背徳者  暴君と呼ばれた皇帝

月島 成生

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第十一章

ギリシア

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 スポルスの成長は、凄まじいものだった。
 元来、賢い子だろうとは思っていた。けれど、ギリシア語も哲学も、教えれば教える程に吸収していく。まさに、砂が水を吸うようにとの比喩が正しかった。
 素直で愛らしく、その上、優秀なスポルス。
 期待した以上の拾い物に、安堵する。皇帝の資質というなら、申し分ない。カリグラやクラウディウス帝よりも、よほどうまくローマを治められるだろう。

 どうせならば、もっと本格的に勉強をさせてやりたい。
 そのためには、ローマよりも適切な土地がある。ギリシアだ。

 ――否、単純にスポルスのためだけとは、言えなかった。
 ルキウスが、逃げたかったのだ。汚い政治の世界から――皇帝の、重責から。

 国の運営は、ずっと悪循環に陥っていた。それを断ち切るためにも一度、ローマを離れたい。

 以前ガイウスに後を任せ、ローマを離れたことがある。出かける前には、「皇帝ネロ」の人気は下火になっていたのに、戻ってくれば「ローマの新しき神」と歓呼で迎えられた。
 無論、ガイウスの策が功を奏したせいもある。けれど、人気も落ち、政治もうまく回らぬ状況を変えるためには、ローマを離れた方がいいのではないか。
 スポルスと一緒に、もう一度学び直すのもいい。

 いずれ、ローマのためになる。

 決意してからの行動は、早かった。すぐに、ギリシアへ渡る手配にかかる。
 本来であれば、今の時期は避けるべきではあった。
 ただでさえ、航海は危険と隣り合わせだった。海が荒れてくる十月から三月までの五カ月間、海は閉鎖されるのが常である。
 たとえ海が開かれても、五月くらいまではやはり荒れ気味で、皇帝の地位にある者が船で出るには危険すぎた。

 今は、八月である。まったく無策でローマを離れるわけにはいかない。後を任せるティゲリヌスに引き継ぎをし、さらに元老院を説得、納得させた上での準備が必要になる。
 ギリシアに着く頃には九月末になっている可能性もあった。
 そうなれば少なくとも七カ月以上、長ければ一年近くローマを離れる事になる。

 おそらく、得策ではない。わかっていてもなお強行したのは、自らの英気を養う意味もあった。
 オクタヴィアとガイウスを、忘れるのではない。けれど思い出しては懐かしんでいても仕方がなかった。
 二人が望んでくれた、賢君たるネロを取り戻すためだった。
 半ば、言い訳だと自覚もしていた。だが、愛する二人に先立たれ、悲しみを癒やす時間もなかった自分には、必要な休息だと思うのも本当だった。
 幼い頃からの憧れの地、ギリシア。
 ここに、我を捨てる。ローマに戻ればもう、人間としての感傷になど引きずられない、強い皇帝になろう。

 だから、今は。

 ギリシアの地に足を踏み入れ、ルキウスは胸いっぱいになるほどの深呼吸をする。
 かつて訪れたナポリは、このギリシアの影響を強く受けた都市だった。だからだろう、そこここに様式の似た神殿や建物を見かける。
 どうしても、思い出さずにはいられなかった。オクタヴィアと過ごし、ガイウスと運命的な出会いを果たした、あのナポリを――

「ネロさま?」

 名を呼ばれ、ふっと我に返る。傍らには、スポルス――ブリタニクスにも似た面影の、聡明な少年。
 物思いにふけるルキウスを心配したのだろう。不安そうな顔で見上げられて、なんでもない、と頭を振った。

「競技場にも行ってみるか。確か今日は、吟遊詩人による舞台が観られるはずだ」

 今日は、などと言っているが、実はほぼ毎日のように開催されている。演目はその度に違うが、何も観られないという事態にはならないはずだった。
 多分に誤魔化しの色合いの強い返答だったのだけれど、はい、と嬉しそうにスポルスは笑みを浮かべた。
 アイスキュロスやエウリピデス、ホメロスの詩など、日替わりで観ることができる。昨日はオデュッセイアが演じられていたが、今日は何を観られるだろうか。

「皇帝陛下! お待ちしておりました」

 スポルスを伴いやって来たルキウスを出迎えたのは、劇場の管理者だった。
 眉を顰める。ローマの街に降りる時とは違い、身分を隠したりはしていない。だから皇帝と知られるのは仕方がないとして、賓客をもてなすような出迎えをされるのは好みではなかった。
 周囲が騒がしくなるのは、当然だろうと思う。意図的ではないにせよ、役者達に圧力をかけてしまっていたのだとすれば、申し訳ない気分になった。
 だからと言って歓待されたいとも思えない。一般民衆と同じ席に座り、身分を忘れて観劇を楽しみたかったルキウスとしては、正直な話、面白くはなかった。

 とはいえ、満面の笑みで出迎えた管理者を無下にすることも憚られる。ルキウスは内心の不快を隠し、鷹揚に頷いて見せた。

「陛下が以前、ナポリに滞在されていた時に、その素晴らしいお声を披露されたとお伺いしております。是非、私共にも聴かせて頂きたく、お願いに上がりました」

 ルキウスが歌に熱中していたのは有名な話だ。ギリシアの地にまでその噂が届いていたとしても、決しておかしくはない。
 ナポリで出場した大会では、確かに好評を博することができた。もっとも、半分程は皇帝への媚びだろうと思えば、純粋に喜べなかった。
 同じことを、ここでもやらなければならないのか。
 憧れの地の民衆が、ローマの民と変わらぬことに、幻滅が浮かぶ。

「――私に、歌えと?」

 どうせ、見世物にして密かに嘲笑うつもりなのだろう。思えば、自然に声は低くなる。

「いえ、無理にという話ではないのです。陛下が訪れて下さった事も光栄、さらにお声を拝聴できれば僥倖と……」
「ネロさま」

 どうせ愚かな皇帝、媚びを売れば喜んで歌うとでも思っていたのだろう。不機嫌を隠そうともしないルキウスの態度に、管理者は慌てた様子で言葉を並べ始める。
 遮る、というよりは、救いの手だったのだろう、スポルスがそっとルキウスの袖を引いた。

「僕も、ネロさまが歌われる所を観たいです」

 蒼白に染まっていた管理者の顔が、目に見えて明るくなる。ルキウスは思わず苦笑した。
 スポルスがネロに恥をかかせようと思っているはずはない。純粋に舞台に立つ姿を、子供が親の勇姿を期待する気持ちで言っているのだろう。
 ギリシア――本場の吟遊詩人の声を聴き慣れている者達の前で歌うのは、気が重い。けれどスポルスの希望も、無下にできなかった。

「――わかった。何処へ行けばいい?」

 軽い嘆息と共に了承する。
 スポルスは観客席へ、ルキウスは演者の控室へと通された。
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