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第一章
死
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私的な会見を終えた、翌日の夕方。
会食の場で、共同統治を発表しようと臥台から腰を浮かしたときに、それは起こった。
鈍い音と共に、ブリタニクスが床に倒れる。
口から溢れ出した血液が、床に円を描いて、みるみるうちに広がっていった。
場は騒然とした。ただ、愕然と立ち尽くす。駆け寄ろうにも、床に足が貼りついたように動けなかった。
ブリタニクスは、毒を盛られた。
居合わせた者は皆、ブリタニクスとルキウスの顔を見比べている。
犯人は、ルキウス。
周囲がそう思うだけの材料は、揃っていた。ブリタニクスが生きていて困るのは――彼が死んで最も利を得るのは、ルキウスだった。
ブリタニクス派による皇帝暗殺の噂も聞こえ始めていた。この時期に彼が倒れれば、ルキウスとて一番に皇帝を疑うだろう。
「――義兄上」
普段はまだ、他の子ども達と車座になって座っていたブリタニクスを、共同統治を告げるためにルキウスの臥台近くに座らせていた。
その場で倒れ込んだまま、呻くような声でルキウスを呼ぶ。
逃げ出したい。
怖かったのだ。
彼にとって、ルキウスは裏切者だろう。
生命の危機に瀕した今、ブリタニクスはどのような呪詛を浴びせかけるつもりなのか。
「――お約束したこと……僕はもう、守れそうもありません」
苦しげな声が洩らしたのは、呪詛とは程遠いものだった。
この状況においても、ブリタニクスはルキウスを信用しているというのか。
信じられない思いで、彼を見た。そのときまた、ごぶりと血の塊が唇から溢れてくる。
震える手を伸ばしてきたブリタニクスの姿に、ようやく我に返った。すぐさま屈みこみ、彼を抱き起す。
「ブリタニクス……これは……」
私の仕業ではない。そのような白々しい台詞を吐けるほど、厚顔無恥になれなかった。
そもそも、誰がやったとて同じことなのだ。ブリタニクスが命を長らえることは、不可能。他者によって、無念の死を強いられることに変わりはなかった。
「でも――そのお気持ちだけで、僕は――……」
「嫌だ……君がいなくなっては。頼む、私を一人にしないでくれ」
声が、震える。涙など、流す資格はない。
たとえ唯一友と呼べる存在を失くすのだとしても――ブリタニクスを死に追いやったのは、間違いなくルキウスなのだから。
「義兄上は、一人ではありません」
ほんのわずか、ほころばせたブリタニクスの口の端からまた、血液が流れ落ちる。
「お願いです、姉上を――姉上は、あなたを本当に慕っています。どうか、幸せに――」
毒殺される我が身より、姉を心配するというのか。
胸が、痛い。
ブリタニクスの次は、オクタヴィアの命が狙われる可能性は、あった。だからこそルキウスの情に訴え、彼女の身を守りたいと思っているのだろう。
死にゆくブリタニクスの、最後の願いだ。叶えられるものならば、叶えたい。
けれど、到底できそうにはなかった。
あるとすれば、ただ一つ。
「――約束する。君の、姉上だ。必ず、守ってみせる」
共同統治の夢を――約束を、守れなかった。だから、この約束だけは必ず守る。
オクタヴィアを、死なせない。
決意を見て取ったのだろうか。苦しげな中にも、ブリタニクスの表情に喜色が浮かんだ気がした。
「――ありがとう……」
ブリタニクスに声はなかった。かすかに唇が震え、ルキウスの目にそう映っただけだった。
それとほぼ同時、彼は激しく咳き込んだ。濡れた音がしてまた、ブリタニクスの口を、顔を鮮血が染める。
抱えた手の中で、ブリタニクスの身体は少しずつ、体温を失っていく――重くなっていく。
これが、人の死。
ルキウスは初めて、死というものを実感した。
会食の場で、共同統治を発表しようと臥台から腰を浮かしたときに、それは起こった。
鈍い音と共に、ブリタニクスが床に倒れる。
口から溢れ出した血液が、床に円を描いて、みるみるうちに広がっていった。
場は騒然とした。ただ、愕然と立ち尽くす。駆け寄ろうにも、床に足が貼りついたように動けなかった。
ブリタニクスは、毒を盛られた。
居合わせた者は皆、ブリタニクスとルキウスの顔を見比べている。
犯人は、ルキウス。
周囲がそう思うだけの材料は、揃っていた。ブリタニクスが生きていて困るのは――彼が死んで最も利を得るのは、ルキウスだった。
ブリタニクス派による皇帝暗殺の噂も聞こえ始めていた。この時期に彼が倒れれば、ルキウスとて一番に皇帝を疑うだろう。
「――義兄上」
普段はまだ、他の子ども達と車座になって座っていたブリタニクスを、共同統治を告げるためにルキウスの臥台近くに座らせていた。
その場で倒れ込んだまま、呻くような声でルキウスを呼ぶ。
逃げ出したい。
怖かったのだ。
彼にとって、ルキウスは裏切者だろう。
生命の危機に瀕した今、ブリタニクスはどのような呪詛を浴びせかけるつもりなのか。
「――お約束したこと……僕はもう、守れそうもありません」
苦しげな声が洩らしたのは、呪詛とは程遠いものだった。
この状況においても、ブリタニクスはルキウスを信用しているというのか。
信じられない思いで、彼を見た。そのときまた、ごぶりと血の塊が唇から溢れてくる。
震える手を伸ばしてきたブリタニクスの姿に、ようやく我に返った。すぐさま屈みこみ、彼を抱き起す。
「ブリタニクス……これは……」
私の仕業ではない。そのような白々しい台詞を吐けるほど、厚顔無恥になれなかった。
そもそも、誰がやったとて同じことなのだ。ブリタニクスが命を長らえることは、不可能。他者によって、無念の死を強いられることに変わりはなかった。
「でも――そのお気持ちだけで、僕は――……」
「嫌だ……君がいなくなっては。頼む、私を一人にしないでくれ」
声が、震える。涙など、流す資格はない。
たとえ唯一友と呼べる存在を失くすのだとしても――ブリタニクスを死に追いやったのは、間違いなくルキウスなのだから。
「義兄上は、一人ではありません」
ほんのわずか、ほころばせたブリタニクスの口の端からまた、血液が流れ落ちる。
「お願いです、姉上を――姉上は、あなたを本当に慕っています。どうか、幸せに――」
毒殺される我が身より、姉を心配するというのか。
胸が、痛い。
ブリタニクスの次は、オクタヴィアの命が狙われる可能性は、あった。だからこそルキウスの情に訴え、彼女の身を守りたいと思っているのだろう。
死にゆくブリタニクスの、最後の願いだ。叶えられるものならば、叶えたい。
けれど、到底できそうにはなかった。
あるとすれば、ただ一つ。
「――約束する。君の、姉上だ。必ず、守ってみせる」
共同統治の夢を――約束を、守れなかった。だから、この約束だけは必ず守る。
オクタヴィアを、死なせない。
決意を見て取ったのだろうか。苦しげな中にも、ブリタニクスの表情に喜色が浮かんだ気がした。
「――ありがとう……」
ブリタニクスに声はなかった。かすかに唇が震え、ルキウスの目にそう映っただけだった。
それとほぼ同時、彼は激しく咳き込んだ。濡れた音がしてまた、ブリタニクスの口を、顔を鮮血が染める。
抱えた手の中で、ブリタニクスの身体は少しずつ、体温を失っていく――重くなっていく。
これが、人の死。
ルキウスは初めて、死というものを実感した。
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