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第七章
拒絶
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見慣れた、優しい微笑みがそこに在った。
言いたいことは、山ほどあったはずだ。
まずは、謝らなければならない。足元に身を投げ出し、許しを請うて、傍にいさせて欲しいと懇願するつもりだった。
力いっぱい、抱きしめたい。
そう思っていたのに、近付くことすらできなかった。
「ごめんなさい」
謝罪を口にしたのは、何故かオクタヴィアの方だった。
小さな、か細い声。身体が弱っているだけではなく、心労を窺わせる。
「――申し訳、ございません。陛下がわざわざやって来て下さったというのに――今の私には、立ち上がる力さえもありません」
寂しげに笑う顔が、辛かった。頭を振って見せる。
「違う。私は皇帝などではない。君の前では、ただのルキウスだ」
他人行儀な物言いが、胸に突き刺さる。
オクタヴィアにとって、ルキウスは非情な皇帝にすぎないのだろうか。あれほどまでに互いを大切にした事実は、想いは、既に過去になってしまったのだろうか。
「謝って、許されるものではない。わかっている。けれど私は――」
震える足を、そっと前へと踏み出す。ちゃんと歩けているのだろうか。それさえもわからなかった。
「私は、知らなかった。君に裏切られたと、思い込んでいた。君になんら落ち度なく、どれだけ辛い想いをしたのかも知らず──」
息が、詰まる。胸も痛い。
そして――オクタヴィアの表情が凍り付く。
悲痛な面持ちで、ルキウスを見上げていたが、すぐに目を伏せ、力なく笑った。
けほんと、小さく咳き込む。
「――ガイウスに、お聞きになりましたの……?」
問いかけに、言葉もなく頷く。
ルキウスが事実を知るのは、オクタヴィアの本意ではなかったはずだ。
けれど知らなければ、本当に取り返しのつかない事になっていただろう。
オクタヴィアに罪を着せ、追放してしまったのと同じに。
そっと、彼女の横で眠る赤子を覗きこむ。小さな寝息を立てる顔は、母に守られる安心に包まれているようだった。
「可愛い子だな」
本心から言った。
閉じられ、半円になった目元を飾る長い睫毛、生まれてまだ数日だというのに、しっかりと髪も生えそろい、ゆるやかに波打っている。
その子は、オクタヴィアによく似ていた。
ルキウスは、安堵に胸を撫で下ろす。父親――オトの面影が濃ければ、どうしても辛い過去を思い出してしまう。
オクタヴィアだけではなく、きっとルキウスも。
「あなたの目にもそう見える? 良かった、私だけじゃないのね」
けほ、とまた小さく咳き込みながら、オクタヴィアは目を細めて笑った。
どうして、私は男ではないのか。
かつて何度も浮かんだ疑問が、再び強くなる。
ルキウスは、ガイウスへの恋情を自覚していた。
だが同時に、今、はっきりと認識する。オクタヴィアに向けた想いもまた、恋だと。
ルキウスの暴走は、相手がガイウスだと思っていたことだけが原因ではない。オクタヴィアを腕に抱く僥倖を得た男への、妬みもあったのだ。
オクタヴィアに、気持ちを伝えることはできない。彼女が、同性の恋愛を嫌っていることは、誰よりも知っている。
嫌われたくない。だから、伝えるわけにはいかない。
けれど、もう二度と離さない。
「その子の、名前は?」
「まだなの。――あなたに、つけてほしくて」
オクタヴィアの微笑みに、戸惑いを覚える。子どもに名前を付けるなど初めてだし、何より彼女が望んでくれるのが嬉しくもあり、辛くもあった。
オクタヴィアの気持ちは、変わっていない。傍に居たあの時と同様、ルキウスを思いやってくれている。
ならばきっと、やり直せる。また、一緒に時を刻める。
同時に感じる辛さは、何の償いもできていない自分の不甲斐なさだった。
否、これから先、できる事はあるはずだ。
ルキウスは、改めて決意する。
「――オクタヴィア」
子どもをじっと見つめたまま、ポツリと呟く。
「君のような娘に育ってもらいたい。だから、オクタヴィアだ」
ローマにおいて、子どもに母や父の名を付ける事は多い。ほとんど、両親や血縁者の名を与えられる。
ルキウスの名も、ドミティウス家にはありふれた名前だ。
だからといって、慣習に習ったのではない。口にした通り、オクタヴィアの人柄を愛するが故だった。
驚きの表情を浮かべていたオクタヴィアが、ふと、柔らかく笑う。
その笑顔が、ルキウスを受け入れてくれた証に思えた。
「その子は、私の子だ。君は――皇帝の子を産んだ、唯一の皇后」
事実ではない。けれどルキウスはそう、思い込みたかった。
オクタヴィアが信じる神でも、違う神でもいい。
二人の想いを認め、どこかの神が子を授けてくれた。
ユダヤに生まれたマリアとかいう女が身籠った時、処女だったという。それがオクタヴィアの身に起こったとして、何の不思議があろう。
清らかな乙女であるオクタヴィアの胎内を選んで、神が聖なる子を送り出したのだ。
「君が私を許してくれれば――共に歩んでくれるならば」
白々しい。心の中で、苦笑する。
まるでオクタヴィアに選択権があるような物言いをしているが、自分は決して彼女を離さない。たとえ拒絶されたとしても、ずっと傍に居る。
否、きっとオクタヴィアは受け入れてくれる。拒絶などされるはずがないと信じているのだから、度し難い。
すぐにでも頷いてくれるかと思っていたが、オクタヴィアは顔を覆った。震える肩が、泣いていることを知らせる。
喜んで、くれているのか。それとも――嫌なのか。
ルキウスの不安を肯定するように、オクタヴィアが頭を振った。
