背徳者  暴君と呼ばれた皇帝

月島 成生

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第二章

善政

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 ブリタニクス暗殺の犯人は、皇帝カエサルネロである。
 ルキウスの想いなど知らぬ市民は皆、その噂を鵜呑みにした。
 実際、もっとも疑わしき人物はルキウスなのだ。否定など、ただ虚しいだけだった。

 意外だったのは、異論を唱える者がいないことである。
 皇帝派の人間が――たとえ実際に手を下したのであったとしても、評価が下がるのを防ぐために別の噂を流すだろうと思っていた。

 だがそういったことはなく、ローマ市民の間ではルキウス犯人説が定着してしまった。
 なのに誰も、ルキウスを追求しない。
 ブリタニクス派の元老院たちでさえ、泣き寝入りを決め込んだようだ。

 おそらくは、皇帝ネロの人気の高さゆえに。

 市民たちの反応は、いたって冷静なものだった。上層階級の、血で血を洗う争いなど、今に始まったことではない。
 兄弟殺しと言っても、そもそもローマ建国の祖、ロムルスとて弟レムルスを殺して、初代王となったのだ。
 自分たちの、平穏な生活さえ守ってくれればいい。
 市民にとっての皇帝とは、所詮その程度だった。

 ルキウスの、皇帝としての評価は高かった。善政を行い、人々の英雄となった初代皇帝、アウグストゥスをすら超える勢いである。
 もちろん、美貌のおかげもあるだろう。ローマ市民に限らず、民衆とは見目麗しい者を好む傾向にある。
 だがそれだけではない。ルキウスが目指す、透明な政治体制に、市民は好感を寄せていた。

 以前の裁判は、裁判官や皇帝の懐に金を流し込み、判断を曲げてしまうことが多々あった。ルキウスが尊敬する、あの優しいクラウディウス帝も例外ではない。
 しかし、ルキウスはそれをよしとしなかった。寄贈される金品はすべて拒否し、より事件を知るために詳細まで調べ上げた。
 また、弁護人や検察官が一方的に話さないよう、それぞれが交互に主張を述べあうシステムも作り上げた。
 そのせいで手続きは面倒になったが、おかげで内容は異論をはさむ余地がないほど、鮮明になった。財産を没収するために仕立て上げられた、裕福な無実の罪人を多く救うことができるようになったのだ。

 なにより、ルキウスは貧しい者の悲惨に目を向けた、初めての皇帝だった。
 貧しい者から吸い取って、豊かな者を更に肥えさせる税金体勢に、どうしても納得できなかったのだ。

 ローマは、一部の貴族を富ませるための国家ではない。
 では、どうするべきか。
 思い悩み、まずは税制を廃することができないかと考えた。
 もっとも、さすがにそれはすぐに断念する。国家として成り立たないからだ。
 次に考えたのは、ある一定の線を引き、それより下の者からは税金を取り立てないやり方だった。
 いずれ、皆がある程度の稼ぎを維持できるようになってから、それぞれが苦にならぬほどの税を課せばいい。

 これは、妙案に思えた。
 だがいくら皇帝と言えど、一人で法を改定するわけにはいかない。元老院の、過半数の賛成が必要だった。
 そしてその、元老院議員こそ「一部の貴族」なのである。自らに不利な法案に賛成するなど、あり得なかった。

 そう結論した時、ルキウスは皇帝という仕事の限界を感じずにはいられなかった。
 とはいえ、できることがないわけではない。
 思い直すと、国庫ではなく、自らの金庫を解放し、貧民たちに無料で食料を配布した。

 ネロ。
 サビナ語で「力と正義」を意味するこの名は、ルキウスの統治をもっとも顕著に表していた。

 そのネロが犯した、自分の身を守るために犯した、一つの殺人。
 市民たちにとってはそれを糾弾するより、皇帝を褒め称えることの方が、有益だったのだ。

 ブリタニクスの死を除けば、ルキウスは公私ともに充実していた。
 否、それさえも、オクタヴィアとの絆という、かけがえのないものを与えてくれた。

 ふと、思い出す。ブリタニクスを失い、途方に暮れたあの夜のことを。
 同じように――血を分けた弟だ、ルキウスよりももっと辛かったはずのオクタヴィアは、それでもルキウスを慰めてくれた。
 彼女の腕に抱かれ、その柔らかさと暖かさに触れ、涙が止められなくなった。

 不思議だった。
 ブリタニクスの死がどうしようもなく辛いのに、涙と共に少しずつ心が晴れていった。
 世の中に、あれほど幸せな瞬間があるのだと、ルキウスは今まで知らなかった。

 以来、ルキウスは精神的にオクタヴィアを頼り続けている。守ってあげているのだと思いたいが、支えられていることを否定できなかった。
 この幸せが、いつまでも続くものと思いこんでいた節がある。

 ――不幸の種は、いつでもすぐ近くに潜んでいるというのに。
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