背徳者  暴君と呼ばれた皇帝

月島 成生

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第八章

秘密

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 たった一年――もう、一年。
 オクタヴィアのために、まだ何もしてあげられていない。一日いちにちはあれほど長く感じられたのに、もう一年も経ってしまった。
 溜め息を、堪えることができなかった。

 ポッパエアは今、この宮殿にすらいない。昨日から三日間、旅行に出ている。
 否、強制的に行かせた、の方が正確か。
 ポッパエアの存在は、ルキウスにとって取るに足らぬものではあった。けれど形ばかりとはいえ、妻の立場にある彼女がこの宮殿に居ることが、どうしても耐えられなかったのだ。

 ポッパエアとの私室は、別にある。形式上そこを私室としているが、ルキウスが訪れることはまずない。執務室の隣に設えた、仮眠室を使うことが多かった。
 寂しさに駆られると、オクタヴィアとの私室を訪れる。彼女との思い出に浸って酒を飲むのが、習慣になっていた。

 今日もまた、オクタヴィアと並んで座ったソファに腰掛け、一人で杯を重ねる。寂しさや悲しさと共に、心が安らぐような気がするのはなぜだろう。

 辺りは暗がりに包まれている。小さな明かり灯しただけの、薄暗い部屋。
 まるで夢か幻のような、不思議な光景だった。

 唇を酒で濡らし、瞼を閉じる。
 オクタヴィアを失い、心の支えとなったアウグスタも、すでにない。残されたのはただ、皇帝の位と虚しく生き長らえる、この命だけだった。

 オクタヴィアが見せてくれた笑顔が、瞼の裏に蘇る。優しい穏やかさ、それに包まれて幸せだった頃の自分――
 それこそがまるで夢のように、頭を駆け巡る。
 後悔は、してもしつくせない。彼女を信じきれなかったが故の悲劇――ルキウス自身の、過ち。

 叶わぬこととはわかっていても、願わずにはいられない。あの、至福の時に戻りたいと。

 否、できることならば生命を授かった、瞬間に戻りたい。そうしたら今度こそ、間違いなく男として生まれてくるのに。

 そもそも、女として生まれてしまったことこそが、最大の過ちだった。男であれば、何もかもがうまくいったはずだ。
 女の身であっても、オクタヴィアに惹かれた。もし男だったならば、彼女を愛さないはずがない。そうしたらきっと、幸せにしてあげることができた。
 一層のこと、同性愛を罪と思わず、貫き通せば死なせずにすんだ。

 苛立ちから、自らの胸元をはだける。女性の証であるその膨らみが、憎かった。
 悔しさに、杯を呷る。
 涙が落ちた。
 辛さを覚えるほどにまた、酒を喉の奥へと流し込む。

 カタン。
 背後の物音に、咄嗟に手元の短剣を握りしめる。

「そこにおられるのは――皇帝?」

 振り返っても、暗闇に浮かぶ人影をとらえることしかできなかった。
 けれど声でわかる。ガイウスだ。
 安堵と同時、腹立たしさが湧く。
 ガイウスへの想いは、変わらない。摂政的な立ち位置で讒言されるのは、不服だった。だがそれらが的を射ているのは疑うべくもなく、尊敬の念を禁じ得ない。
 恋心と畏敬を自覚しながら、オクタヴィアへの罪悪感が、それを意識することを阻んでいた。

 今日だけは、彼に会いたくなかった。
 決してガイウスのせいではない。けれどオクタヴィアを逆恨みしてしまった原因は、間違いなく彼だった。
 ガイウスの顔を見れば、より自らの罪を認識させられる。

 ただ、無下に追い出すことはできない。ここへの出入りの自由を許したのは、他ならぬルキウスなのだから。
 同時に、もしかしたら、という思いも湧いてくる。こうして一人で沈み込むよりも、オクタヴィアの思い出を語れば、少しは気が晴れるのではないか。
 ガイウスは、恋心を抱いている相手という以前に、親友であり、オクタヴィアの思い出を分かち合うことができる、唯一の人物なのだから。

「――やぁ、ガイウス」

 顔を正面に戻し、ルキウスは後ろ手に杯を投げる。

「一緒に飲んでくれないか。――久しぶりに」

 オクタヴィアの死後、ガイウスは仕事上の補佐としての役割が濃かった。私的に会うことは、まずなかった。
 少なくとも酒を酌み交わすことはなく、オクタヴィアと幸せに暮らしていた頃以来だ。

「私でよろしければ、喜んでお相手いたします」

 ガイウスが、ルキウスの隣へと腰を下ろす。
 本来、皇帝相手には非礼な行為ではあるのだろう。だが出会った頃、彼にそうしてくれと頼んだのはルキウス自身だった。
 薄暗い中、ガイウスの微笑みを見る。ルキウスがここにいたことを、きっと喜んでいるのだろう。安堵の表情が、印象的だった。

 けれど、その顔が瞬時にして凍り付く。

 一体どうしたのだろう。疑問に思い、ガイウスの視線を追って自らの胸元に目を落とし――愕然とした。
 苛立ちに任せて、乱した衣服。
 その間から覗く白い肌が、自分の目にすら眩しい。
 我に返ってかき抱くように隠したものの、すでに遅かった。ガイウスにはもう、見られてしまった後なのだから。

「申し訳ございません――その」

 今までにこのようなことはなかった。
 オクタヴィアへの想いと、多量に摂取していた酒で警戒を怠ってしまったのか――いずれにせよ、取り返しのつかない失敗だった。
 むしろ、今まで誰にも知られなかったことこそが奇跡に近い。

「しかし――皇帝、あなたがまさか――」

 二の句を継げずにいるガイウスに、苦い笑いが込み上げてくる。

「驚いたかな」

 当然だと、浮かべた笑みに自嘲が濃くなる。

「私には初めから、皇帝の資格などなかった。血筋とか権利とか、そのような生易しいものではない。根本的な問題があった。それを隠し、正統な皇帝、ブリタニクスを押しのけてその地位を奪った、私は犯罪者だ」

 地位だけではなく、その命すら私のせいで奪われた。

 目頭が、熱を帯びてくる。
 続けたくはない、けれど――ルキウスにとって最たる罪を、口にしないわけにはいかなかった。

「――オクタヴィアも、死なせてしまった」

 ルキウスが女であったから――女としての恋心など、捨てなければならないはずの感情を抱いてしまったから、醜い嫉妬に駆られた。
 オクタヴィアを死に追いやったのは、間違いなくルキウスだった。
 その、醜悪な恋心を抱いた相手が、目の前にいる。

「ガイウス」

 薄暗い中、呼びかける声が掠れる。
 覚悟はもう、決まっていた。

「この秘密を知っているのは、今では私自身と、そしてあなただけだ。――これから、あなたはどうしたい」

 息を飲む音が、聞こえる。

 もし知られた相手がオトであれば、体を要求されたことだろう。黙っている、その代わりにと言われれば、拒めない。
 ガイウスは清廉な男だ。私利私欲のための道具として、この秘密を使うことはしない。
 逆を言えば、法を犯しているルキウスを許せない可能性はある。公益のためにと、暴露するのではないか。

 皇帝の座を、失うかもしれない。

 胸に沸いたのは、底知れぬ恐怖だった。
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