背徳者  暴君と呼ばれた皇帝

月島 成生

文字の大きさ
上 下
44 / 78
第七章

拒絶

しおりを挟む
 見慣れた、優しい微笑みがそこに在った。
 言いたいことは、山ほどあったはずだ。
 まずは、謝らなければならない。足元に身を投げ出し、許しを請うて、傍にいさせて欲しいと懇願するつもりだった。
 力いっぱい、抱きしめたい。
 そう思っていたのに、近付くことすらできなかった。

「ごめんなさい」

 謝罪を口にしたのは、何故かオクタヴィアの方だった。
 小さな、か細い声。身体が弱っているだけではなく、心労を窺わせる。

「――申し訳、ございません。陛下がわざわざやって来て下さったというのに――今の私には、立ち上がる力さえもありません」

 寂しげに笑う顔が、辛かった。頭を振って見せる。

「違う。私は皇帝などではない。君の前では、ただのルキウスだ」

 他人行儀な物言いが、胸に突き刺さる。
 オクタヴィアにとって、ルキウスは非情な皇帝にすぎないのだろうか。あれほどまでに互いを大切にした事実は、想いは、既に過去になってしまったのだろうか。

「謝って、許されるものではない。わかっている。けれど私は――」

 震える足を、そっと前へと踏み出す。ちゃんと歩けているのだろうか。それさえもわからなかった。

「私は、知らなかった。君に裏切られたと、思い込んでいた。君になんら落ち度なく、どれだけ辛い想いをしたのかも知らず──」

 息が、詰まる。胸も痛い。

 そして――オクタヴィアの表情が凍り付く。
 悲痛な面持ちで、ルキウスを見上げていたが、すぐに目を伏せ、力なく笑った。
 けほんと、小さく咳き込む。

「――ガイウスに、お聞きになりましたの……?」

 問いかけに、言葉もなく頷く。
 ルキウスが事実を知るのは、オクタヴィアの本意ではなかったはずだ。
 けれど知らなければ、本当に取り返しのつかない事になっていただろう。
 オクタヴィアに罪を着せ、追放してしまったのと同じに。

 そっと、彼女の横で眠る赤子を覗きこむ。小さな寝息を立てる顔は、母に守られる安心に包まれているようだった。

「可愛い子だな」

 本心から言った。
 閉じられ、半円になった目元を飾る長い睫毛、生まれてまだ数日だというのに、しっかりと髪も生えそろい、ゆるやかに波打っている。

 その子は、オクタヴィアによく似ていた。

 ルキウスは、安堵に胸を撫で下ろす。父親――オトの面影が濃ければ、どうしても辛い過去を思い出してしまう。
 オクタヴィアだけではなく、きっとルキウスも。

「あなたの目にもそう見える? 良かった、私だけじゃないのね」

 けほ、とまた小さく咳き込みながら、オクタヴィアは目を細めて笑った。

 どうして、私は男ではないのか。
 かつて何度も浮かんだ疑問が、再び強くなる。

 ルキウスは、ガイウスへの恋情を自覚していた。
 だが同時に、今、はっきりと認識する。オクタヴィアに向けた想いもまた、恋だと。
 ルキウスの暴走は、相手がガイウスだと思っていたことだけが原因ではない。オクタヴィアを腕に抱く僥倖を得た男への、妬みもあったのだ。

 オクタヴィアに、気持ちを伝えることはできない。彼女が、同性の恋愛を嫌っていることは、誰よりも知っている。
 嫌われたくない。だから、伝えるわけにはいかない。

 けれど、もう二度と離さない。

「その子の、名前は?」
「まだなの。――あなたに、つけてほしくて」

 オクタヴィアの微笑みに、戸惑いを覚える。子どもに名前を付けるなど初めてだし、何より彼女が望んでくれるのが嬉しくもあり、辛くもあった。
 オクタヴィアの気持ちは、変わっていない。傍に居たあの時と同様、ルキウスを思いやってくれている。

