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第七章

真実

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 入ってくるガイウスに、目も向けなかった。
 見なくとも足音だけでもわかる。彼がどれだけ、オクタヴィアを心配しているのか。
 公的な知らせでさえ、たった今届いたばかりなのだ。なのに知っているということは、独自で人を雇っていた証拠である。

「女の子だそうだ。あなたももちろん、それを知ってここへ来たのだろう?」
「はい。ご容体がよろしくないことも、存じております」

 ガイウスの、睨み据えてくる視線が頬に痛い。

「――そうか。その上で、私に何か用でも?」
「行って下さい、オクタヴィア様の元へ。そうすればきっと、快方に向かうと……」
「莫迦なことを」

 大切な人に会えば、気力は持ち直す。それが体の回復に繋がる可能性は、あった。
 だがそれは、「大切な人」だ。オクタヴィアにとっての自分は、その位置にはいない。

「莫迦なことではありません! あなたの姿を見れば、きっと――」
「ふざけるな!」

 叫ぶように声を上げて訴えるガイウスを遮ったのは、その上を行くルキウスの叫びだった。

 会いたいのは、私の方だ。オクタヴィアと離れて、ずっと彼女のことばかり考えていた。
 けれど、彼女が本当に会いたいのは――誰よりも必要としているのは、私の手ではない。

 もう、耐えられなかった。絶望が、理性の箍を外す。

「私を責める暇があれば、一瞬でも早く彼女の元へ駆けつけるべきだろう? 彼女の苦しみの半分は、お前が負うべきものなのに……!」

 振り返るのと同時、椅子を蹴り倒す。
 ずっと押さえつけていた感情は、一度爆発すると収拾のつかないものになっていた。抑制など、できるはずがなかった。

 突然の豹変に驚いたのだろうか。非難を刻んでいたはずのガイウスの顔は、愕然とした表情になっている。

「一体――何をおっしゃっているのか」
「何を、だと? 私が知らないとでも思っているのか。あなたが子どもの父親――オクタヴィアが愛したのは、あなただ!」

 叫びながら、何故言ってしまったのかとすでに後悔の念が浮かび始めていた。

 これで、本当にすべてを失ってしまった。オクタヴィアだけでなく、ガイウスまでも。

 だが、ガイウスがそもそもの元凶だった。彼が現れなければ、オクタヴィアを奪われることもなかったのだ。
 彼女に嫉妬し、妬むこともない。今でもきっと、幸せな日々を過ごしていたはずなのに。

 目頭が、痛みを伴って熱くなる。
 睨みつけるルキウスを見返すガイウスの目に、強い驚きの色が浮かんでいた。

皇帝カエサル、それは違います。決して、私ではありません」
「今更とぼける気か」
「本当に違うのです。まさか――そのような誤解をしておられたとは」

 口元を押さえ、呆然と呟く顔に嘘は見えない。けれど、俄かには信じられなかった。
 ハッ、と短く笑声を吐き捨てる。

「あなたでないとすれば、一体誰だと?」

 従者などにも気安く話しかけ、おおらかで皆に笑顔を振りまいていたオクタヴィアだったが、同性であっても特別に仲の良い友人などもいなかった。
 親しくしていた男性など、ガイウス以外に心当たりはない。

 ガイウスがふと、目線を横へと流す。
 口ごもったのは、罪悪感の表れだろうか。俯き、固く目を瞑る仕草に、疑念が募る。

「――オト、です」

 沈黙の果て、意を決したように発せられた名を、一瞬理解できなかった。

「なに?」
「マルクス・サルヴィウス・オト――あなたの友だった、あの男です」
「――ハッ、あり得ない」

 眉間に深いしわを刻みながらの言葉を、一笑に付す。
 追いつめられた末の言い逃れにしても、あまりにも酷かった。

「オクタヴィアはオトを酷く嫌っていた。体を許すはずがない。どうせならもっと、うまい嘘にしたらどうだ」
「許したわけではありません。オトが、暴力に訴えたのです」

 続けられ、絶句する。
 たしかに、オクタヴィアがオトに――男に力ずくで押さえ込まれた場合、逃れることは不可能だろう。
 だが、そのような機会はなかったはずだ。ルキウスが仕事でオクタヴィアの傍を離れる日中は、従者が激しく出入りしている。オトが彼女に近付く術はない。
 仕事以外で傍にいない時、ルキウスは大抵オトと共にあった。その後はガイウスと会うようになったが、いつも二人の私室を彼が訪ねて来ていたはずだ。

 オトに決別の手紙を送り、ガイウスを一人で訪ねた、あの夜を除けば。

「あなたに対する復讐だと、言っていたそうです」

 オトには確かに、ルキウスを憎む理由があった。恩を仇で返したのだから、復讐を受けても仕方がない。
 だがオトは何もしなかった。――しなかったと思っていたのに。
 オトがオクタヴィアを狙った理由は、それがもっともルキウスに打撃を与えるとわかっていたからだ。