「――一緒には、暮らせません」
掠れた声は、静かにルキウスを拒絶した。
言いたいことは、山ほどあったはずだ。
まずは、謝らなければならない。足元に身を投げ出し、許しを請うて、傍にいさせて欲しいと懇願するつもりだった。
力いっぱい、抱きしめたい。
そう思っていたのに、近付くことすらできなかった。
「ごめんなさい」
謝罪を口にしたのは、何故かオクタヴィアの方だった。
小さな、か細い声。身体が弱っているだけではなく、心労を窺わせる。
「――申し訳、ございません。陛下がわざわざやって来て下さったというのに――今の私には、立ち上がる力さえもありません」
寂しげに笑う顔が、辛かった。頭を振って見せる。
「違う。私は皇帝などではない。君の前では、ただのルキウスだ」
他人行儀な物言いが、胸に突き刺さる。
オクタヴィアにとって、ルキウスは非情な皇帝にすぎないのだろうか。あれほどまでに互いを大切にした事実は、想いは、既に過去になってしまったのだろうか。
「謝って、許されるものではない。わかっている。けれど私は――」
震える足を、そっと前へと踏み出す。ちゃんと歩けているのだろうか。それさえもわからなかった。
「私は、知らなかった。君に裏切られたと、思い込んでいた。君になんら落ち度なく、どれだけ辛い想いをしたのかも知らず──」
息が、詰まる。胸も痛い。
そして――オクタヴィアの表情が凍り付く。
悲痛な面持ちで、ルキウスを見上げていたが、すぐに目を伏せ、力なく笑った。
けほんと、小さく咳き込む。
「――ガイウスに、お聞きになりましたの……?」
問いかけに、言葉もなく頷く。
ルキウスが事実を知るのは、オクタヴィアの本意ではなかったはずだ。
けれど知らなければ、本当に取り返しのつかない事になっていただろう。
オクタヴィアに罪を着せ、追放してしまったのと同じに。
そっと、彼女の横で眠る赤子を覗きこむ。小さな寝息を立てる顔は、母に守られる安心に包まれているようだった。
「可愛い子だな」
本心から言った。
閉じられ、半円になった目元を飾る長い睫毛、生まれてまだ数日だというのに、しっかりと髪も生えそろい、ゆるやかに波打っている。
その子は、オクタヴィアによく似ていた。
ルキウスは、安堵に胸を撫で下ろす。父親――オトの面影が濃ければ、どうしても辛い過去を思い出してしまう。
オクタヴィアだけではなく、きっとルキウスも。
「あなたの目にもそう見える? 良かった、私だけじゃないのね」
けほ、とまた小さく咳き込みながら、オクタヴィアは目を細めて笑った。
どうして、私は男ではないのか。
かつて何度も浮かんだ疑問が、再び強くなる。
ルキウスは、ガイウスへの恋情を自覚していた。
だが同時に、今、はっきりと認識する。オクタヴィアに向けた想いもまた、恋だと。
ルキウスの暴走は、相手がガイウスだと思っていたことだけが原因ではない。オクタヴィアを腕に抱く僥倖を得た男への、妬みもあったのだ。
オクタヴィアに、気持ちを伝えることはできない。彼女が、同性の恋愛を嫌っていることは、誰よりも知っている。
嫌われたくない。だから、伝えるわけにはいかない。
けれど、もう二度と離さない。
「その子の、名前は?」
「まだなの。――あなたに、つけてほしくて」
オクタヴィアの微笑みに、戸惑いを覚える。子どもに名前を付けるなど初めてだし、何より彼女が望んでくれるのが嬉しくもあり、辛くもあった。
オクタヴィアの気持ちは、変わっていない。傍に居たあの時と同様、ルキウスを思いやってくれている。
ならばきっと、やり直せる。また、一緒に時を刻める。
同時に感じる辛さは、何の償いもできていない自分の不甲斐なさだった。
否、これから先、できる事はあるはずだ。
ルキウスは、改めて決意する。
「――オクタヴィア」
子どもをじっと見つめたまま、ポツリと呟く。
「君のような娘に育ってもらいたい。だから、オクタヴィアだ」
ローマにおいて、子どもに母や父の名を付ける事は多い。ほとんど、両親や血縁者の名を与えられる。
ルキウスの名も、ドミティウス家にはありふれた名前だ。
だからといって、慣習に習ったのではない。口にした通り、オクタヴィアの人柄を愛するが故だった。
驚きの表情を浮かべていたオクタヴィアが、ふと、柔らかく笑う。
その笑顔が、ルキウスを受け入れてくれた証に思えた。
「その子は、私の子だ。君は――皇帝の子を産んだ、唯一の皇后」
事実ではない。けれどルキウスはそう、思い込みたかった。
オクタヴィアが信じる神でも、違う神でもいい。
二人の想いを認め、どこかの神が子を授けてくれた。
ユダヤに生まれたマリアとかいう女が身籠った時、処女だったという。それがオクタヴィアの身に起こったとして、何の不思議があろう。
清らかな乙女であるオクタヴィアの胎内を選んで、神が聖なる子を送り出したのだ。
「君が私を許してくれれば――共に歩んでくれるならば」
白々しい。心の中で、苦笑する。
まるでオクタヴィアに選択権があるような物言いをしているが、自分は決して彼女を離さない。たとえ拒絶されたとしても、ずっと傍に居る。
否、きっとオクタヴィアは受け入れてくれる。拒絶などされるはずがないと信じているのだから、度し難い。
すぐにでも頷いてくれるかと思っていたが、オクタヴィアは顔を覆った。震える肩が、泣いていることを知らせる。
喜んで、くれているのか。それとも――嫌なのか。
ルキウスの不安を肯定するように、オクタヴィアが頭を振った。
「――一緒には、暮らせません」
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