 ならばきっと、やり直せる。また、一緒に時を刻める。

 同時に感じる辛さは、何の償いもできていない自分の不甲斐なさだった。
 否、これから先、できる事はあるはずだ。
 ルキウスは、改めて決意する。

「――オクタヴィア」

 子どもをじっと見つめたまま、ポツリと呟く。

「君のような娘に育ってもらいたい。だから、オクタヴィアだ」

 ローマにおいて、子どもに母や父の名を付ける事は多い。ほとんど、両親や血縁者の名を与えられる。
 ルキウスの名も、ドミティウス家にはありふれた名前だ。
 だからといって、慣習に習ったのではない。口にした通り、オクタヴィアの人柄を愛するが故だった。

 驚きの表情を浮かべていたオクタヴィアが、ふと、柔らかく笑う。
 その笑顔が、ルキウスを受け入れてくれた証に思えた。

「その子は、私の子だ。君は――皇帝の子を産んだ、唯一の皇后」

 事実ではない。けれどルキウスはそう、思い込みたかった。

 オクタヴィアが信じる神でも、違う神でもいい。
 二人の想いを認め、どこかの神が子を授けてくれた。

 ユダヤに生まれたマリアとかいう女が身籠った時、処女だったという。それがオクタヴィアの身に起こったとして、何の不思議があろう。
 清らかな乙女であるオクタヴィアの胎内を選んで、神が聖なる子を送り出したのだ。

「君が私を許してくれれば――共に歩んでくれるならば」

 白々しい。心の中で、苦笑する。
 まるでオクタヴィアに選択権があるような物言いをしているが、自分は決して彼女を離さない。たとえ拒絶されたとしても、ずっと傍に居る。

 否、きっとオクタヴィアは受け入れてくれる。拒絶などされるはずがないと信じているのだから、度し難い。

 すぐにでも頷いてくれるかと思っていたが、オクタヴィアは顔を覆った。震える肩が、泣いていることを知らせる。

 喜んで、くれているのか。それとも――嫌なのか。

 ルキウスの不安を肯定するように、オクタヴィアが頭を振った。

「――一緒には、暮らせません」

 掠れた声は、静かにルキウスを拒絶した。

しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

夕映え~武田勝頼の妻~

橘 ゆず
歴史・時代
天正十年(1582年)。 甲斐の国、天目山。 織田・徳川連合軍による甲州征伐によって新府を追われた武田勝頼は、起死回生をはかってわずかな家臣とともに岩殿城を目指していた。 そのかたわらには、五年前に相模の北条家から嫁いできた継室、十九歳の佐奈姫の姿があった。 武田勝頼公と、18歳年下の正室、北条夫人の最期の数日を描いたお話です。 コバルトの短編小説大賞「もう一歩」の作品です。

鎌倉最後の日

もず りょう
歴史・時代
かつて源頼朝や北条政子・義時らが多くの血を流して築き上げた武家政権・鎌倉幕府。承久の乱や元寇など幾多の困難を乗り越えてきた幕府も、悪名高き執権北条高時の治政下で頽廃を極めていた。京では後醍醐天皇による倒幕計画が持ち上がり、世に動乱の兆しが見え始める中にあって、北条一門の武将金澤貞将は危機感を募らせていく。ふとしたきっかけで交流を深めることとなった御家人新田義貞らは、貞将にならば鎌倉の未来を託すことができると彼に「決断」を迫るが――。鎌倉幕府の最後を華々しく彩った若き名将の清冽な生きざまを活写する歴史小説、ここに開幕!

腐れ外道の城

詠野ごりら
歴史・時代
戦国時代初期、険しい山脈に囲まれた国。樋野(ひの)でも狭い土地をめぐって争いがはじまっていた。 黒田三郎兵衛は反乱者、井藤十兵衛の鎮圧に向かっていた。