 ルシタニアへと赴いたあの日、オトは確かに言っていた。栄転の形をとったことを、ルキウスの温情であると。
 復讐と言えどもオクタヴィアを汚したオトに、罰を与えなかったことを言っていたのだ。

 全身の力が抜けていく。ガクガクと、膝が震えた。

「何故――」

 口を押え、洩れ出た呟きは力ないものだった。

「あなたはそれを知りながら――何故、私に言わなかった」

 オクタヴィア追放は、過ちだった。違えようのない、罪だ。
 けれどルキウスが判断を誤った一因は、ガイウスにもあるのではないか。責任転嫁とはわかっていても、考えずにはいられなかった。

 何故、教えてくれなかった。知っていればオクタヴィアと離婚などしなかった。
 以前よりもっと、大切にしていた。

 そして――オトを生かしてなどおかなかったのに。

「オクタヴィア様に、口止めされていたのです」
「オクタヴィアに……?」

 何故、と口にせず問うルキウスに、ガイウスは沈痛な面持ちで告げた。

「それを知ればきっと、あなたはオトを許さない。オクタヴィア様はあなたに――罪を犯して欲しくないと」

 ――今度こそ。
 卒倒するかと思った。血の気が引いて、足元がふらつく。
 ルキウスが、勘違いからオクタヴィアを憎んでいた時、彼女は思いやってくれていたのか。
 いわれのない罪を負わされながらも、言い訳の一つもせず――

 泣くことも、できなかった。ただ口元を覆い、立ち尽くす。

「嘘だ」

 一層のこと、嘘であってくれれば。心から、願う。
 誰よりも大切だと、守ってみせると約束したのはルキウスだった。
 オクタヴィアはそれを守り、恨み言もなく想ってくれていた。あまつさえ、ルキウスの心を救うために、自ら罪を被りさえした。

 裏切ったのはオクタヴィアではない。ルキウスだった。

 認めたくない。
 けれど、ガイウスの表情が物語っている。あなたの判断は過ちだっただけにとどまらず、非情なものだった、と。

 見上げるのは、縋りつきたい衝動に駆られたからだ。
 ずっと以前、オクタヴィアに縋った時と同じように、救われたかった。

 ガイウスは、そっと横を向く。視線をそらされたことが、見捨てられる恐怖を煽った。
 そう、彼はオクタヴィアとは違う。無償の愛を注いでくれる彼女とは、違うのだ。

「オクタヴィア――!」

 堪えることなど、できなかった。涙が溢れ、ただただ顔を覆って泣き崩れる。

 どれだけ辛かっただろう。
 オトによる凌辱だけでも、衝撃は強かったはずだ。
 なのにルキウスは、追い打ちをかけた。オクタヴィアを守らねばならぬはずの人間が、彼女を裏切り、罪を被せた。

 謝って、許されるものではない。
 それでもどこかで期待をしている。オクタヴィアならきっと許してくれると。

 ――それを望んでしまう自分の、なんと身勝手なことか。

「何を――泣いておられるのか」

 お前に、泣く資格などはない。

 言外の声が、ルキウスを責める。
 どうせならもっと、罵ればいい。許されざる罪人を責めるのは、正義の士として当然の行為だ。
 なのに、ガイウスはそうしない。ただ淡々とした声で、冷たい顔で、見下ろす。
 顔を見ていられなくて、目を落とした先で見たのは、震える彼の拳だった。

「――オクタヴィア様は、私とは違う」

 ぼそりと呟いた声も、どこか震えて聞こえた。

「私は、あなたの非道を許せない。けれどあの方は、今でもあなたを愛しておられる。やり直しは利くはずです――オクタヴィア様がご無事であれば、きっと」

 だから、今すぐ向かって下さい。
 告げるのは、憎々しげな声だった。

 ガイウスが、オクタヴィアを愛しているのかはわからない。
 ただ彼女の在り方を敬い、大切に思っていることだけは確かだった。
 そのオクタヴィアを、憎いルキウスに託さねばならないのがきっと、腹立たしいのだろう。

 ――そう、今ではきっとルキウスを憎んでいるガイウスが、それでもオクタヴィアのためにとここへ駆けつけた。
 オクタヴィアの気持ちがまだ、ルキウスに向いている証拠だった。

 今度こそ、もう過ちは犯さない。
 ローマに呼び戻し、全てを初めからやり直すのだ。

 もう、夕方だった。船を出すには、遅すぎる時刻である。
 けれど危険な夜間の航海も、問題にはならない。ルキウスにとって、自分の命さえも些末なことに思えていた。

 オクタヴィアに会うこと――この腕で、しっかりと抱きしめること。
 一度は反故にしてしまった約束を守ることのみが、大切だった。
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