背徳者  暴君と呼ばれた皇帝

月島 成生

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第二章

オト

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 マルクス・サルヴィウス・オト。
 出会う前から、その名は知っていた。
 ローマに住む上層階級の者ならば、誰であれ知っているはずだ。

 有名なならず者として。

 父は現役の元老院議員で、尊敬を集めている人物である。けれど息子は夜な夜な遊び歩き、その悪事によって顰蹙を買っているというのは周知の事実だった。
 つい最近でも、辛うじて中年と呼べる高齢な女性の情夫となって、周囲を呆れさせた。
 もっとも、その女性は宮廷で重要な地位を占めており、事実、彼女のとりなしでこうやってルキウスと出会った。

 これが狙いだったのか。
 心の中で苦笑する。皇帝を仲間に引き入れれば、地位や金を得るだけではなく、悪事への寛容な対応も望めるだろう。

「あなたの父上のことは知っている。立派な方だ。あなたにも一度、会ってみたいと思っていた」

 にこやかな挨拶は、社交辞令以外の何物でもなかった。
 我ながら、白々しいことだ。口の端に浮かんだ笑みに、自嘲が混じる。

「光栄です。ローマの新しき神、皇帝カエサルネロにお目にかかることができただけではなく、そのようなお言葉まで頂けるとは」

 返礼は、思っていたよりもずっと、丁寧なものだった。
 思わず、目を上げる。
 聞き知ったオトという男は、ならず者の長だ。けれど今、目の前にいるのは、洗練された優雅さを備えた、極めて美貌の青年だった。
 その、日に焼けた逞しい顔を少し見上げて、胸が不意に高鳴るのを感じていた。

 仲介をした女性を下がらせたのは、オトに対する興味だった。少し、二人で話してみたい。趣味人であれば、話も合うかもしれなかった。
 ルキウスはきっと、友人が欲しかったのだと思う。

 もちろんオクタヴィアは大事な友だ。だが彼女は、潔癖なまでに清廉だった。本来ならばルキウスの秘密を、罪として糾弾するはずだ。
 それを許し、共に守ってくれるようになったのはブリタニクスのことがあったからに他ならない。
 他者への告発など心配してはいないけれど、どうしても彼女に対して負い目を感じてしまうのは当然だった。
 そのようなしがらみのない友人が――とくに、ルキウスの知らない市民の生活や遊びを熟知した友人は、重宝するはずだ。

 時は夜。会食の場を抜け出していたルキウスを捕まえての紹介だった。だから女性がいなくなった今、広い庭園にルキウスとオト、二人きりとなる。
 手近にあった長椅子に腰かけ、オトを隣に促した。

「やはり堅苦しいのは性に合わねぇな」

 勧めに応じて腰を下ろしながら、オトはニヤリと唇を歪める。
 突然の、豹変だった。
 声や姿が変わったわけではない。話し方と表情が変わっただけである。
 それなのに、まるで別人を見るかのような思いだった。

「お前も内心ではそう思ってんだろ?」
「否、私は――」
「おれの噂の一つや二つ、知らないとは言わせないぜ?」

 皇帝になってから――否、そもそも高貴な生まれであるルキウスは、「お前」などと呼ばれたことはなかった。
 横柄な態度と乱暴な言葉使いに、驚きはするものの嫌悪感はない。口にした社交辞令が白々しいものだった自覚があるだけに、苦笑しか返せない。

「確かに」
「その上で人払いってことは、満更ではないということか」

 呟かれた言葉に、眉をひそめる。
 何が満更ではないというのか。怪訝に思いながら見上げる先で、オトが笑みを刻んでいる。

「どうした? 一体何を――」

 不必要に身を寄せてくるオトから、距離をとろうとする。だがその分オトは近付いてきて、ルキウスの肩に手を伸ばしてきた。
 肩を掴まれ、頬を押さえられ、振り払おうとした時にはもう、すぐ目の前に彼の唇があった。

 何が起こったのか、一瞬理解できなかった。
 ルキウスは、男として過ごしている。なのに何故、オトに唇を奪われる事態になっているのか。

 ただただ、混乱していた。
 それ以上に、おぞましかった。
 頬や額に口付けるのは、親愛を示すためによく行われる。より以上に愛情を確かめられるはずの唇への接吻が、これほどまでに気持ちが悪いとは、思ってもいなかった。

