背徳者  暴君と呼ばれた皇帝

月島 成生

文字の大きさ
上 下
68 / 78
第十一章

スポルス

しおりを挟む
「さて、あの男達が言っていたことは――お前が孤児だというのは、本当か?」

 問いかけに、少年は頷かない。ただ唖然と口を開けて、ルキウスの顔を見つめている。
 恍然とした眼差しだった。「救われるかもしれない」その可能性だけでこうなってしまうとは、よほど切羽詰まっていたのだろうか。

 孤児など、珍しくもない。この子供を一人救ったところで、情勢には何ら影響はないだろう。無論、皇帝ネロの名に輝きが戻るわけでもない。
 けれど目の前の困った子供を放置できる程、人非人にもなれなかった。子供を欲しがっている貴族はいる。養子縁組の手はずを整えてやるくらい、苦にもならなかった。

「心配はいらない。孤児だからと、攫って売り払うような真似はしないから」

 質問にも答えず、ただただ呆然とする少年に、苦笑した。
 理知的なだけではなく、よく見れば顔立ちも整っている。もしかしたら今までに、売られかけた経験があってもおかしくはない。
 否、むしろその可能性は強いのではないか。可愛い子供の誘拐は後を絶たない。しかも、実の親が貧困から我が子を売りに出すことすらある。
 奴隷として働かされ、逃げ出したはいいがそのような事情があっては親元には帰ることができない。途方に暮れ、孤児として盗みを働きながら生きる――よくある話だ。

「言っただろう、悪いようにはしない。安心して私に――」
「――皇帝カエサル……?」

 ついて来い。続けるはずの言葉を遮ったのは、夢見るような少年の声だった。
 今度は、ルキウスが愕然と目を瞠る。
 公務で訪れたわけではない。お忍びで街に来る時にはいつも、変装をしている。豪奢な長衣を脱ぎ捨て、庶民と同じようなトゥニカを纏い、付け髭を貼り付けていた。
 勿論、知り合いに見つかればすぐに知られる程度ではある。けれど「皇帝」として公に出ている時の姿しか知らぬ、しかも遠目にしか見た事のない市民に気付かれるはずはなかった。

「――何者だ?」

 我知らず、警戒が強くなる。身構えながら向き直ると、少年は弾けたように顔を上げた。

「僕です! スポルスです!」
「スポルス――?」

 名前に、覚えはなかった。眉根を寄せたまま見下ろすと、あ、と小さく呟く。

「いえ、お会いした時に名前は言いませんでした。――もしかしたら、覚えていらっしゃらないかもしれません。でも僕は――僕は、絶対に忘れない」

 あの時から、忘れたことはありませんでしたと、熱に浮かされたように続ける少年に、居心地の悪い思いが滲む。
 悪意は、おそらく持っていない。高揚した頬を見る限り、「皇帝ネロ」に心酔しきっているのはわかった。
 けれど、彼の言う「あの時」も思い出せない。
 そもそも、まったく見覚えのない顔なのだ。

 ――否、ふと、何かがひっかかる。
 真っ直ぐな瞳が、ブリタニクスを思い出させる少年。
 何かを思い出せそうな、喉元まで出てきているような、もどかしさがあった。

「身を挺してまで、僕を助けて下さった……あのご恩を、忘れることはできません」

 まさかまた、会えるなんて。
 感激のためだろうか、瞳を潤ませながら見上げられて、ようやく思い出した。

「まさか、あの子か? 火事の時に会った――」

 ローマ十四区の内、十区にまで及んだ大参事――あの時、ルキウスを「お姉ちゃん」と呼んだ、慧眼の子供がいた。
 あの子供が――不思議な感慨に襲われる。

 気が付けばもう、大火から二年近くの年月が流れていた。大人にとっては大きな変化もないけれど、子供にはこれ程の成長をもたらすとは。

 だが、同時に痛々しい。身長こそかなり伸びてはいるけれど、細い手足は栄養状態の悪さを物語っていた。
 火災の被害者には、相応の救済を施したはずだ。本建築が間に合っていない所には、アグリッピナ庭園に仮設住宅を設置もしている。そこに居る限りは、食料の配布もあった。
 なのに何故という疑問は、不機嫌を伴うものだった。

「何故このような所に居る。確かに君の住んでいた建物は焼けてしまったようだが、対策はしているはずだ」

 生活に困るはずなど――犯罪に手を染めるまで、追いつめられるような必要はないはずなのに。
 皇帝としての仕事に、物言いをつけられた気分になってしまう。

「――あの火事で、僕の両親は死にました」

 皇帝に会えた喜びに頬を紅潮させていた少年は、ふと、我に返ったように俯く。
 想像できていた答えではあった。あの火事の時、煤で汚れてはいたが、彼の着ていた服は割と質のいいものだった。災厄を機会に生活を変えたと見る方が、自然である。
 問題は、その後だった。

「それでも、アグリッピナ庭園にとどまれば良かっただけの話だろう」
「僕の家は――どちらかと言えば、裕福な方でした。焼け出された中にもそれを知っている人はいて――ここはおれ達のような者が来る所だ、金持ちは去れと……」
「追い出されたのか」

