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第十一章
ユダヤ
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選んだ演目は、オレステス。母殺しの英雄――かつて自らの罪を彼に重ね、復讐の女神フリアエの幻覚に襲われた。
苦しむルキウスに寄り添ってくれたのは、オクタヴィアだった。
フリアエとアグリッピナの幻に追われ、刺客に殺されかけた所を救ってくれたのは、ガイウス。
辛く、苦しい思い出と共に、幸せだった時代の面影を追うために、あえてオレステスを選んだ。
突然のことで、何の準備もしていない。だから衣装は常の短衣と長衣のまま、ただ竪琴だけを借りて、自ら演奏しながら歌った。
結果は――案の定、絶賛された。
ローマという大国の皇帝が歌う、ただそれだけで民衆は喜ぶのだ。
スポルスにせがまれるままに幾度か舞台に立ったけれど――正直なところ、辟易していた。
ギリシア悲劇を学ぶことは、スポルスにとってマイナスに働きはしない。弁論にも応用できる発声を教えるためにも、また彼に喜んでもらえることが嬉しかったけれど、これ以上はもう苦痛だった。
スポルスにはまた個別に聴かせてあげると約束して、ルキウスはもう、舞台に立つ事を止めた。
何もせず、皇帝であることも忘れてただ、ギリシア旅行を楽しみたい。
――そう思っていたはずのルキウス興味を持ったのは、コリントス地峡の開拓問題だった。
古くは紀元前625年、ペリアンドロスが計画した工事である。
かのユリウス・カエサルも考えていたようだが、暗殺されてしまったために着手できなかった、幻の事業だ。
もしそれを成し遂げたなら、皇帝ネロの名は歴史の中で燦然と輝きを放つだろう。
考えるだけで、胸が高鳴る。
同時に、皇帝の仕事を忘れきれないこと、ネロの名を歴史に刻みつけることを最優先に考えてしまう自分に自嘲した。
支離滅裂だった。矛盾を内包することに戸惑いを禁じえず、けれど、それでもいいと思い直す。
ギリシアにいる間だけは、自分の思ったように、好きなように生きたい。
まずは、設計図だった。方々の建築家に書かせ、その中の、最も合理的と思われる物を選んだ。
次に必要なのは、労働力だったが――ここで、早速壁にぶつかる。
とてつもない人手を必要とする事業だった。ペリアンドロスもそこで、挫折したと聞いている。
さて、どうしたものか。
ローマからの使者が訪れたのは、ルキウスがその問題に頭を悩ませている時だった。
「陛下、ユダヤが反乱を起こしたと知らせが届いております」
報告に、驚きはなかった。いずれこうなるのではないかと思っていたからだ。
原因は、生活習慣の違い。
特異な歴史と苦難を担ってきたユダヤ民族の感情を理解するのは、容易ではない。現地の代官や軍人は、つい不注意で彼らの感情を傷つける事も多いと聞く。
それら一つひとつは、些細な亀裂だった。けれど無用の摩擦を繰り返した結果、たまりにたまった不満が、ついに爆発したのだろう。
コリントス地峡の開拓に乗り出した今、このような小事で手を煩わされるとは。不満のために、渋面を隠せない。
そう、小事のはずだった。ほとんど武器を持ったこともないようなユダヤ人達が、訓練されたローマ兵に敵う訳がないのだから。
「それで?」
地峡の設計図に目を落としたまま、問いかける。どれだけの時間でその反乱を鎮めたのかを尋ねたつもりだった。
けれど使者は、暗い表情のまま続ける。
「エルサレムの市街では、六千人あまりの――ローマ軍人が、命を落としました」
「――なに?」
報告は、信じられないものだった。
ローマ軍の強さは、最盛期――ユリウス・カエサルの時代より衰退してはいたが、それでも世界最強だった。少なくとも、そう自負していた。
それが、宗教に没頭してばかりのユダヤ人にしてやられるとは。
「彼らも、自身のことながら信じられなかったようです。そしてこの戦勝によって神の加護を確信した彼らは、ますます攻勢に出ていると」
オクタヴィアを地獄へと叩き落とした神、ヤハウェ。
その加護を受けた、ユダヤ人――
どうあっても、負けられない相手だった。
使者を待たせたまま、すぐに書簡をしたためた。
相手はヴェスパシアヌス。人柄の良さで有名な、初老の元老院議員だった。
皆が「皇帝ネロ」の権力を恐れ、よく聴いてもいない歌を褒め称える。そのような中、ヴェスパシアヌスは、うたた寝をしていたのだ。
その時に歌ったのは、子を思う母の歌――子守歌のようなものだった。声に耳を傾け、意味を理解したからこその結果だろうと思えば、微笑ましい。
愚直なまでに実直な男――それだけに、信頼に足る男だった。
また、若い頃の政治手腕は聞き及んでいた。彼の政策と人柄をもってすれば、ユダヤ人の心を溶かす事も可能ではないか。
考えれば考える程に、ユダヤの総督はヴェスパシアヌス以外にはあり得ない。
「早急にヴェスパシアヌス殿に届けてくれ。――頼んだ」
危険な時期の航海を経てやって来た伝令兵に、また同じ航路を渡れと指示をするのだ。皇帝からの命令としてではなく、真摯に依頼をしたかった。
