暴君と呼ばれた皇帝

月島 成生

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第十二章

ローマ市民

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 ヴィンデクスを倒した後、続けて打倒ガルバのために兵士を集めなければならなかった。
 それらの軍を維持するには、想像を絶する財産を必要とする。そのため、市民に配られる食糧も十分ではなくなり、無論、娯楽に回す費用はない。

 市民達は、考えていたよりもずっと薄情だった。
 つい先日ローマの守護神と讃えたルキウスに、今度は暴君の名を着せたのである。

 暴君。

 その響きに、ルキウスは愕然とした。
 そう誹られるだけの何を、したというのか。
 アグリッピナの殺害やキリストゥス信仰者を大量に処刑したのは、確かにルキウスだった。
 けれど、理由がある。このローマ帝国のためには、彼らは生きていてはいけなかったのだ。

 市民達は、実際には行っていないブリタニクスやオクタヴィアの殺害も、ルキウスの手によると叫んだ。尾ひれを引いて大きくなった罪を指して、ネロには皇帝たる資格はないと声高に告げたのである。

 元老院は、事なかれ主義だ。市民の不満が高まってくるのを敏感に察すると、あっさりとガルバに寝返ってしまった。
 それだけではない。今まで片腕として目をかけてきたティゲリヌス――皇帝ネロの名を利用し、その名を地の底へと叩き落としたあの男も、姿を消した。

 最強を謳われる軍隊は、皇帝個人の物ではない。ローマの物であり、より元老院の物に近い存在だった。
 罪人としての汚名を着せられたルキウスの命令に、従うことはない。

 ――そう、ルキウスはこの数日の間に、神から罪人へと落とされたのである。

 湧いてきた感情が一体何なのか、自分でもわからなかった。
 怒りもあるだろう。悲しさもあるかもしれない。
 悔しくて、寂しくて――ただただ、虚しい。

 いつも頭の片隅には、市民達のことがあった。私的な決定ですら、彼らの動向を意識していた。
 自分の感情を優先させた事もあったけれど、彼らを忘れたことはなかった。カリグラのように民や軍を虐げたわけではないのに、結局は同じ、暴君の名を与えられるとは。

 このまま引き下がるわけには――終わるわけには、いかない。
 ブリタニクスの代行者である「皇帝カエサルネロ」は、歴史に燦然と輝く名君でなくてはならなかった。暴君のまま、滅んでいいわけがない。

 だが、このままローマに留まって戦う事が得策ではない事は、ルキウスとて重々承知していた。
 どうするべきか――逡巡は、わずかの間だった。すぐに、エジプトを思い出す。
 かの地では、未だ皇帝ネロの人気は衰えていない。きっと、歓待してくれる事だろう。
 何より、エジプトは豊かな土地だった。一世紀前までローマの権力者は、戦の度にエジプトの富力に助けられた。
 今回ルキウスが災厄を逃れ、戦うための新たな力を蓄えるに、最も適した場所だろう。

 旅立ちの準備が整うまで、ほぼ一日。ルキウスはスポルスと共に、オスティア港沿いの、セルヴィリウス庭園に身を隠していた。
 不思議な程穏やかで、静かな時間が流れていた。かすかに聞こえてくる波音に耳を傾けながら、ふと、感慨に浸る。

 六月八日。
 オクタヴィアの命日にローマを追われるとは、何かの巡り合わせだろうか。

 毎年、彼女の命日には酒に溺れ、その思い出に浸っていた。
 もう――七年。
 早いものだ。彼女を失った時、一瞬たりとも生きることはできないと思っていたのに、これほどに長い年月を生きてしまった。

 そして、これからもまた生きようとしている。
 生きるために、共に暮らした懐かしいローマを離れようと。

 夜の暗がりの中、窓から一際明るく輝く星を眺めていた。

 あの星はオクタヴィアだろうか。
 それともアウグスタ――否、ガイウスかもしれない。

 他愛のない、戯言だった。けれどそう考えることが、ルキウスの心を慰める。
 彼らは死して――現世の肉体という器を捨て、星となって永遠の命を生きているのだと。遠い空からルキウスを見守ってくれている、思うことがルキウスを辛うじて支えていた。

 もう深夜だった。心労もあり、疲れた体は睡眠を欲しているのに、不思議と目が冴えて眠れなかった。
 宮殿とは違う、静かな夜。
 波の音と、鳴くように聞こえる風の声だけが、静寂の中に流れている。

 それにしても、静かすぎはしないか。

 ふと、異変に気付く。
 幾人かの侍従は連れてきた。亡命前夜なのだから、慌ただしく動く彼らの声や物音が聞こえるのが普通ではないか。

 与えられた寝室を飛び出すと、屋敷の部屋、一つひとつを確かめてみるも、寝台の上で静かに眠るスポルスを除き、誰もいなかった。

 まさか、ここまでついてきた部下にまで裏切られるとは。

「――はっ」

 怒りよりも、可笑しさの方が先に立つ。吐き捨てるような笑声は、自嘲に他ならなかった。
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