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第三章
背信
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宴が終わったのは、すでに明け方近い時刻だった。
自分の別荘へと戻るために、船へと乗りこむ。ルキウスはその手を引いて、供をしてくれた。
徹頭徹尾、従順な態度だった。許しを請う顔も、共に盃を重ねる時の笑顔も、まるで幼い頃に時が戻ったようにすら感じられた。
酒に酔わされただけではない。その態度こそが、アグリッピナを幸せに酔わせていた。
船内に用意されていた寝台に、体を横たえる。
夢見心地とは、こういうことを言うのだろうか。
酒でほんのりと重い頭で、考える。
優しい母親ではなかった。そうあろうと思ったこともない。
慕われる必要すらなく、ただ自分を恐れ、言うことを聞く道具に育て上げられればよかった。
――愛情を、抱く気は、更々なかったのだ。
ただの道具にすぎない子供は、都合が悪くなれば捨てる。ずっとそのつもりでやってきたのだし、実際、暗殺計画や失脚させるために画策もした。
けれどやはり、どこかで愛情は芽生えていたのだろうか。
手の中にある髪飾りに、目を落とす。
別れ際、ルキウスに渡された物だ。
「またしばらく、公務にかかりきりになります。そうなればまたいつ、こうやって母上とゆっくりお会いできるかわかりません。なので、どうかこれを」
パチンと、編み込んだ髪を束ねていた飾りを外した。
「母上がお寂しい思いをされないように、これを私だと思い――どうか、私のことを忘れないで下さい」
決して、高価なものではない。また、見覚えがあるのはまだアグリッピナと生活していた頃から使っている物だからだ。
長年使用していれば、多少の痛みはある。それだけにルキウスそのもののように思えて――嬉しくなった。
代わりにと贈ったブレスレットを、遠慮深げに受け取った姿にも、愛しさが込み上げてきた。
くすりと笑う。
権力欲が消えたわけではないけれど、子を愛しむ気持ちが自分にもあったことがおかしい。
もっとも、ルキウスの方もまったくの無計画というわけではなかったのだろう。オトの存在が、如実に物語っていた。
あれほどあからさまに口説き文句を並べられれば、怪しくも思う。醜聞には醜聞を――アグリッピナとオトの間に何かしら画策したことは窺えた。
だがそれが失敗したとわかったのだろう。船への見送りに、オトは連れて来なかった。
計画が失敗したから、アグリッピナの母親としての愛情にすがる方法へと切り替えたのかもしれない。
たとえ始まりは打算の産物だったとしても、関係は変わってくる可能性はあった。
権力だけではなく、人としての幸せもあるかもしれない。
ゆったりとしたまどろみに身を任せようとした刹那、異変は起こった。
響き渡る、轟音。
ハッと目を開けるのと同時、体に激痛が走った。
鉛、だろうか。おそらく元々しかけられていたそれは、高座を押し潰し、アグリッピナの体に覆いかぶさってきている。
肩に傷を受けたものの、動けないほどではない。残骸から這い出して辺りを見渡し――愕然とした。
誰一人としていないのだ。船に乗り込んだ時には確かに居た船長も、奥に下がらせてあった侍女さえも。
酔いは一気に醒め、たちまちのうちに頭の芯が冷えていく。
誰かが、自分を殺そうとしている。
誰かが? 考えるまでもない。答えは、ルキウス以外に考えられなかった。
あれはすべて、演技だったのか。幸福感が強かっただけに、絶望もまた深い。
胸を焦がすのは、怒りか悲しみか。自分でも判別はつかなかった。
わかるのはただ、裏切られた事実だけ。
初めて愛情を自覚した、その瞬間に絶望の淵に叩き落とされた。
「――ふふっ」
泣くこともできなかった。虚しく、笑いが込み上げてくる。
裏切りを、許してはならない。生き延びなければ――生き延びて、復讐の機会を狙うしかない。