西涼女侠伝

水城洋臣
歴史・時代
無敵の剣術を会得した男装の女剣士。立ち塞がるは三国志に名を刻む猛将馬超  舞台は三國志のハイライトとも言える時代、建安年間。曹操に敗れ関中を追われた馬超率いる反乱軍が涼州を襲う。正史に残る涼州動乱を、官位無き在野の侠客たちの視点で描く武侠譚。  役人の娘でありながら剣の道を選んだ男装の麗人・趙英。  家族の仇を追っている騎馬民族の少年・呼狐澹。  ふらりと現れた目的の分からぬ胡散臭い道士・緑風子。  荒野で出会った在野の流れ者たちの視点から描く、錦馬超の実態とは……。  主に正史を参考としていますが、随所で意図的に演義要素も残しており、また武侠小説としてのテイストも強く、一見重そうに見えて雰囲気は割とライトです。  三國志好きな人ならニヤニヤ出来る要素は散らしてますが、世界観説明のノリで注釈も多めなので、知らなくても楽しめるかと思います(多分)  涼州動乱と言えば馬超と王異ですが、ゲームやサブカル系でこの2人が好きな人はご注意。何せ基本正史ベースだもんで、2人とも現代人の感覚としちゃアレでして……。

永き夜の遠の睡りの皆目醒め

七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。 新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。 しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。 近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。 首はどこにあるのか。 そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。 ※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい

ナポレオンの妊活・立会い出産・子育て

せりもも
歴史・時代
帝国の皇子に必要なのは、高貴なる青き血。40歳を過ぎた皇帝ナポレオンは、早急に子宮と結婚する必要があった。だがその前に、彼は、既婚者だった……。ローマ王(ナポレオン2世 ライヒシュタット公)の両親の結婚から、彼がウィーンへ幽閉されるまでを、史実に忠実に描きます。 カクヨムから、一部転載

大日本帝国領ハワイから始まる太平洋戦争〜真珠湾攻撃?そんなの知りません!〜

雨宮 徹
歴史・時代
1898年アメリカはスペインと戦争に敗れる。本来、アメリカが支配下に置くはずだったハワイを、大日本帝国は手中に収めることに成功する。 そして、時は1941年。太平洋戦争が始まると、大日本帝国はハワイを起点に太平洋全域への攻撃を開始する。 これは、史実とは異なる太平洋戦争の物語。 主要登場人物……山本五十六、南雲忠一、井上成美 ※歴史考証は皆無です。中には現実性のない作戦もあります。ぶっ飛んだ物語をお楽しみください。 ※根本から史実と異なるため、艦隊の動き、編成などは史実と大きく異なります。 ※歴史初心者にも分かりやすいように、言葉などを現代風にしています。

【完結】女神は推考する

仲 奈華 (nakanaka)
歴史・時代
父や夫、兄弟を相次いで失った太后は途方にくれた。 直系の男子が相次いて死亡し、残っているのは幼い皇子か血筋が遠いものしかいない。 強欲な叔父から持ち掛けられたのは、女である私が即位するというものだった。 まだ幼い息子を想い決心する。子孫の為、夫の為、家の為私の役目を果たさなければならない。 今までは子供を産む事が役割だった。だけど、これからは亡き夫に変わり、残された私が守る必要がある。 これは、大王となる私の守る為の物語。 額田部姫(ヌカタベヒメ) 主人公。母が蘇我一族。皇女。 穴穂部皇子(アナホベノミコ) 主人公の従弟。 他田皇子(オサダノオオジ) 皇太子。主人公より16歳年上。後の大王。 広姫(ヒロヒメ) 他田皇子の正妻。他田皇子との間に3人の子供がいる。 彦人皇子(ヒコヒトノミコ) 他田大王と広姫の嫡子。 大兄皇子(オオエノミコ) 主人公の同母兄。 厩戸皇子(ウマヤドノミコ) 大兄皇子の嫡子。主人公の甥。 ※飛鳥時代、推古天皇が主人公の小説です。 ※歴史的に年齢が分かっていない人物については、推定年齢を記載しています。※異母兄弟についての明記をさけ、母方の親類表記にしています。 ※名前については、できるだけ本名を記載するようにしています。(馴染みが無い呼び方かもしれません。) ※史実や事実と異なる表現があります。 ※主人公が大王になった後の話を、第2部として追加する可能性があります。その時は完結→連載へ設定変更いたします。  

処理中です...