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第十章

殺人

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「知っているわ。マルクスでしょう?」

 悪びれもせず言ってのけるポッパエアに、身が竦んだ。
 何故ここで、オトの名が出てくるのか。
 ――理由は、一つしか考えられない。

 愕然として、ポッパエアを振り返る。

「マルクスが彼女を犯したのでしょう? それで子供までできて、可哀想に。――だけど、いい気味だわ」

 平然と言い放って、ポッパエアはからからと笑った。
 ――そう、笑ったのだ。

 眩暈がする。吐き気がする程の、憤りだった。

 かつてポッパエアは言った。オクタヴィアの裏切りに心を痛めている皇帝が心配だ、と。
 だがその裏で、彼女は真実を知っていたのだ。オクタヴィアが裏切ったわけではない、むしろ被害にあったのだと知りながら、ルキウスに取り入るためだけに真実を隠した。

 そして今、それによって引き起こされたオクタヴィアの不幸を嘲笑っている。

「――許せ、ない」

 呟きが、唇から洩れる。涙が頬を伝った。
 ゆっくりと踏み出した足が、低い卓に当たる。
 痛みも、感覚さえもなかった。腕を伸ばし、ポッパエアの胸倉を掴み上げる。

「何を……?」

 突然の行動に驚いたのか、それとも掴み上げられて苦しいのか。
 自慢の美しい顔を歪ませ、掠れた声でポッパエアが呻く。

「何を、だと? お前は彼女の不幸を見て見ぬ振りをしていた。元凶は、お前の夫だというのに!」

 胸倉を掴んだまま腕を上げると、ポッパエアの足が宙に浮く。
 そして勢いをつけ、後ろの壁に叩きつけた。

「その上、お前は彼女の不幸を嘲笑った。許せるとでも思うのか」

 腕を引き寄せてはまた、壁に叩きつける。
 幾度繰り返したことだろう。ポッパエアの後頭部が流した血液が、壁を汚していた。

 自分が何をしているのか、この行為に何の意味があるのか、ルキウスはわかっていなかった。
 飲んでいた酒はすでに容量を超えていたし、ポッパエアの言葉と笑い声が、理性を奪い去ってしまっていた。

 ただ、どうしようもない怒りを衝動に変えて、ポッパエアにぶつける。

 頭の痛みと、締め上げられる喉の苦しさからか、逃れようとポッパエアがもがく。手を振り解こうとあがくけれど、ルキウスの腕力の方が強かった。
 だがさすがに、伸びたポッパエアの爪で手の甲を抉られると、痛みのために握力が緩んだ。
 すかさず逃げ出した彼女を、後ろから羽交い絞めるように捕まえる。

 捕まえて、どうしようというのか。
 理由などわからない。だが、許せない、という感情だけが、理屈ではなくルキウスを突き動かしていた。

 それは、ポッパエアがルキウスの手を解こうと暴れた瞬間だった。
 思わず手を離し、よろめいたかと思うと、ガツンという鈍い音と共に彼女が倒れたのである。

「――うっ……」

 低く呻いたが最後、ポッパエアは動かなくなった。
 激情に息を乱していたルキウスも、ふと我に返る。

 そして、辺りが血の海と化している事に、騒然とした。

「――ポッパエア?」

 呼びかけても返答はおろか、反応すらない。歩み寄り、体を揺さぶってみても同じだった。
 抱きかかえた腕の中で呼吸が荒くなり、ゆっくりと弱くなっていく。
 やがて――それも、なくなった。

 酔いは一気に醒め、たちどころに理性が戻ってくる。
 けれどどうしていいのかわからずに、ぐったりとしたポッパエアを抱いたまま、呆然と座り込んでいた。

 何が起こったのか、それさえも理解できない。――したくなかった。
 自分がポッパエアを手にかけたのだという現実を、見つめる勇気がなかった。
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