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第七章
兆候
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セネカの危惧は、正しかった。
一方的に離縁されたオクタヴィアに同情を寄せる市民達は、ルキウスとポッパエアに対し、あからさまな反発を示している。
ルキウスとて、考えなかったわけではない。離婚からあまりにも日が浅い再婚は、皇帝ネロを憎む人々に、格好の攻撃の材料になるだろう、と。
同時に、オクタヴィアへの当てつけになるのではないかとの思いもあった。追い打ちをかけて悲しませれば、耐えられなくなって縋りついてくるのでは、と。
けれど、オクタヴィアから謝罪の手紙が届くことはなかった。待てど暮らせど、来るのは仕事上の書簡のみ。
何故だ。
絶望が、思考力を奪っていく。
オクタヴィアにとって、自分はもう頼ることもない他人にすぎないのか。
なのに、ガイウスは未だにルキウスの元を訪れている。
非難がましいことは口にしない代わりに、笑顔も見せない。表情も、眼差し一つとっても、如実にルキウスを否定していた。
礼儀正しく、冷たい、他人行儀な会話だけが積み重ねられていく。楽しみはなく、むしろ寂寥感も虚しさも増すだけだった。
――オクタヴィアに、会いたい。
寂しさが増した時には、いつも切実に願う。
けれど切なさが呼ぶ憎しみが勝った時には、全てはオクタヴィアのせいだと責める。
愛しさと憎さがせめぎ合い、胸が苦しかった。
二つの感情に揺れるルキウスを襲ったのは、一つの事件だった。
オクタヴィアを離婚したことによる、市民達の抗議デモ。口々に怒号を乗せ、たいまつに火を付けて宮殿に迫ってくる大勢の姿に、ルキウスの胸は躍った。
これは、好機だ。
この抗議に負けたのだといえば、自分への言い訳ができる。
――オクタヴィアを、呼び戻すことができる。
統治初期から、市民の意見に耳を傾けてきた皇帝ネロとしては、不自然なことではなかった。
これで、オクタヴィアに会える。
彼女が戻ってくれば――許しを与え、共に暮らすようになればまた、心が通い合うかもしれない。
そうなればきっと、ガイウスとの関係も良好なものに戻るのではないか。
「賢明なるローマ市民諸君」
希望的な観測に心躍らせ、縋りついてくるポッパエアを振り解いてテラスへと出る。
「諸君の願いは聞き届けられた。皇后オクタヴィアはすぐにでも呼び戻され、その地位と名誉は再び彼女のものとなるだろう」
怒号が、歓声に変わる。割れんばかりの声に手を振って応え、早速手はずを整えるために執務室に向かおうとした。
「お待ちください!」
背後から呼び止められて、ようやくポッパエアの存在を思い出す。振り向いた先にある彼女の顔が険しいのは、言うまでもない。
結婚から、わずかに二カ月。形ばかりとはいえ、せっかく手に入れた皇后の座を失うには、あまりにも早かった。
「今、オクタヴィア様を呼び戻すのは、得策ではありません」
「なぜだ。市民の言葉に耳を傾けることの、何が悪い」
「裏切った妻を――罪人を、何の罰も与えずにお許しになるのは、皇帝の威厳を失うことになるのではありませんか」
莫迦な事を。オクタヴィアはすでに罰を受けている。カンパニアへ追放されたではないか。
鼻先で笑い飛ばす直前で、ふと気付く。
カンパニアは、静養地として名高い。蒸し暑いローマより、身重のオクタヴィアにとっては過ごしやすいはずだ。
それは、市民達も知っている。「追放」の名の元に行われた、温情措置であることは。
にもかかわらず、民衆はオクタヴィアを呼び戻せと声を上げた。
ローマ市民達は、熱しやすく冷めやすい。目先の事柄に囚われ、長期的な視野で物事を見ることが得意ではなかった。
戻ってきたオクタヴィアは、無論歓呼されるだろう。
けれど措置を行った皇帝ネロの名が上がる可能性は、五分五分だった。
市民の言葉に耳を傾ける、慈悲深い皇帝。
市民の脅迫に屈した、脆弱な皇帝。
気まぐれな民衆がどちらに転ぶかは、わからない。
せめて、オクタヴィアが謝罪だけでもしてくれたのなら、それを受け入れる形で呼び戻すこともできるだろう。
五分の賭けであるならば、冷酷な皇帝として振る舞った方がいいのかもしれない。
特例としての恩赦をする理由付けができない以上、法的には適っている。――そもそも、オクタヴィアを追放した手段が違法であったことは置いておくとして。
――もしこの時、余計なことを考えすぎなければ。
感情に身を任せてオクタヴィアを呼び戻していれば。
最悪の悲劇を、免れることができていたはずだった。