痛む肩を庇いながら、体を水中へと滑り込ませた。
岸からはまだ、それほど離れてはいない。泳ぎは得意だから、これくらいの傷ならば恐らく泳ぎ通せるはずだ。
確実な方法ではない。途中で体力を使い果たすことも、充分に考えられた。
だがこのまま残っていても、船と共に海中に飲み込まれるだけだ。そうなれば、船の残骸に阻まれて逃げることはできなくなる。沈む船と心中する気はない。
助かる可能性は、この賭けしかなかった。
アグリッピナの乗った船が沈んでいく。それを見届けるために、ルキウスはまだ浜辺に残っていた。
静かだった。
聞こえるのは波の音と、先ほどから少し勢いを増した風の音。
解かれた髪が、風に踊る。――その頬に、涙が流れていた。
自分が泣くとは思っていなかった。泣けるとも思えなかった。
畏怖し、誰よりも憎いと思っていた母。
それでもやはり、悲しいのだろうか。寂しいのだろうか。
ルキウスが示す親愛に、アグリッピナは応えてくれた。
もしかしたら「皇帝」の機嫌を損ねないことを得策だと考えたのかもしれない。
――否、違う。きっと、そう考えたいだけだ。
もっと早く、演技でもなんでも愛情深く接していれば、この結果を避けられたかもしれない。その可能性を、否定したかった。
こうするしかなかったのだと、思いたい。
またね、ルキウス。
養子に入ってからはずっとネロと呼んでいたのに、別れ際に彼女はそう言った。
酔っていたから、気分が昔に戻っていたのかもしれない。
――幼子に対するように、愛情込めて呼びたかったのかもしれない。
はい母上、また――どうか、お元気で。
そう答えた自分はなんと、酷い人間なのか。これから自分が殺そうとする相手に、お元気で、とは。
自分への嫌悪感で、吐き気すらする。
早く、オクタヴィアに会いたい。
彼女に会って、あの優しさに包まれたい。
逃避に過ぎないことはわかっている。それでもこの場に留まる方が無意味だった。
船の残骸が海中へと完全に飲みこまれる前に、ルキウスは背を向けて逃げ出した。
自分の別荘へと戻るために、船へと乗りこむ。ルキウスはその手を引いて、供をしてくれた。
徹頭徹尾、従順な態度だった。許しを請う顔も、共に盃を重ねる時の笑顔も、まるで幼い頃に時が戻ったようにすら感じられた。
酒に酔わされただけではない。その態度こそが、アグリッピナを幸せに酔わせていた。
船内に用意されていた寝台に、体を横たえる。
夢見心地とは、こういうことを言うのだろうか。
酒でほんのりと重い頭で、考える。
優しい母親ではなかった。そうあろうと思ったこともない。
慕われる必要すらなく、ただ自分を恐れ、言うことを聞く道具に育て上げられればよかった。
――愛情を、抱く気は、更々なかったのだ。
ただの道具にすぎない子供は、都合が悪くなれば捨てる。ずっとそのつもりでやってきたのだし、実際、暗殺計画や失脚させるために画策もした。
けれどやはり、どこかで愛情は芽生えていたのだろうか。
手の中にある髪飾りに、目を落とす。
別れ際、ルキウスに渡された物だ。
「またしばらく、公務にかかりきりになります。そうなればまたいつ、こうやって母上とゆっくりお会いできるかわかりません。なので、どうかこれを」
パチンと、編み込んだ髪を束ねていた飾りを外した。
「母上がお寂しい思いをされないように、これを私だと思い――どうか、私のことを忘れないで下さい」
決して、高価なものではない。また、見覚えがあるのはまだアグリッピナと生活していた頃から使っている物だからだ。
長年使用していれば、多少の痛みはある。それだけにルキウスそのもののように思えて――嬉しくなった。
代わりにと贈ったブレスレットを、遠慮深げに受け取った姿にも、愛しさが込み上げてきた。
くすりと笑う。
権力欲が消えたわけではないけれど、子を愛しむ気持ちが自分にもあったことがおかしい。
