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第十一章
寛容
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世捨て人。
今のルキウスを語る言葉として、これ程適切な言葉が他にあるのだろうか。
仕事は、こなしている。だがそれは、ポッパエア殺害の直後のような、無気力なものだった。
書類にはサインをするだけ、市民達の機嫌を取るために食べ物や見世物をばらまく。
国の財政には勿論、際限があった。国庫はすぐに空になる。
それを補うために税を課し、不満を訴える彼らに、税金からまた食料を配布する――考えるまでもない、ただの悪循環だった。
市民の不満を、ルキウスは肌で感じていた。
調印するだけの仕事を早々に終えると、オトと過ごしていた時のように、お忍びで街に降りることが増えていたからだ。
市場調査と言えば聞こえはいいが、ただ仕事から逃げて遊び歩いているだけである。
それでも、皇帝ネロへの期待の声よりも、怨嗟が強いのを見れば心苦しい。
なんとかしなければと考えない訳ではないけれど、懸命に働いた所で誰が評価してくれるのかと諦めの心情も現れる。
ルキウスを理解してくれた人はもう、誰も残っていないのだから。
ため息に沈みかけたルキウスを現実に引き戻したのは、何処からか聞こえた怒号だった。
街中に響く喧騒など、珍しいことではない。気に留めたのは、「皇帝」の単語が聞こえたからだ。
「なんだこのガキ、急に暴れ出しやがって」
「人がせっかく、許してやるって言ってやってるのに」
「このご時世じゃ、ガキ一人でやってくのは確かに厳しいだろうしよ」
口々に言っているのは、少年を取り囲んだ三人の男達だった。
男達は、怒っている風ではない。どちらかと言えば、憐れみをかけるかのような台詞と、困惑した様子だった。
「――これは、返します。役人に突き出さず、許してくれるというのも、感謝します。でも――でも、皇帝は悪くない!」
おそらくは金が入っている袋を差し出す少年に、大体の事情はわかった。
盗みか、スリか。少年が働いた悪事に、盗まれた側は寛容にも理解を示したのだろう。「ガキ一人で」などと言っているから、孤児なのかもしれない。
ならば仕方がない、このような情勢だから――もしくは、皇帝が無能だから、その類の発言をしたのだろう。
不思議なのは、激高しているのが盗みを働いた少年の方だ、ということだった。
「だって皇帝はいつも、僕達のことを考えてくれてる。だからきっと、いつか……いつかは、きっと――!」
「――そのいつかを待たずに、自分は死ぬかもしれないのに?」
訝るというよりは、憐れみをかけるような、問いかけだった。
汚い身なりの少年だった。腕も脚も痩せ細り、軽く払っただけでも折れてしまいそうにも見える。
なのに、目だけは輝きを保っていた。一途に「皇帝」を信じている様子が見てとれて、余計疑問に思う。
このような見知らぬ子供に、ここまで慕われるだけの何かをした覚えはない。
「――どうかしたのか」
困惑したように顔を見合わせる男達に、声をかけてみる。寛容を示した彼らではあったが、あの頑固な様子に気が変わる可能性はあった。
ならば穏便にすませられそうな今の内に、治めてしまった方がいい。
「ああいや、旦那、実はこのガキがな、おれの財布をすりやがって……」
「けどよ、ここらあたりは孤児が多い。もしかしたらって聞いてみたら、こいつもそうだってんで――」
「おお、許してやろうと言うのか? 素晴らしい!」
ほぼ、思った通りの出来事だった。大仰に声を上げてみせる。
「だが盗みは盗み、罪は罪。私が役所に連れて行こう」
子供が、ハッと目を瞠る。
許されるはずが、より窮地に陥ってしまう――そう思ったのかもしれない。
男達も、困った顔で首を左右に振る。
「事を荒立てたい訳じゃねぇんだ。なんかこのガキ、可哀想でよ……」
孤児など、珍しいものではない。けれどこの少年には何か、放っておけないものが感じ取れた。
真っ直ぐな瞳のせいだろうか。小汚い顔をしているのに、何処か理知的な表情をしているからか。
善良な者が見れば、力になってやりたいと思わせる何かがあった。
もっとも、だからこその危うさがある。悪意を持つ者に騙されてしまったら――もしかしたら、そのせいでこのような有様になってしまったのかもしれない。
「孤児なのだろう? まだ大人の保護が必要なのであれば、保護できる場所もある。――何、悪いようにはしない。知り合いの役人に頼んで、うまく取り計らってやる」
提案は、男達にとっても納得のいくものだったはずだ。表情に、安堵が浮かぶ。
おそらくは少年にとっても、最良の処遇だった。呆然とルキウスを見上げるのは、身に降りかかった幸運のためかもしれない。
「じゃあ旦那、よろしく頼むよ」
安心の表情をにじませたのは、子供の行く末に光明が見えてきたからだけではない。おそらくは厄介を押し付けられずにすんだことに対してもだろう。
楽天的で善良――いかにも、ローマ市民の反応である。
