背徳者  暴君と呼ばれた皇帝

月島 成生

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第四章

救済

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「――あなたはあの時、私がネロだとは知らなかった」

 問いかけというより、それは断定的な物言いだった。
 ルキウスの名は、決して綺麗なものではない。クラウディウス帝やブリタニクスの死に関わっているとの噂もあれば、アグリッピナの件もある。
 ペトロニウスが話に聞くように、清廉な人物だったとしたら、巷に溢れる「皇帝ネロ」は嫌悪すべき人間ではないのか。

 否、こうして呼び出しに応じてくれた。だから大丈夫だと思う傍らで、今日、誘いに応じたのは「冷血なる皇帝」の不興を買わぬようにするためかもしれない、との可能性も浮かぶ。
 断れば、難癖をつけられるかもしれない。だから招かれれば応じるけれど、報酬を受け取るなど、親密な関係になるつもりはない、周囲にそう見られたくないなどの心理が働いたのではないか。

「あの時――仮に知っていたとして、それでも助けてくれたか」

 ネロだと知らず、善良な一市民が襲われているからと、助けてくれたのかもしれない。もしネロと知っていれば、そのまま死なせたのにと思っているのではないか。

「勿論です」

 愚問だった。皇帝に尋ねられ、否、あなたであれば助けなかった、などと言うはずがない。
 わかっているのに、問いを重ねずにはいられなかった。

「何故だ」
「何故、と言われましても……皇帝をお守りするのは、当然のことでしょう」
「だが知らないとは言わせない。私に関する、悪しき噂を」

 義親殺し、弟殺し、母殺し――ルキウスの背に重くのしかかる、罪。
 真剣さを増したルキウスに対し、ペトロニウスの表情も引き締まる。眉の辺りに訝しげな皺を刻みながら、それでも平然とした調子で口を開いた。

「存じ上げております」
「ではそれが、すべて真実だったとしよう」

 真実の部分もある。そうでない所も。
 だがすべてを事実とし、もっとも忌むべき人間だったと仮定して――その上で、彼の答えが聞きたかった。

「皇帝でもない、ただの犯罪者だったとして、だ。それでもあなたは、私を助けるか」

 助けると、言うはずだった。それ以外の言葉は、今この場にはない。
 まっすぐに見上げるルキウスを見つめ返し、ペトロニウスは軽く嘆息をする。

「――質問の意図を計りかねますが……勿論、助けます」

 当然でしょう? 首を傾げられれば、頷くより他はない。

「けれどそれは、あなたがネロだからでも、あなただからでもない」

 続けられた言葉の、意味がわからなかった。
 皇帝への追従であれば、先程の答えだけで十分である。
 あえて続ける意味が、どこにあるというのか。

「相手が誰であれ、不法に命を狙われていれば助けます。たとえそれが皇帝でも、罪人でも」

 罪人であったとしても、法で裁かれるべきですから。
 真摯な表情と声だった。

 唖然とする。
 これは決して、皇帝へ示される偽りの恭順ではない。ペトロニウスの、清廉な人柄を物語る信念だった。

 この人だ。
 ルキウスは、天啓を得た思いで跪く。

 放浪のオレステスを救った、女神アテネ。その女神の祭りを汚し、見放されたルキウスを救ってくれるのは、この人だったのだ。
 胸が、熱くなる。痛い程の感動が、全身を覆っていた。

「皇帝――?」

 突然皇帝に跪かれれば、困惑するのも無理もない。一歩足を後退させたペトロニウスの手を取り、その甲に口付けを落とした。

「あなたに出会えた幸運を、心より神に感謝する」

 ローマの皇帝が、一臣下にすぎない若者にこれだけの礼を尽くしたことが、かつてあっただろうか。
 形式も、人の目も気にならない。
 ルキウスはただ、この出会ったばかりの青年への感謝と尊敬に、心が満たされるのを感じていた。
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