 オトの手が、胸に伸びてくるのがわかった時、ルキウスはようやく我に返った。同時に、固く握った拳を、彼の水月に叩きこむ。

「――っ!?」

 驚きのためか痛みのせいか、オトの身体がわずかに跳ねる。それをそのまま押し返して、勢いよく立ち上がった。

「無礼な……!」

 口元を拭い、吐き捨てる。
 威勢のいい言葉とは裏腹に、実際は冷や汗を禁じ得なかった。

 もしかしたら、女であることが知れらたのかもしれない。
 秘密を知られたのならば、放っておくことはできない。ブリタニクスの死という代償を払ってまで手に入れた、皇帝の地位だ。失うわけにはいかなかった。
 そのためならば、罪を犯すことも辞さない。

「思った通りだ。お前、男を知らないだろう」

 不敵に笑うオトが発した言葉に、身を竦ませる。
 男を知らない、それは事実だ。だがそのようなことを、男相手に言うはずもない。

 ならばやはり、女だと知っているのか。

 オト一人を始末するだけで済むとは思えない。他にも知っている者がいないか、調べる必要がある。

「いや、男だけではない。女も、オクタヴィアだけだろう」

 倒された姿勢のまま、それでも余裕の笑みを崩しもしないオトが口にしたのは、不思議なことだった。
 彼がルキウスを女だと知っているのなら、オクタヴィアを抱けないことは承知のはずだ。その上で何故――
 考え、ふと、可能性に気付く。

「お前――同性愛者か」
「別に、男が好きなわけではないな」

 立ち上がり、服についた埃をはたく。そんな、無様なはずの仕草でさえ、妙に絵になる男だった。

「男だろうが女だろうが、関係ない。自分の好みにさえ合っていれば、な」

 返答は、ルキウスを安堵させるものだった。
 この時代、とくに上層階級において男色は決して、珍しいものではなかった。オトもまた、そういった類の人間であるというだけだ。
 覚悟はしていても、殺人を犯したいわけがない。できるなら避けたい手段だった。
 罪を犯さずに済むのであれば、当然安堵する。だが、あからさまにそれを見せて隙を作る必要はない。他者には冷たく映るであろう笑みを、意識して作る。

「残念ながら、私にその気はない」
「なに、おれと付き合っていれば、自然とその気になってくる」

 どこからくる自信なのか、やはり笑みを刻んだままに宣言するオトを、面白いと思ってしまった。
 周囲には、優秀だが頭の固い大人しかいなかった。このような男が傍にいてくれれば、きっと退屈せずにすむ。
 認識がないわけではなかった。この好奇心は、危険な賭けであると。

 ローマにおいて、市民の意見は最優先事項である。その市民を敵に回したが故、伯父のカリグラは暗殺された。
 カリグラだけではない。ルキウスにとって祖先、あの英雄ユリウス・カエサルですらその悲劇を免れなかった。
 自分だけが、幸運な例外者となれる保証は、ない。

 とはいえ、ルキウスの人気は現在、不動であるのは事実だ。市民優先の政治を続ける限り、多少のことは許されるであろう。
 ブリタニクス――義弟殺害よりも重い罪は、そうそうにはない。
 なにより、オトの悪評があまりに高くなった時には、切り捨てればいいだけだ。

「いいだろう。お前を財務官に任命する。私の公務室への出入りも許そう」

 一瞥への反応は、軽い口笛だった。
 元老院議員である父の元で何不自由なく育った彼は、二十一歳になった今でも職に就かず、遊び歩いていた。
 財務官というのは、地位としては高くもないけれど、公職であることに違いはない。
 その上、皇帝の公務室への出入りまで許すのは、言外に側近にすると言ったようなものだった。

 オトの狙いは、「皇帝ネロ」に取り入っての出世だろう。絆をより深くさせるために、体の関係も望んだのではないか。
 ならばこの財務官就任は、おそらく期待以上の結果のはずだ。
 だが人間は欲深い。オトのような男は、より顕著にその傾向にある。さらに地位や権力を求め、ルキウスの寵愛を手に入れようとするのではないか。

「口説けるものなら、口説いてみるといい。だが、今のような力に物を言わせた場合は、その命、ないと思え」

 オトがそう簡単に諦めるとは思えない。だとすれば、釘を刺しておく必要があった。
 求めるものが権力であるならば、命を失いかねない危険な真似をするはずがない。

 ルキウスにとって、軽い遊びのつもりだった。飽きたらすぐにでもやめる。
 だから気付いていなかった。この時すでに、自分があの無礼な男に惹かれ始めていたことに。
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