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第八章
命日
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六月八日――またこの日がやって来た。
オクタヴィアが亡くなってから、初めての命日。
知らず、溜め息が零れ落ちる。
ガイウスにとって皇帝は、掴み所のない存在だった。
初めて会った時、正体を知らなかった。ナポリの夜、美しい星空に誘われた散策途中、命を狙われていた。
暗殺を企てられるほど、また身に纏った衣装から、高貴の人であろうことはたやすく推測できていた。
けれどまさか、皇帝だとは思わなかった。
噂に聞く皇帝ネロは、悪辣だった。
皇帝の座に座るために、義父クラウディウス、義弟ブリタニクスを殺害し、同性愛に耽り、実母まで手にかけた卑劣な男。
だが実際に出会った「皇帝ネロ」は、至極まっとうな人物だった。むしろ、清廉潔白の印象が強い。
ブリタニクスのためにも、私は賢帝でなくてはならない――思いつめた横顔で呟く様を、何度見ただろう。
同性愛を噂されていたオトとも、ただの友人だったと言う。その上で求められ、遠ざけることへの罪悪感を告白され、愚直なまでの生真面目さも見て取れた。
オクタヴィアとの夫婦仲の良さも、どうせ政略結婚だろうと穿って見ていたことを反省せざるを得ない程で――
笑顔で互いを見つめ合う二人の姿は、微笑ましかった。まるで美しい絵画のように、それでいて血の通った温かさが感じられた。
なのに、何かが胸にわだかまる。皇帝に気に入られ、傍近くで仕えるようになって、二人の睦まじさを見せつけられると、ちりちりと痛むのだ、胸が。
おそらくは、嫉妬。
自らの感情に気づいた時、愕然とした。
仲睦まじく暮らす皇帝夫妻に横恋慕するなど、正気の沙汰ではない。
――まして、想いを向ける先が皇帝ならばなおのこと。
ナポリで出会った時は、女性だと思った。暗闇の中、月と星の明かりで見た美貌が、心の片隅に残っていたのは事実だ。
だが皇帝――男と知って、浮かびかけていた淡い想いは消えた。
消えたと、思っていたのに。
親しく言葉を交わすうち、影を作るほど長い睫毛の間から真っ直ぐに向けられる青い瞳を見る度、胸が熱くなる。
「お互い、辛い恋ですね」
抑え込もうとしていたガイウスの感情を認め、寂しげに微笑んだのはオクタヴィアだった。
すべてを見透かしたオクタヴィアの笑顔の前では、違う、という口先だけの否定は、用をなさなかった。
自身では決して認めることの出来ない感情を、彼女は優しく包み込んでくれた。それが少なからず、ガイウスの救いになっていたことは否めない。
自然と話す機会は増え、親睦を深めたことが皇帝の誤解を招いてしまうとは、夢にも思わなかった。
救いを与えてくれたオクタヴィアを、窮地に追いやった一因が自分だと思えば、悔やんでも悔やみきれない。
もっとも、あの当時は皇帝と睦まじく暮らしていたオクタヴィアが、辛い恋を「お互い」と語っていた真意については未だ、謎のままではあるが。
――そう、オクタヴィアが皇帝以外の誰かと恋に落ちることなど、ありえなかった。
彼女の想いは、本物だった。でなければ、あのような残酷な行いをした皇帝を許すはずがない。
流刑地からでさえ、自分の身ではなく皇帝を案じていた。
二人の行いの差を目の当たりにすれば、どちらに感情を傾けるかはわかりきっている。皇帝への想いはむしろ、憎しみにすら近くなっていた。
誤解が解けた後――オクタヴィアを、失った後。
皇帝は異常な程、小さなオクタヴィア、アウグスタを可愛がっていた。それがオクタヴィアへの愛情の表れだと思えば、嬉しくなければならないはずだった。
なのに、欝々と心が晴れなかった。
度を越した愛情の傾け方は、皇帝の仕事をすらおろそかにするものだった。このままでは、国が乱れてしまう。
否、懸念はそれだけではない。あの、許されざる感情がまた、頭をもたげ始めていた。
アウグスタを前にした時の皇帝が、男に見えない。初子の誕生を喜ぶ、母親そのものに見えて仕方なかったのだ。
まるで、美しい未亡人のように……。
そもそも、皇帝は掴み所のない存在だった。聡明なはずの彼が、ギリシアやエジプトへの長期旅行を望んだのも、不思議な判断としか言いようがない。
オクタヴィアが傍にいた頃にはあれだけ熱心に取り組んでいた政治にも、もはや興味がないかのような態度だった。
愚行の原因は、オクタヴィアだけではなくアウグスタまで失ってしまった、空虚感のせいだとはわかっている。