ハッと顔を上げた兵士は、ほんの一瞬嬉しそうに頬をほころばせ、すぐに表情を引き締める。
「この命に代えても、必ず」
跪き、ルキウスの手の甲に口付けると、彼は急ぎ足で部屋を退出した。
苦しむルキウスに寄り添ってくれたのは、オクタヴィアだった。
フリアエとアグリッピナの幻に追われ、刺客に殺されかけた所を救ってくれたのは、ガイウス。
辛く、苦しい思い出と共に、幸せだった時代の面影を追うために、あえてオレステスを選んだ。
突然のことで、何の準備もしていない。だから衣装は常の短衣と長衣のまま、ただ竪琴だけを借りて、自ら演奏しながら歌った。
結果は――案の定、絶賛された。
ローマという大国の皇帝が歌う、ただそれだけで民衆は喜ぶのだ。
スポルスにせがまれるままに幾度か舞台に立ったけれど――正直なところ、辟易していた。
ギリシア悲劇を学ぶことは、スポルスにとってマイナスに働きはしない。弁論にも応用できる発声を教えるためにも、また彼に喜んでもらえることが嬉しかったけれど、これ以上はもう苦痛だった。
スポルスにはまた個別に聴かせてあげると約束して、ルキウスはもう、舞台に立つ事を止めた。
何もせず、皇帝であることも忘れてただ、ギリシア旅行を楽しみたい。
――そう思っていたはずのルキウス興味を持ったのは、コリントス地峡の開拓問題だった。
古くは紀元前625年、ペリアンドロスが計画した工事である。
かのユリウス・カエサルも考えていたようだが、暗殺されてしまったために着手できなかった、幻の事業だ。
もしそれを成し遂げたなら、皇帝ネロの名は歴史の中で燦然と輝きを放つだろう。
考えるだけで、胸が高鳴る。
同時に、皇帝の仕事を忘れきれないこと、ネロの名を歴史に刻みつけることを最優先に考えてしまう自分に自嘲した。
支離滅裂だった。矛盾を内包することに戸惑いを禁じえず、けれど、それでもいいと思い直す。
ギリシアにいる間だけは、自分の思ったように、好きなように生きたい。
まずは、設計図だった。方々の建築家に書かせ、その中の、最も合理的と思われる物を選んだ。
次に必要なのは、労働力だったが――ここで、早速壁にぶつかる。
とてつもない人手を必要とする事業だった。ペリアンドロスもそこで、挫折したと聞いている。
さて、どうしたものか。
ローマからの使者が訪れたのは、ルキウスがその問題に頭を悩ませている時だった。
「陛下、ユダヤが反乱を起こしたと知らせが届いております」
報告に、驚きはなかった。いずれこうなるのではないかと思っていたからだ。
原因は、生活習慣の違い。
特異な歴史と苦難を担ってきたユダヤ民族の感情を理解するのは、容易ではない。現地の代官や軍人は、つい不注意で彼らの感情を傷つける事も多いと聞く。
それら一つひとつは、些細な亀裂だった。けれど無用の摩擦を繰り返した結果、たまりにたまった不満が、ついに爆発したのだろう。
コリントス地峡の開拓に乗り出した今、このような小事で手を煩わされるとは。不満のために、渋面を隠せない。
そう、小事のはずだった。ほとんど武器を持ったこともないようなユダヤ人達が、訓練されたローマ兵に敵う訳がないのだから。
「それで?」
地峡の設計図に目を落としたまま、問いかける。どれだけの時間でその反乱を鎮めたのかを尋ねたつもりだった。
けれど使者は、暗い表情のまま続ける。
「エルサレムの市街では、六千人あまりの――ローマ軍人が、命を落としました」
「――なに?」
報告は、信じられないものだった。
ローマ軍の強さは、最盛期――ユリウス・カエサルの時代より衰退してはいたが、それでも世界最強だった。少なくとも、そう自負していた。
それが、宗教に没頭してばかりのユダヤ人にしてやられるとは。
「彼らも、自身のことながら信じられなかったようです。そしてこの戦勝によって神の加護を確信した彼らは、ますます攻勢に出ていると」
オクタヴィアを地獄へと叩き落とした神、ヤハウェ。
その加護を受けた、ユダヤ人――
どうあっても、負けられない相手だった。
使者を待たせたまま、すぐに書簡をしたためた。
相手はヴェスパシアヌス。人柄の良さで有名な、初老の元老院議員だった。
皆が「皇帝ネロ」の権力を恐れ、よく聴いてもいない歌を褒め称える。そのような中、ヴェスパシアヌスは、うたた寝をしていたのだ。
その時に歌ったのは、子を思う母の歌――子守歌のようなものだった。声に耳を傾け、意味を理解したからこその結果だろうと思えば、微笑ましい。
愚直なまでに実直な男――それだけに、信頼に足る男だった。
また、若い頃の政治手腕は聞き及んでいた。彼の政策と人柄をもってすれば、ユダヤ人の心を溶かす事も可能ではないか。
考えれば考える程に、ユダヤの総督はヴェスパシアヌス以外にはあり得ない。
「早急にヴェスパシアヌス殿に届けてくれ。――頼んだ」
危険な時期の航海を経てやって来た伝令兵に、また同じ航路を渡れと指示をするのだ。皇帝からの命令としてではなく、真摯に依頼をしたかった。
ハッと顔を上げた兵士は、ほんの一瞬嬉しそうに頬をほころばせ、すぐに表情を引き締める。
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