もっとも、ルキウスの方もまったくの無計画というわけではなかったのだろう。オトの存在が、如実に物語っていた。
あれほどあからさまに口説き文句を並べられれば、怪しくも思う。醜聞には醜聞を――アグリッピナとオトの間に何かしら画策したことは窺えた。
だがそれが失敗したとわかったのだろう。船への見送りに、オトは連れて来なかった。
計画が失敗したから、アグリッピナの母親としての愛情にすがる方法へと切り替えたのかもしれない。
たとえ始まりは打算の産物だったとしても、関係は変わってくる可能性はあった。
権力だけではなく、人としての幸せもあるかもしれない。
ゆったりとしたまどろみに身を任せようとした刹那、異変は起こった。
響き渡る、轟音。
ハッと目を開けるのと同時、体に激痛が走った。
鉛、だろうか。おそらく元々しかけられていたそれは、高座を押し潰し、アグリッピナの体に覆いかぶさってきている。
肩に傷を受けたものの、動けないほどではない。残骸から這い出して辺りを見渡し――愕然とした。
誰一人としていないのだ。船に乗り込んだ時には確かに居た船長も、奥に下がらせてあった侍女さえも。
酔いは一気に醒め、たちまちのうちに頭の芯が冷えていく。
誰かが、自分を殺そうとしている。
誰かが? 考えるまでもない。答えは、ルキウス以外に考えられなかった。
あれはすべて、演技だったのか。幸福感が強かっただけに、絶望もまた深い。
胸を焦がすのは、怒りか悲しみか。自分でも判別はつかなかった。
わかるのはただ、裏切られた事実だけ。
初めて愛情を自覚した、その瞬間に絶望の淵に叩き落とされた。
「――ふふっ」
泣くこともできなかった。虚しく、笑いが込み上げてくる。
裏切りを、許してはならない。生き延びなければ――生き延びて、復讐の機会を狙うしかない。
痛む肩を庇いながら、体を水中へと滑り込ませた。
岸からはまだ、それほど離れてはいない。泳ぎは得意だから、これくらいの傷ならば恐らく泳ぎ通せるはずだ。
確実な方法ではない。途中で体力を使い果たすことも、充分に考えられた。
だがこのまま残っていても、船と共に海中に飲み込まれるだけだ。そうなれば、船の残骸に阻まれて逃げることはできなくなる。沈む船と心中する気はない。
助かる可能性は、この賭けしかなかった。
アグリッピナの乗った船が沈んでいく。それを見届けるために、ルキウスはまだ浜辺に残っていた。
静かだった。
聞こえるのは波の音と、先ほどから少し勢いを増した風の音。
解かれた髪が、風に踊る。――その頬に、涙が流れていた。
自分が泣くとは思っていなかった。泣けるとも思えなかった。
畏怖し、誰よりも憎いと思っていた母。
それでもやはり、悲しいのだろうか。寂しいのだろうか。
ルキウスが示す親愛に、アグリッピナは応えてくれた。
もしかしたら「皇帝」の機嫌を損ねないことを得策だと考えたのかもしれない。
――否、違う。きっと、そう考えたいだけだ。
もっと早く、演技でもなんでも愛情深く接していれば、この結果を避けられたかもしれない。その可能性を、否定したかった。
こうするしかなかったのだと、思いたい。
またね、ルキウス。
養子に入ってからはずっとネロと呼んでいたのに、別れ際に彼女はそう言った。
酔っていたから、気分が昔に戻っていたのかもしれない。
――幼子に対するように、愛情込めて呼びたかったのかもしれない。
はい母上、また――どうか、お元気で。
そう答えた自分はなんと、酷い人間なのか。これから自分が殺そうとする相手に、お元気で、とは。
自分への嫌悪感で、吐き気すらする。
早く、オクタヴィアに会いたい。
彼女に会って、あの優しさに包まれたい。
逃避に過ぎないことはわかっている。それでもこの場に留まる方が無意味だった。
船の残骸が海中へと完全に飲みこまれる前に、ルキウスは背を向けて逃げ出した。
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