苦く笑いながら男達を見送って、ルキウスは少年に向き直った。
今のルキウスを語る言葉として、これ程適切な言葉が他にあるのだろうか。
仕事は、こなしている。だがそれは、ポッパエア殺害の直後のような、無気力なものだった。
書類にはサインをするだけ、市民達の機嫌を取るために食べ物や見世物をばらまく。
国の財政には勿論、際限があった。国庫はすぐに空になる。
それを補うために税を課し、不満を訴える彼らに、税金からまた食料を配布する――考えるまでもない、ただの悪循環だった。
市民の不満を、ルキウスは肌で感じていた。
調印するだけの仕事を早々に終えると、オトと過ごしていた時のように、お忍びで街に降りることが増えていたからだ。
市場調査と言えば聞こえはいいが、ただ仕事から逃げて遊び歩いているだけである。
それでも、皇帝ネロへの期待の声よりも、怨嗟が強いのを見れば心苦しい。
なんとかしなければと考えない訳ではないけれど、懸命に働いた所で誰が評価してくれるのかと諦めの心情も現れる。
ルキウスを理解してくれた人はもう、誰も残っていないのだから。
ため息に沈みかけたルキウスを現実に引き戻したのは、何処からか聞こえた怒号だった。
街中に響く喧騒など、珍しいことではない。気に留めたのは、「皇帝」の単語が聞こえたからだ。
「なんだこのガキ、急に暴れ出しやがって」
「人がせっかく、許してやるって言ってやってるのに」
「このご時世じゃ、ガキ一人でやってくのは確かに厳しいだろうしよ」
口々に言っているのは、少年を取り囲んだ三人の男達だった。
男達は、怒っている風ではない。どちらかと言えば、憐れみをかけるかのような台詞と、困惑した様子だった。
「――これは、返します。役人に突き出さず、許してくれるというのも、感謝します。でも――でも、皇帝は悪くない!」
おそらくは金が入っている袋を差し出す少年に、大体の事情はわかった。
盗みか、スリか。少年が働いた悪事に、盗まれた側は寛容にも理解を示したのだろう。「ガキ一人で」などと言っているから、孤児なのかもしれない。
ならば仕方がない、このような情勢だから――もしくは、皇帝が無能だから、その類の発言をしたのだろう。
不思議なのは、激高しているのが盗みを働いた少年の方だ、ということだった。
「だって皇帝はいつも、僕達のことを考えてくれてる。だからきっと、いつか……いつかは、きっと――!」
「――そのいつかを待たずに、自分は死ぬかもしれないのに?」
訝るというよりは、憐れみをかけるような、問いかけだった。
汚い身なりの少年だった。腕も脚も痩せ細り、軽く払っただけでも折れてしまいそうにも見える。
なのに、目だけは輝きを保っていた。一途に「皇帝」を信じている様子が見てとれて、余計疑問に思う。
このような見知らぬ子供に、ここまで慕われるだけの何かをした覚えはない。
「――どうかしたのか」
困惑したように顔を見合わせる男達に、声をかけてみる。寛容を示した彼らではあったが、あの頑固な様子に気が変わる可能性はあった。
ならば穏便にすませられそうな今の内に、治めてしまった方がいい。
「ああいや、旦那、実はこのガキがな、おれの財布をすりやがって……」
「けどよ、ここらあたりは孤児が多い。もしかしたらって聞いてみたら、こいつもそうだってんで――」
「おお、許してやろうと言うのか? 素晴らしい!」
ほぼ、思った通りの出来事だった。大仰に声を上げてみせる。
「だが盗みは盗み、罪は罪。私が役所に連れて行こう」
子供が、ハッと目を瞠る。
許されるはずが、より窮地に陥ってしまう――そう思ったのかもしれない。
男達も、困った顔で首を左右に振る。
「事を荒立てたい訳じゃねぇんだ。なんかこのガキ、可哀想でよ……」
孤児など、珍しいものではない。けれどこの少年には何か、放っておけないものが感じ取れた。
真っ直ぐな瞳のせいだろうか。小汚い顔をしているのに、何処か理知的な表情をしているからか。
善良な者が見れば、力になってやりたいと思わせる何かがあった。
もっとも、だからこその危うさがある。悪意を持つ者に騙されてしまったら――もしかしたら、そのせいでこのような有様になってしまったのかもしれない。
「孤児なのだろう? まだ大人の保護が必要なのであれば、保護できる場所もある。――何、悪いようにはしない。知り合いの役人に頼んで、うまく取り計らってやる」
提案は、男達にとっても納得のいくものだったはずだ。表情に、安堵が浮かぶ。
おそらくは少年にとっても、最良の処遇だった。呆然とルキウスを見上げるのは、身に降りかかった幸運のためかもしれない。
「じゃあ旦那、よろしく頼むよ」
安心の表情をにじませたのは、子供の行く末に光明が見えてきたからだけではない。おそらくは厄介を押し付けられずにすんだことに対してもだろう。
楽天的で善良――いかにも、ローマ市民の反応である。
苦く笑いながら男達を見送って、ルキウスは少年に向き直った。
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