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第一章

ブリタニクス

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 ローマは平和だった。
 半世紀前まで盛んだった内乱も、今では落ち着いている。
 だがおそらくは、ルキウスの若さと無経験を侮ったのだろう。今までローマとの均衡を保っていたアルメニアの地に、パルティア人が攻め入ってきた。

 そもそもこのアルメニアは、曰く付きの土地だった。
 ローマと同じくアルメニアを欲していたパルティア人との抗争は、時の英雄、クラッススの死より一世紀も続いてきたのだ。
 ただ、初代皇帝となったアウグストゥスは、この強敵を討ち果たすのを困難と考え、譲歩することを発表した。
 そのとき以来、アルメニアはローマとパルティア、二つの大国に狙われながらも、その国々の協定によってなんとか独立を保ってきたのである。

 しかしパルティアは、その協定を破った。政治の汚さに、ルキウスは辟易する。
 先人たちの残した約束とはいえ、約束には違いない。それを武力でごり押ししようなどとは。

 怒りを感じていたルキウスは、アルメニア王ラダミストゥスが援助を求めてきたとき、即座に受託し、準備に取り掛かった。
 だが援軍を送り出す前に、パルティア人に追われたラダミストゥス王が自らの国を逃げ出したという知らせが入る。
 そしてパルティア王ヴォロゲセスは、弟、ティリダテスをアルメニア王に据えてしまった。

 ルキウスは、反撃を決意した。軍団司令官の中でもっとも有能だと言われていたコルブロをパルティアに派遣する。
 とはいえ、コルブロをもってしてもパルティアを破ることはできないだろう。裏切り行為に怒りを燃やしながらも、ルキウスの冷静な部分はそう判断してもいた。

 あの賢明なる初代皇帝、アウグストゥスや、その副官であるアグリッパでも陥落できなかった敵を打ち倒すことができると考えられるほど、ルキウスは甘くない。
 ましてコルブロは有能だが、彼は戦ではなく、政治の駆け引きにこそ長けた男。先代の皇帝たちがそうしてきたように、なにかしらの協定を勝ち取ってくるだろう。

 そう、狙いは最初から休戦条約を取り付けることにあった。

 コルブロであれば、うまくやってくれる。そのために、パルティア戦線におけるすべての権利を、彼に与えていた。
 アルメニアの件は、決して小事ではない。ただ、ローマにおいて片づけなければならない問題はさらに、重要だった。

 前皇帝クラウディウスの実子、ブリタニクス。
 正統な後継者である彼を、皇帝の位につけようという動きが、元老院の一部で持ち上がっているのだ。

 ブリタニクスの正統性は、疑うべくもない。そもそも自分の即位が不当であることは承知している。あと数カ月で元服を迎え、成人したブリタニクスに帝位を譲るべきだと訴えられれば、無下にできるわけがない。
 なにより、ブリタニクスは多少体が弱くはあるが、それを補って余りあるほど、聡明な少年だった。一国の支配者としての素質は、充分にある。

 だが、それでは自分はどうなる?
 望んだわけではない。けれど現に皇帝となっているのは、ルキウスだった。
 ほんの数カ月、最短統治期間の皇帝。
 そのような不名誉な名を、歴史に刻まれるのか。
 幼い頃から母に皇帝学を叩きこまれたルキウスにとって、この屈辱には到底耐えられるはずもなかった。

 あるいは、最初から皇帝になどならなければ――そうすれば、まったく別の人生を歩んで行けたかもしれないのに。

 今更言っても仕方のない恨み言も、浮かぶ。
 頭を振って弱気を追い出し、それでもまた散々悩んで、ルキウスはついに、決意した。
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