 問いに、黙って頷く。
 酷い話だった。大火で全てを失った少年に、それまでの妬みをぶつけたのだろう。
 たかが一人増えたくらいで、配給が減るわけでもないのに――保護者のいない子供など、何処かでのたれ死んでも構わない、ということか。

 それでも、紛れ込んでしまえばきっと、わからなかっただろう。庭園にはまだ、大勢の人がいる。子供一人が居ても――
 否、彼が裕福だったことを知るのは、一人ではないだろう。無論、敵視する人間ばかりではないだろうが、両親を失い、傷心した所に追い打ちをかけられたせいで、冷静な判断ができなかったのかもしれない。

 ――哀れな。

 図太くなれない繊細さと真面目さが、この少年を追いつめたのか。

「――スポルス、だったか」

 呼びかけに、俯いていた顔を上げる。
 どん底の生活にあったはずなのに、綺麗な瞳をしていた。人間の醜さを見たはずなのに――それくらいでは穢れないとでも言うように。

「私の元に来るか」
「えっ……」
「すぐにとはいかないかもしれない。だがいずれ――そうだな。お前に資質があれば、正式に養子にできるよう、取り計らってもいい」

 ルキウスは、子供を持つことができない。皇帝である以上、後継者として養子をとる必要があった。
 実際、そのために動いてはいたのだ。血縁者の中から探してはいたのだが、条件に合う子供がいなかった。

 反対は、あるだろう。何処の誰とも知れぬ子供を養子になどと、すんなり受け入れられるはずがない。
 だがそろそろ、いいのではないか。今まで皇帝になったのは、アウグストゥス、引いてはユリウス・カエサルの一族だけだった。
 だからこそ、「皇帝カエサル」と呼ばれるのだから。
 ルキウスの養子になれば、一応はカエサルの血筋に加わることになる。とはいえ、偉大なるカエサルの血をまったく受け継がない皇帝カエサルが誕生するのだと思えば、最高の皮肉だった。

「拾って頂けるのは、光栄です。でも、養子は――」

 事の重大さに気付いたのだろう。スポルスは顔面を硬直させる。
 ――この、聡明さと誠実さこそがむしろ、皇帝の資質。

「言っただろう、素質があれば、と。まずはギリシア語、弁論術や哲学――あらゆる学問を学んでもらう。見極めは私がやる。素質があれば私の養子にするし、なければ知り合いの貴族に預けることになるだろう」

 噛んで含めるように言い聞かせると、スポルスは小さく喉を鳴らした。

「お傍に置いて頂くには、あなたに認められる必要がある、と」

 皇帝になれなければ傍に置く意味がない――秘められた意図に気付いたスポルスは、やはり賢明だった。
 頷く代わりに、スポルスの頭に手を置く。
 満足に風呂に入ることもできていないのだろう。髪は房で固まり、ざりっとした手触りが気にかかる。
 それでも、嬉しそうに肩を竦めた笑顔が印象的だった。

 自分への敬愛を、利用する。
 邪知深いことだと、自嘲を禁じ得なかった。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

枢軸国

よもぎもちぱん
歴史・時代
時は1919年 第一次世界大戦の敗戦によりドイツ帝国は滅亡した。皇帝陛下 ヴィルヘルム二世の退位により、ドイツは共和制へと移行する。ヴェルサイユ条約により1320億金マルク 日本円で200兆円もの賠償金を課される。これに激怒したのは偉大なる我らが総統閣下"アドルフ ヒトラー"である。結果的に敗戦こそしたものの彼の及ぼした影響は非常に大きかった。 主人公はソフィア シュナイダー 彼女もまた、ドイツに転生してきた人物である。前世である2010年頃の記憶を全て保持しており、映像を写真として記憶することが出来る。 生き残る為に、彼女は持てる知識を総動員して戦う 偉大なる第三帝国に栄光あれ! Sieg Heil(勝利万歳!)

西涼女侠伝

水城洋臣
歴史・時代
無敵の剣術を会得した男装の女剣士。立ち塞がるは三国志に名を刻む猛将馬超  舞台は三國志のハイライトとも言える時代、建安年間。曹操に敗れ関中を追われた馬超率いる反乱軍が涼州を襲う。正史に残る涼州動乱を、官位無き在野の侠客たちの視点で描く武侠譚。  役人の娘でありながら剣の道を選んだ男装の麗人・趙英。  家族の仇を追っている騎馬民族の少年・呼狐澹。  ふらりと現れた目的の分からぬ胡散臭い道士・緑風子。  荒野で出会った在野の流れ者たちの視点から描く、錦馬超の実態とは……。  主に正史を参考としていますが、随所で意図的に演義要素も残しており、また武侠小説としてのテイストも強く、一見重そうに見えて雰囲気は割とライトです。  三國志好きな人ならニヤニヤ出来る要素は散らしてますが、世界観説明のノリで注釈も多めなので、知らなくても楽しめるかと思います(多分)  涼州動乱と言えば馬超と王異ですが、ゲームやサブカル系でこの2人が好きな人はご注意。何せ基本正史ベースだもんで、2人とも現代人の感覚としちゃアレでして……。

