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第五章
ポッパエア
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ポッパエア・サビナ。
その名は以前から知っていた。絶世の美女と名高い女性である。
なにより、オトの妻だった女だ。
オトの移転は、流罪ではない。むしろ栄転に類するものだ。離婚の必要もないのだから、当然妻は連れて行くものだと思っていた。
だが実際にはオトは離婚し、妻をルキウスの元へと預けた。
もしかすると、オトはこの女に捨てられたのかもしれない。
しおらしげに跪くポッパエアを見て、不意に思う。
トロイア戦争を招いたヘレネをたとえに出されるのも頷けるほど、美しい女性ではあった。オクタヴィアのような清楚な美しさではなく、大輪の華を想像させる、官能的な美。
精悍なオトと並び立てば、さぞや絵になる夫婦だっただろう。
けれど、その眼差しが。
きらめく双眸の奥深くに、暗い炎が蠢いている。紅を塗った唇も、浮かべているのは優美な微笑みのはずなのに、どこか不遜な印象があった。
母、アグリッピナと同じ人種だ。
ルキウスの嗅覚が、反応していた。
そもそも、オトがポッパエアと結婚したのは、ルキウスと知り合って以降のことだ。皇帝に近付くために、オトを利用したのではないか。
オトも、勘付いていたのかもしれない。
結婚祝いを兼ねてオト宅を訪れたいと申し出ても、「いい女だからお前には見せてやらん」などとふざけた物言いで断られたのは、ルキウスとポッパエアを近付けさせたくなかったからではないか。
文字通り美貌の妻を寝取られる心配をしたのか、男ならばポッパエアの美貌に惑わされると思い込んでルキウスを守るつもりだったか、他に何か理由があったのかはわからないけれど。
「この度は、宮殿に住まう名誉をお許し頂き、誠にありがとうございます」
声も、確かに美しい。同性のルキウスが聞いても、艶っぽさがわかる。男であれば、色欲を刺激されるのかもしれなかった。
ポッパエアには身内がいない。ローマに一人残すのはしのびない、身柄を預かってやってはくれないか。
彼女が持ってきたのは、そういった内容の手紙だった。見慣れた文字は、オトのもの。ねつ造されたものではないことを確かめて、ルキウスは承諾した。
自分が裏切ってしまった、一時は親友と呼んだ男の願いであれば、断る理由はない。せめてもの、罪滅ぼしのつもりもあった。
だがポッパエアの姿を見て、少々考えが変わった。
オトは常々、ルキウスとオクタヴィアの仲を妬んでいた。美人なのは認めるが面白味のなさそうな女のどこがいいんだと言っては、ルキウスを怒らせたものだ。
ルキウスを男だと思い込んでいるオトは、ポッパエアを使って罠を張ったつもりなのかもしれない。
可憐なオクタヴィアしか知らないルキウスが、ポッパエアの美貌に心を奪われると。
野心家のポッパエアを傍に置くことになれば、きっとアグリッピナの支配から逃れられなかった、あの頃と同じようになるだろう。
オトが解放した枷を、再びつけてやろうと企んだのではないか。
これが彼を裏切った、ルキウスへの復讐。
だとすれば、計算違いだった。
ルキウスは男ではない。女の美貌と色香に惑わされ、昏君と化すことなど、あり得なかった。
オトは、本当にこの女に惚れて結婚したのだろうか。――この程度の女に。
「だがきっと、あなたがここにいる時間は短いだろう」
形式的な挨拶とはいえ、見え透いたお世辞にも苛立ちを後押しされ、口を開く。
「オトから託ったのは、あなたが誰か、信用のおける者に嫁ぐまで預かってくれとのことだった。あなたのような美しい女性を放っておくほど、世の男達は莫迦ではないだろう」
美貌を褒めているのは事実。けれど裏を返せば、早く出て行け、お前には興味などないとの宣言に他ならなかった。
意図に気付いたのだろう。それくらいの知恵はあるようだ。眉間に皺を刻んだ、渋面になる。
もっとも、ルキウスの機嫌を損ねるのが得策ではないと思い直したのだろう。すぐに、ゆったりとした笑みの形に唇を歪めた。
「お褒めにあずかり、光栄です。――それでは、失礼いたします」
一礼し、退室する時に、ルキウスに流し目を送るのを忘れない。
女に弱い、普通のローマ人男性であれば、欲情をかきたてられたのかもしれない。呼び戻し、腕に抱かれるのをきっと、ポッパエアも期待していたのだろう。
ご苦労なことだ。
