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第三章

和解

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 ルキウスから、ミネルヴァ祭へと誘う書簡が届いたのは、完全な決別としか思えぬ出来事から、数日後のことだった。
 先日の非礼を詫び、自分は生意気だったとか、母の恩を仇で返してしまったとか、反抗が本心ではなかったことを強調する内容に、訝しさを禁じ得ない。

 ただ、アグリッピナの知るルキウスは、賢いけれど気の弱いところがあった。特に母に対しては、臆病ですらあったのも事実である。
 真実に衝撃を受け、反射的に拒絶したけれど、あとで冷静になって考え、恐ろしくなった――十分に、あり得る話だ。

 その上で、ミネルヴァ祭への誘いは、不自然ではない。
 春の誕生を祝うこの祭りは、五日間続く。この間、市民達は仕事を放棄し、家族で賑やかに過ごすのが慣習だった。

 オクタヴィアと婚姻後は、二人で過ごすことが多いようだった。けれど幼い頃はいつも、アグリッピナと共に祝っていた。
 和解を望むのに、思い出あるこの祭りの日を選ぶのは、納得できるものだった。

 行ってみようかしら。

 ふと、笑みがこぼれる。
 確かにルキウスは、道具に等しかった。それでも、腹を痛めて産んだ子供であることも、変わりなかった。幼子の成長に喜んだ記憶も、ある。
 信用しすぎるつもりはない。けれどルキウスが、本当に和解したいと思っているのならば、アグリッピナにとっても好機ではあるのだ。

 ――何より、この世にたった二人きり、実の母子なのだから。

 わずかに残った人間らしい感情が、アグリッピナの猜疑心に目隠しをした。



 夜更けの、静かな海。
 浜辺に立ち、素晴らしい星空を見上げながら、ルキウスは小さく息を吐く。
 とうとう、この時がやってきた。浮かんでくる妙な感慨に、憂鬱を禁じ得なかった。

 オクタヴィアには、さすがに疑われた。バイアエまで一緒にやってきておいて、彼女を別荘に残し、わざわざオトの元へ行くと言ったのだから。

「母上と、仲違いをしてしまったことは話しただろう? この祭祀を、仲直りの機会にしたいということも。本当は二人きりで話したいところだけど、それではまた、互いに感情的になる可能性がある」

 考えていた言い訳に、オクタヴィアは首肯する。

「だから、第三者のオトに仲介してもらおうと思ってね。それでも、険悪になってしまうこともあり得る。そうなってはまた、君を悩ませてしまうし、何より――君は、オトに会いたくないだろう?」

 オクタヴィアとオトが顔を合わせたのは、一度きりだった。その、たった一度の会見でさえオクタヴィアには苦痛に見えた。
 ルキウスとしても、二人が合うとは思えない。――それを、利用する。

「そういうことなら、仕方がないのかしら。気遣ってくれて、ありがとう」

 感謝の言葉が、胸に痛い。結局は、騙しているのだから。
 だからこそ、知られてはいけない。クラウディウス帝とブリタニクス殺害の犯人がアグリッピナだと――自分の、企ても。

 送り出してくれたオクタヴィアの笑顔を思い出すとなお、欝々とした気分になる。
 もうすぐ、アグリッピナがやってくる。
 時は待ってくれない。気持ちを整理できぬままではあったがもう、舞台の幕が上がる。
 ルキウスにとって、一世一代の大芝居が始まるのだ。

 両手で一度、パチンと顔を挟んで気合を入れる。下船しようとしていたアグリッピナに近づくと、その体を抱くようにして浜辺へと下ろした。その足元に跪き、彼女の手を取って口付ける。

「よくおいで下さいました。心より、お礼申し上げる」

 ちらりと上げた目で、アグリッピナの反応を確かめる。
 疑心は、あるのだろう。だがルキウスの挨拶には、気を良くした様子が窺えた。口元に、妖艶な笑みが浮いている。

「こちらこそ。招待してくれてありがとう」
「では先日の非礼、お許し頂けるのか」

 返事は、笑顔と首肯だった。
 打算の産物である可能性は高く、本気で許したのかはわからない。
 だが、今はこれで十分だった。安堵の表情を返し、アグリッピナの手を引いたまま、オトの別荘へと案内する。
 そこにはすでに花が飾られ、饗宴の準備が整っていた。ルキウスはアグリッピナを上座に据え、自分はその足元に座った。
 そう、幼い子どもの頃と同じように。
 驚きの中に、満足気な様子が見て取れる。

 ルキウスはずっと、アグリッピナにとって従順な道具だった。
 その、道具が戻ってきた。
 アグリッピナはきっと、そう思ったことだろう。思ってもらわなければ、始まらない。

 用意した食事はすべて、アグリッピナの好物ばかりだった。しかも、彼女が用意した毒見係よりも先に、ルキウス自ら食してみせる。
 当然、毒など仕込んではいない。彼女が食事前に、解毒剤を飲むのを習慣としていることは、幼い頃から共に過ごしたのだから、知っている。
 そもそも、毒殺はアグリッピナの常套手段だ。自らの得意とすることへの対抗策をとらぬほど、彼女は甘くない。

「母上、どうぞ」

 食事があらかた終わり、果物や甘い菓子が運ばれてくる。デザートが出るのを待って、本格的な酒宴が始まるのがローマの慣習だった。
 自ら、アグリッピナの杯に酒を注ぐ。度の強いワインを、飲みやすいように蜂蜜で割った。
 ルキウスは酒に強い。オトも同じだ。どれだけ飲んでも、酔い潰れたことはなかった。
 アグリッピナは違う。弱くはないが、二人と比べるまでもない。

 ほろ酔いになってきた頃を見計らって、彼女にオトを近づけさせた。
 オトは、ルキウスも認める美貌の持ち主だった。しかも口がうまく、天性の女たらしである。アグリッピナさえ落とせる可能性は、あった。
 なんと美しい、次は二人きりでお会いしたい、これほどまでに焦がれさせるとは罪な人だ――歯が浮くような台詞を、アグリッピナの耳元で囁いている。

 彼女が本気にしていないのは、見て取れた。くすくすと笑いながら適当に躱している。
 もっとも、自分の美貌に自信のあるアグリッピナのこと。女心をくすぐられ、自意識も刺激され、気をよくしているのは明らかだった。

 そこにつけこんでまた、酒を飲ませる。
 毒も、薬も必要はない。酒で狂わせればいいだけだ。
 オトを使って骨抜きにする、醜聞をまき散らす――どちらでも良かったのかもしれない。

 手を汚させるオトには、報酬を与えなければならないだろうけれど。
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