鎌倉最後の日

もず りょう
歴史・時代
かつて源頼朝や北条政子・義時らが多くの血を流して築き上げた武家政権・鎌倉幕府。承久の乱や元寇など幾多の困難を乗り越えてきた幕府も、悪名高き執権北条高時の治政下で頽廃を極めていた。京では後醍醐天皇による倒幕計画が持ち上がり、世に動乱の兆しが見え始める中にあって、北条一門の武将金澤貞将は危機感を募らせていく。ふとしたきっかけで交流を深めることとなった御家人新田義貞らは、貞将にならば鎌倉の未来を託すことができると彼に「決断」を迫るが――。鎌倉幕府の最後を華々しく彩った若き名将の清冽な生きざまを活写する歴史小説、ここに開幕!

腐れ外道の城

詠野ごりら
歴史・時代
戦国時代初期、険しい山脈に囲まれた国。樋野(ひの)でも狭い土地をめぐって争いがはじまっていた。 黒田三郎兵衛は反乱者、井藤十兵衛の鎮圧に向かっていた。

ナポレオンの妊活・立会い出産・子育て

せりもも
歴史・時代
帝国の皇子に必要なのは、高貴なる青き血。40歳を過ぎた皇帝ナポレオンは、早急に子宮と結婚する必要があった。だがその前に、彼は、既婚者だった……。ローマ王(ナポレオン2世 ライヒシュタット公)の両親の結婚から、彼がウィーンへ幽閉されるまでを、史実に忠実に描きます。 カクヨムから、一部転載

【完結】女神は推考する

仲 奈華 (nakanaka)
歴史・時代
父や夫、兄弟を相次いで失った太后は途方にくれた。 直系の男子が相次いて死亡し、残っているのは幼い皇子か血筋が遠いものしかいない。 強欲な叔父から持ち掛けられたのは、女である私が即位するというものだった。 まだ幼い息子を想い決心する。子孫の為、夫の為、家の為私の役目を果たさなければならない。 今までは子供を産む事が役割だった。だけど、これからは亡き夫に変わり、残された私が守る必要がある。 これは、大王となる私の守る為の物語。 額田部姫(ヌカタベヒメ) 主人公。母が蘇我一族。皇女。 穴穂部皇子(アナホベノミコ) 主人公の従弟。 他田皇子(オサダノオオジ) 皇太子。主人公より16歳年上。後の大王。 広姫(ヒロヒメ) 他田皇子の正妻。他田皇子との間に3人の子供がいる。 彦人皇子(ヒコヒトノミコ) 他田大王と広姫の嫡子。 大兄皇子(オオエノミコ) 主人公の同母兄。 厩戸皇子(ウマヤドノミコ) 大兄皇子の嫡子。主人公の甥。 ※飛鳥時代、推古天皇が主人公の小説です。 ※歴史的に年齢が分かっていない人物については、推定年齢を記載しています。※異母兄弟についての明記をさけ、母方の親類表記にしています。 ※名前については、できるだけ本名を記載するようにしています。(馴染みが無い呼び方かもしれません。) ※史実や事実と異なる表現があります。 ※主人公が大王になった後の話を、第2部として追加する可能性があります。その時は完結→連載へ設定変更いたします。  

大日本帝国領ハワイから始まる太平洋戦争〜真珠湾攻撃?そんなの知りません!〜

雨宮 徹
歴史・時代
1898年アメリカはスペインと戦争に敗れる。本来、アメリカが支配下に置くはずだったハワイを、大日本帝国は手中に収めることに成功する。 そして、時は1941年。太平洋戦争が始まると、大日本帝国はハワイを起点に太平洋全域への攻撃を開始する。 これは、史実とは異なる太平洋戦争の物語。 主要登場人物……山本五十六、南雲忠一、井上成美 ※歴史考証は皆無です。中には現実性のない作戦もあります。ぶっ飛んだ物語をお楽しみください。 ※根本から史実と異なるため、艦隊の動き、編成などは史実と大きく異なります。 ※歴史初心者にも分かりやすいように、言葉などを現代風にしています。

土方歳三ら、西南戦争に参戦す

山家
歴史・時代
 榎本艦隊北上せず。  それによって、戊辰戦争の流れが変わり、五稜郭の戦いは起こらず、土方歳三は戊辰戦争の戦野を生き延びることになった。  生き延びた土方歳三は、北の大地に屯田兵として赴き、明治初期を生き抜く。  また、五稜郭の戦い等で散った他の多くの男達も、史実と違えた人生を送ることになった。  そして、台湾出兵に土方歳三は赴いた後、西南戦争が勃発する。  土方歳三は屯田兵として、そして幕府歩兵隊の末裔といえる海兵隊の一員として、西南戦争に赴く。  そして、北の大地で再生された誠の旗を掲げる土方歳三の周囲には、かつての新選組の仲間、永倉新八、斎藤一、島田魁らが集い、共に戦おうとしており、他にも男達が集っていた。 (「小説家になろう」に投稿している「新選組、西南戦争へ」の加筆修正版です) 

処理中です...