ガイウスと同様――おそらく、それ以上に。
だからこそ、祈る。向かう先に、皇帝の姿があることを。
オクタヴィアが亡くなってから、初めての命日。
知らず、溜め息が零れ落ちる。
ガイウスにとって皇帝は、掴み所のない存在だった。
初めて会った時、正体を知らなかった。ナポリの夜、美しい星空に誘われた散策途中、命を狙われていた。
暗殺を企てられるほど、また身に纏った衣装から、高貴の人であろうことはたやすく推測できていた。
けれどまさか、皇帝だとは思わなかった。
噂に聞く皇帝ネロは、悪辣だった。
皇帝の座に座るために、義父クラウディウス、義弟ブリタニクスを殺害し、同性愛に耽り、実母まで手にかけた卑劣な男。
だが実際に出会った「皇帝ネロ」は、至極まっとうな人物だった。むしろ、清廉潔白の印象が強い。
ブリタニクスのためにも、私は賢帝でなくてはならない――思いつめた横顔で呟く様を、何度見ただろう。
同性愛を噂されていたオトとも、ただの友人だったと言う。その上で求められ、遠ざけることへの罪悪感を告白され、愚直なまでの生真面目さも見て取れた。
オクタヴィアとの夫婦仲の良さも、どうせ政略結婚だろうと穿って見ていたことを反省せざるを得ない程で――
笑顔で互いを見つめ合う二人の姿は、微笑ましかった。まるで美しい絵画のように、それでいて血の通った温かさが感じられた。
なのに、何かが胸にわだかまる。皇帝に気に入られ、傍近くで仕えるようになって、二人の睦まじさを見せつけられると、ちりちりと痛むのだ、胸が。
おそらくは、嫉妬。
自らの感情に気づいた時、愕然とした。
仲睦まじく暮らす皇帝夫妻に横恋慕するなど、正気の沙汰ではない。
――まして、想いを向ける先が皇帝ならばなおのこと。
ナポリで出会った時は、女性だと思った。暗闇の中、月と星の明かりで見た美貌が、心の片隅に残っていたのは事実だ。
だが皇帝――男と知って、浮かびかけていた淡い想いは消えた。
消えたと、思っていたのに。
親しく言葉を交わすうち、影を作るほど長い睫毛の間から真っ直ぐに向けられる青い瞳を見る度、胸が熱くなる。
「お互い、辛い恋ですね」
抑え込もうとしていたガイウスの感情を認め、寂しげに微笑んだのはオクタヴィアだった。
すべてを見透かしたオクタヴィアの笑顔の前では、違う、という口先だけの否定は、用をなさなかった。
自身では決して認めることの出来ない感情を、彼女は優しく包み込んでくれた。それが少なからず、ガイウスの救いになっていたことは否めない。
自然と話す機会は増え、親睦を深めたことが皇帝の誤解を招いてしまうとは、夢にも思わなかった。
救いを与えてくれたオクタヴィアを、窮地に追いやった一因が自分だと思えば、悔やんでも悔やみきれない。
もっとも、あの当時は皇帝と睦まじく暮らしていたオクタヴィアが、辛い恋を「お互い」と語っていた真意については未だ、謎のままではあるが。
――そう、オクタヴィアが皇帝以外の誰かと恋に落ちることなど、ありえなかった。
彼女の想いは、本物だった。でなければ、あのような残酷な行いをした皇帝を許すはずがない。
流刑地からでさえ、自分の身ではなく皇帝を案じていた。
二人の行いの差を目の当たりにすれば、どちらに感情を傾けるかはわかりきっている。皇帝への想いはむしろ、憎しみにすら近くなっていた。
誤解が解けた後――オクタヴィアを、失った後。
皇帝は異常な程、小さなオクタヴィア、アウグスタを可愛がっていた。それがオクタヴィアへの愛情の表れだと思えば、嬉しくなければならないはずだった。
なのに、欝々と心が晴れなかった。
度を越した愛情の傾け方は、皇帝の仕事をすらおろそかにするものだった。このままでは、国が乱れてしまう。
否、懸念はそれだけではない。あの、許されざる感情がまた、頭をもたげ始めていた。
アウグスタを前にした時の皇帝が、男に見えない。初子の誕生を喜ぶ、母親そのものに見えて仕方なかったのだ。
まるで、美しい未亡人のように……。
そもそも、皇帝は掴み所のない存在だった。聡明なはずの彼が、ギリシアやエジプトへの長期旅行を望んだのも、不思議な判断としか言いようがない。
オクタヴィアが傍にいた頃にはあれだけ熱心に取り組んでいた政治にも、もはや興味がないかのような態度だった。
愚行の原因は、オクタヴィアだけではなくアウグスタまで失ってしまった、空虚感のせいだとはわかっている。
ガイウスと同様――おそらく、それ以上に。
だからこそ、祈る。向かう先に、皇帝の姿があることを。
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