部屋を出て行く時、もう一度名残惜しそうな視線を流してくるポッパエアを、内心の呆れを隠しながら微笑みで見送った。
その名は以前から知っていた。絶世の美女と名高い女性である。
なにより、オトの妻だった女だ。
オトの移転は、流罪ではない。むしろ栄転に類するものだ。離婚の必要もないのだから、当然妻は連れて行くものだと思っていた。
だが実際にはオトは離婚し、妻をルキウスの元へと預けた。
もしかすると、オトはこの女に捨てられたのかもしれない。
しおらしげに跪くポッパエアを見て、不意に思う。
トロイア戦争を招いたヘレネをたとえに出されるのも頷けるほど、美しい女性ではあった。オクタヴィアのような清楚な美しさではなく、大輪の華を想像させる、官能的な美。
精悍なオトと並び立てば、さぞや絵になる夫婦だっただろう。
けれど、その眼差しが。
きらめく双眸の奥深くに、暗い炎が蠢いている。紅を塗った唇も、浮かべているのは優美な微笑みのはずなのに、どこか不遜な印象があった。
母、アグリッピナと同じ人種だ。
ルキウスの嗅覚が、反応していた。
そもそも、オトがポッパエアと結婚したのは、ルキウスと知り合って以降のことだ。皇帝に近付くために、オトを利用したのではないか。
オトも、勘付いていたのかもしれない。
結婚祝いを兼ねてオト宅を訪れたいと申し出ても、「いい女だからお前には見せてやらん」などとふざけた物言いで断られたのは、ルキウスとポッパエアを近付けさせたくなかったからではないか。
文字通り美貌の妻を寝取られる心配をしたのか、男ならばポッパエアの美貌に惑わされると思い込んでルキウスを守るつもりだったか、他に何か理由があったのかはわからないけれど。
「この度は、宮殿に住まう名誉をお許し頂き、誠にありがとうございます」
声も、確かに美しい。同性のルキウスが聞いても、艶っぽさがわかる。男であれば、色欲を刺激されるのかもしれなかった。
ポッパエアには身内がいない。ローマに一人残すのはしのびない、身柄を預かってやってはくれないか。
彼女が持ってきたのは、そういった内容の手紙だった。見慣れた文字は、オトのもの。ねつ造されたものではないことを確かめて、ルキウスは承諾した。
自分が裏切ってしまった、一時は親友と呼んだ男の願いであれば、断る理由はない。せめてもの、罪滅ぼしのつもりもあった。
だがポッパエアの姿を見て、少々考えが変わった。
オトは常々、ルキウスとオクタヴィアの仲を妬んでいた。美人なのは認めるが面白味のなさそうな女のどこがいいんだと言っては、ルキウスを怒らせたものだ。
ルキウスを男だと思い込んでいるオトは、ポッパエアを使って罠を張ったつもりなのかもしれない。
可憐なオクタヴィアしか知らないルキウスが、ポッパエアの美貌に心を奪われると。
野心家のポッパエアを傍に置くことになれば、きっとアグリッピナの支配から逃れられなかった、あの頃と同じようになるだろう。
オトが解放した枷を、再びつけてやろうと企んだのではないか。
これが彼を裏切った、ルキウスへの復讐。
だとすれば、計算違いだった。
ルキウスは男ではない。女の美貌と色香に惑わされ、昏君と化すことなど、あり得なかった。
オトは、本当にこの女に惚れて結婚したのだろうか。――この程度の女に。
「だがきっと、あなたがここにいる時間は短いだろう」
形式的な挨拶とはいえ、見え透いたお世辞にも苛立ちを後押しされ、口を開く。
「オトから託ったのは、あなたが誰か、信用のおける者に嫁ぐまで預かってくれとのことだった。あなたのような美しい女性を放っておくほど、世の男達は莫迦ではないだろう」
美貌を褒めているのは事実。けれど裏を返せば、早く出て行け、お前には興味などないとの宣言に他ならなかった。
意図に気付いたのだろう。それくらいの知恵はあるようだ。眉間に皺を刻んだ、渋面になる。
もっとも、ルキウスの機嫌を損ねるのが得策ではないと思い直したのだろう。すぐに、ゆったりとした笑みの形に唇を歪めた。
「お褒めにあずかり、光栄です。――それでは、失礼いたします」
一礼し、退室する時に、ルキウスに流し目を送るのを忘れない。
女に弱い、普通のローマ人男性であれば、欲情をかきたてられたのかもしれない。呼び戻し、腕に抱かれるのをきっと、ポッパエアも期待していたのだろう。
ご苦労なことだ。
部屋を出て行く時、もう一度名残惜しそうな視線を流してくるポッパエアを、内心の呆れを隠しながら微笑みで見送った。
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