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第五章

自覚

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「なにか、おありになったのですか?」

 質問に、身が竦む。
 何かがあったのかと問われれば、あった。
 決断したのは、自分。けれどどこかにまだ、迷いがあった。
 だからこそ忘れたくて、共に趣味の話ができるガイウスの元を訪ねたのだ。

 ――その結果、より辛い現実を目の当たりにすることになったのだけれど。

「マルクス・オトという男を知っているか」

 忘れるために訪れたのだが、一層のこと、そちらへ目を向ける方が気が楽になるのではないか。話をすることで、少しは救われるかもしれない。
 口を開いたルキウスを、驚いたような目が見つめる。

「――噂は、ビテュニアにまで届いていました。評判のよくない男です。そして……」

 口を濁した理由は、考えなくてもわかる。オトが有名なのは、「皇帝ネロ」の名と共に、だ。一緒に街で騒ぎを起こす仲間なのだから、口にするのを憚って当然だろう。
 否、それだけではない。くすり、と苦笑が洩れる。

「面と向かって、あなたの愛人だ、とはさすがに言い辛いか?」

 皮肉と捉えられても仕方のない台詞に、ガイウスはぴくりと身を竦ませる。その反応が、ルキウスが言った通りのことを思った事実を裏付けていた。
 自惚れでなければ、ガイウスはルキウスに好意的だった。もちろん、尊敬すべき上官としてではあろう。だからこそ、気分を害する恐れのある言葉を、言えなかったのだ。
 「皇帝」への恐れのせいでなければ、だけれど。

「――誤解だ」

 嘆息に、声を乗せる。

「私とオトは、そのような関係ではない。あなたが信じるかどうかはわからないが――」

 むしろ、結ばれていれば良かったのかもしれない。不毛な考えが、ふと浮かぶ。
 身も心もオトに任せていれば、もっと彼に傾倒していた可能性もある。そうすれば、ガイウスが入りこむ隙間などなかったのではないか。

 このような、想いにはならずにすんだ。

「実際、何度も求められた。――彼には、恩もある。受け入れようかと思ったことがあるのは、否定しない。だができなかった。私は――私、は……」
「――オクタヴィア様を、誰よりも愛しているから、ですね?」

 言いよどんだルキウスの、後を継ぐ形でガイウスが口にする。
 そうであれば、よかったのに。軽く伏せた目頭が、熱くなる。

 オトへの返事を迷っていた時、瞼の裏に浮かんできたのはオクタヴィアではない。その時にはまだ名も知らなかった、ガイウスの顔だった。
 地獄の底から救ってくれた人――幻影に惑わされ、女神にすら見捨てられたルキウスに手を差し伸べてくれた、優しい男。
 月明りに照らし出された神々しい姿は、今でもしっかり瞼に焼き付いている。

 あの時、あの瞬間、彼に恋していたのだとようやく自覚した。

 目を上げると、幻ではない、本物のガイウスが座っている。
 再会しない方が良かったとは、思えない。たとえ実を結ぶことのない想いだとしても、だ。
 苦笑が、ため息に混じる。

「私は、オトの恩に仇で返した。書簡を彼に宛てた。準備が整い次第、総督としてルシタニアへと赴くようにと」
「総督、ですか」

 ガイウスは、軽く目を瞠る。

「彼は財務官でしょう。随分な出世ではないですか」

 決して、恩を仇で返すなどという所業ではない。続けようとしたのだろうガイウスは、ハッとしたように口を噤む。
 敏いことだ。さすがと感心するのと同時、苦くも思う。
 ルキウスがわざわざ、オトとの関係を話した理由だった。
 オトには恩があり、また、何度も求められたと打ち明けた。なのに遠いルシタニアへの任務に送るのだから、彼の希望とは正反対の結果だった。

 オトがなぜ、犯罪に手を染めてまでルキウスの願いを聞いてくれたかは、わからない。わからないふりを、ずっとしてきた。
 けれど見せつけられた、彼の情を。
 なのに遠ざけることを選んだのだから、裏切りと言われても否定はできない。

「暗い話は、ここまでだ」

 ハッ、と短い嘆息を吐き捨てて、顔を上げる。
 オトという友人を失う代わりを、ガイウスで埋めたい。彼の元を訪れたのはきっと、それくらいの気持ちだった。
 けれど罪を吐き出し、そして想いを自覚して――ようやく、少しは気持ちを整理できた気がする。

皇帝カエサル――」
「それはやめてくれ」

 無理に浮かべた笑みが痛々しくあったのか。ガイウスが発した呼びかけに、頭を振る。

「あなたとはできれば、皇帝も臣下もない、友人として付き合いたい」

 オトとそうであったように。言外の声に、気付かぬガイウスではない。
 もっとも、もっと奥に潜む、本当は友人以上の――などという不埒な感情にまでは思い到らないだろうが。

「しかし、ではなんとお呼びすればよいのか」

 ルキウスの気持ちを汲んでくれたのだろう。戸惑いを見せながらも応じてくれるガイウスに、今度はルキウスの方が黙ってしまう。
 オトは、ネロと呼んでいた。不満に感じたことはないけれど、ルキウスにとってそれは、本当の名前ではなかった。皇帝ネロという、自分の一部分にすぎない。

 ガイウスには、絶対に知られてはならない秘密を除いた「本当の自分」を見てもらいたい。

「ルキウス、と」
「――ルキウス? そう言えば、オクタヴィア様もそう呼んでらしたようですが……」

 ガイウスが首を捻るのは、当然だった。
 ティベリウス・クラウディウス・ネロ・ドルスス・ゲルマニクス。
 養子縁組などのせいでやけに長くなったこの名前のどこにも、ルキウスの文字はない。

「ルキウス・ドミティウス・アヘノバルブス。これが私の――」

 本当の名だ、と言いかけて、口を噤む。意識の中ではその通りなのだけれど、口に出してしまえば「皇帝カエサルネロ」の存在を否定する気がした。

「私の、幼名だ。クラウディウス家に入る前のな。親しい人間には、こちらで呼んでもらっている」

 もっとも、今ではそう呼ぶのはオクタヴィアしかいないけれど。
 なるほど、と笑みを刻んだガイウスに、ルキウスも笑って見せる。

「さぁ、暗い話はここまでだと言っただろう? あなたの話を聞きたい」
「私の?」
「そう。確か、エジプトにも行ったことがあるとか。アレクサンドロス大王の眠る、アレクサンドリアにも?」

 再会した会食の場でも、以降に会った時にも、ルキウスはギリシア文化への興味を語った。
 アレクサンドロスの臣下がエジプトに渡って開いた、プトレマイオス王朝。ヘレニズム文化の象徴たる都市への憧れは、強かった。

「ええ、行きました。大王の墓や――まだ復興途中でしたが、大図書館にも」

 話題を変えたい意図も察してくれたのだろう。ガイウスはそれ以上追及はせずに、話を続ける。
 ユリウス・カエサルの時代に焼けてしまった、アレクサンドリアの大図書館。復興途中とはいえ、壮観だろう。
 世界の七つの景観にも数えられた、大灯台――いずれもルキウスの興味をそそる話題でもある上、ガイウスは話上手でもあった。
 次第にのめりこむように聞き入りながら、それでもどこか、頭の芯が醒めているのも感じる。

 ああ、せめて彼が、他の女性を愛しませんように。

 どの神に頼ればいいのかもわからないまま、ルキウスはそう祈った。
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