けれど神ならぬ身の上、ルキウスがそれを知る術はなかった。
一方的に離縁されたオクタヴィアに同情を寄せる市民達は、ルキウスとポッパエアに対し、あからさまな反発を示している。
ルキウスとて、考えなかったわけではない。離婚からあまりにも日が浅い再婚は、皇帝ネロを憎む人々に、格好の攻撃の材料になるだろう、と。
同時に、オクタヴィアへの当てつけになるのではないかとの思いもあった。追い打ちをかけて悲しませれば、耐えられなくなって縋りついてくるのでは、と。
けれど、オクタヴィアから謝罪の手紙が届くことはなかった。待てど暮らせど、来るのは仕事上の書簡のみ。
何故だ。
絶望が、思考力を奪っていく。
オクタヴィアにとって、自分はもう頼ることもない他人にすぎないのか。
なのに、ガイウスは未だにルキウスの元を訪れている。
非難がましいことは口にしない代わりに、笑顔も見せない。表情も、眼差し一つとっても、如実にルキウスを否定していた。
礼儀正しく、冷たい、他人行儀な会話だけが積み重ねられていく。楽しみはなく、むしろ寂寥感も虚しさも増すだけだった。
――オクタヴィアに、会いたい。
寂しさが増した時には、いつも切実に願う。
けれど切なさが呼ぶ憎しみが勝った時には、全てはオクタヴィアのせいだと責める。
愛しさと憎さがせめぎ合い、胸が苦しかった。
二つの感情に揺れるルキウスを襲ったのは、一つの事件だった。
オクタヴィアを離婚したことによる、市民達の抗議デモ。口々に怒号を乗せ、たいまつに火を付けて宮殿に迫ってくる大勢の姿に、ルキウスの胸は躍った。
これは、好機だ。
この抗議に負けたのだといえば、自分への言い訳ができる。
――オクタヴィアを、呼び戻すことができる。
統治初期から、市民の意見に耳を傾けてきた皇帝ネロとしては、不自然なことではなかった。
これで、オクタヴィアに会える。
彼女が戻ってくれば――許しを与え、共に暮らすようになればまた、心が通い合うかもしれない。
そうなればきっと、ガイウスとの関係も良好なものに戻るのではないか。
「賢明なるローマ市民諸君」
希望的な観測に心躍らせ、縋りついてくるポッパエアを振り解いてテラスへと出る。
「諸君の願いは聞き届けられた。皇后オクタヴィアはすぐにでも呼び戻され、その地位と名誉は再び彼女のものとなるだろう」
怒号が、歓声に変わる。割れんばかりの声に手を振って応え、早速手はずを整えるために執務室に向かおうとした。
「お待ちください!」
背後から呼び止められて、ようやくポッパエアの存在を思い出す。振り向いた先にある彼女の顔が険しいのは、言うまでもない。
結婚から、わずかに二カ月。形ばかりとはいえ、せっかく手に入れた皇后の座を失うには、あまりにも早かった。
「今、オクタヴィア様を呼び戻すのは、得策ではありません」
「なぜだ。市民の言葉に耳を傾けることの、何が悪い」
「裏切った妻を――罪人を、何の罰も与えずにお許しになるのは、皇帝の威厳を失うことになるのではありませんか」
莫迦な事を。オクタヴィアはすでに罰を受けている。カンパニアへ追放されたではないか。
鼻先で笑い飛ばす直前で、ふと気付く。
カンパニアは、静養地として名高い。蒸し暑いローマより、身重のオクタヴィアにとっては過ごしやすいはずだ。
それは、市民達も知っている。「追放」の名の元に行われた、温情措置であることは。
にもかかわらず、民衆はオクタヴィアを呼び戻せと声を上げた。
ローマ市民達は、熱しやすく冷めやすい。目先の事柄に囚われ、長期的な視野で物事を見ることが得意ではなかった。
戻ってきたオクタヴィアは、無論歓呼されるだろう。
けれど措置を行った皇帝ネロの名が上がる可能性は、五分五分だった。
市民の言葉に耳を傾ける、慈悲深い皇帝。
市民の脅迫に屈した、脆弱な皇帝。
気まぐれな民衆がどちらに転ぶかは、わからない。
せめて、オクタヴィアが謝罪だけでもしてくれたのなら、それを受け入れる形で呼び戻すこともできるだろう。
五分の賭けであるならば、冷酷な皇帝として振る舞った方がいいのかもしれない。
特例としての恩赦をする理由付けができない以上、法的には適っている。――そもそも、オクタヴィアを追放した手段が違法であったことは置いておくとして。
――もしこの時、余計なことを考えすぎなければ。
感情に身を任せてオクタヴィアを呼び戻していれば。
最悪の悲劇を、免れることができていたはずだった。
けれど神ならぬ身の上、ルキウスがそれを知る術はなかった。
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