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第六章
3.烈牙
しおりを挟むすぅっと目を開ける。靄がかかったように、視界がぼやけていた。
パチパチと幾度か瞬きをくり返し、ようやくはっきりと見えたその目前に、悠哉の笑顔があった。
「ったく、気味の悪い猫なで声出してんじゃねぇよ」
自分の口調で話すも、耳に聞こえるのは胡桃の声だった。どうしようもないこととはいえ、違和感は拭えない。
「胡桃ちゃんも聞いていたんだ。仕方がない」
にっこりと浮かんでいた笑みが消え、草薙に似た表情が浮かび上がる。
「しかし、これは一体どういうことだ?」
悠哉が自分の顔の横でひらひらと振るのは、烈牙が昼間潰した、例の物体だった。目で克海を指し示しながら、フフンと鼻先で笑ってやる。
「ちょっとそいつを、脅してやろうと思ってな。力を見せつければ、離れてくれるんじゃねぇかと――」
「そうじゃない。そもそも、どうしてこんな芸当ができるんだと訊いている」
「お前だってできるだろ?」
「できるか阿呆」
きょとんとして問うと、眉間にしわを寄せた悠哉に一蹴される。
「元々、腕力ならお前の方が上だったんだ。今より強かったはずの当時でさえ、できたかどうか」
イラついているのか、困っているのか。悠哉は左手で、バサバサと髪をかく。
「多重人格の場合、潜在能力を引き出す形で、本人なら無理なことを別人格がやってのけることはある。だが、それにしても異常だ。胡桃ちゃんの筋力に鑑みて、彼女の全力、百パーセントでやったとしても、できることじゃない」
「難しいことたらたら言われても、よくわかんねぇよ」
考えをまとめるための、独り言に近かったのかもしれないが、聞いている方としてはうんざりだった。
頭の後ろで、腕を組む。
「でも、強いんだからよくないか? 非力になるよりゃいいだろ」
「無責任なこと言うなよ」
強くなることが問題とは思えない。
気楽に言ってのけたのが気に入らなかったのか、克海がムッとして言った。
「やっぱり不思議だ。――正直信じがたかったけど、二人が前世からの知り合いだってことはわかった。でないと話が通じない。悠兄の態度も、あまりに合致する二人の話も。だけど」
顔を顰めた克海が一旦区切り、さらに険しい顔つきになる。
「だからこそ、不思議なんだ。さっき悠兄は、そいつのこと弱者には優しいとか繊細だとか、庇うようなこと言ってたけど、おれには短慮にしか思えない」
投げつけられた言葉に、ちらりと悠哉を見る。悠哉の方も、わずかに苦味を含んだ視線を、こちらに向けていた。
短慮だ考えなしだとは、生きていた頃、よく草薙に言われた台詞だった。
行いを振り返れば自覚がないとは言えず、また、言っていた覚えがあるはずの悠哉も、いたずらっぽく笑うしかできなかったのだろう。
「別に庇ったつもりはないんだけどな」
本当のことだから。苦笑まじりに呟く悠哉に、克海はそれでも納得できない顔だった。
「そいつの舌先三寸に騙されてるだけじゃないの? 悠兄だって覚えてるだろ、広瀬の首の傷。あれだって、そいつがやったんじゃないのか」
「なっ――」
絶句も数瞬、我に返ると声を荒げた。
「ふざけるな! おれがこいつを傷つけただと!? そんな男だと思って――って、あ……」
殴りかかる勢いで身を乗り出し、拳を胸の前で握りしめてふと気づく。
胡桃の中に、烈牙という人格が――自分がいることは、普通ではない。
正体不明の男がいて、理由がわからない怪我がある。その状況を考えれば、不審な男へ疑いがかかるのも、無理からぬことだった。
だからか。
納得せざるを得ない。そう疑っていたから、烈牙を非難していたのだ。
胡桃の身を、案じるからこそ。
――見ている限り、克海の言動は初めから胡桃を思いやるものだった。
彼をよく思えないのは偏見のせいだと自覚があるだけに、二の句が継げなくなる。
どうしても、印象がかぶるのだ。元凶になったと思われる、あの男に――
「克海」
たしなめるように名を呼ぶも、悠哉の声に険しさはない。口を閉じた烈牙と、そんな烈牙を睨む克海を交互に見やって、くすりと笑う。
「粗野な言動のせいで、お前が誤解するのは無理もないが、さっきも言った通り、意外にも正義漢なんだ。間違っても、意図的に女子供を害する男じゃない」
こんな、無条件に褒めるようなことを言うから、騙されているだの庇っているだのと思われるのだ。
照れ臭さにも似た居心地の悪さに、眉をしかめる。
「じゃあ、他の誰が広瀬にケガをさせたんだ? ……っていうか、広瀬の中に何人いるの」
悠哉に反抗する気はないのか、とりあえず矛を収める。ただ納得できていないのを隠す気もないようで、むーっと顔を顰めていた。
困った表情を浮かべていた悠哉が、ん? と反応する。
「何人って……お前以外にも誰かいるのか?」
「いんや。おれだけだぜ」
質問は、烈牙に向けられたものだった。ひょいっと肩を竦めて見せる。
すべてをはっきり覚えているわけではないが、蓮や他の時代の記憶はあった。
それがあるということは、分離した別の人格として、彼らが存在していないことを示しているのだと思う。
「そんなわけないだろ。やたらと器用に料理してた人と、中村を助けた人、あと一昨日ケーキ食べてた子と……」
「――悪かったな。そりゃ全部おれだ」
「胡桃ではない」ときを正確に見抜いていたのには驚いたが、それぞれ別の人格だと思っていたとは。
烈牙は当時から、無骨に見られがちではあったが、実は手先が器用だった。針仕事や炊事場の女たちを手伝っては、男のクセにと呆れられたものだ。
加えて、酒も飲むが甘い物にも目がなかった。一昨日にここで出されたケーキも、初めて経験した甘味のおいしさに、感動した。
そのせいで少しはしゃぎ過ぎてしまったので、子供かなにかと誤解されたのかもしれない。
烈牙を悪人だと決めつけているから、胡桃の友人を守った人物からも除外したのだろうが――思うほどに、苦笑する。
烈牙も大概よくわからない性格だと言われていたが、克海もなかなかのものだ。
お前のことを教えてほしいと頼んできた真摯な態度、烈牙の話を鵜呑みにした素直さ、なのに疑い深さまで持っている。
単純なのに、疑心も強い。特徴があの男と重なって、わずかに辟易とした。
「えっ、でもあまりにも印象が――」
「だから言っただろう。烈は多面的だと」
この態度だから疑いたくなる気持ちもわかるけど、と悠哉がこちらにいたずらな目を向ける。
「胡桃ちゃんの怪我は――たぶん、霊の仕業だろう?」
胡桃の中の人格が烈牙だけだとわかったところで悠哉が口にしたのは、克海が発したもう一つの問いかけへの答えだった。
「霊って……」
今まで悠哉には決して向けなかった、うさん臭いものを見る目だった。
過去の記憶を取り戻すまで、悠哉は心霊現象はもちろん、輪廻転生すら否定する立場をとっていた。
克海を見ている限りでは合理主義らしく、おそらくは悠哉の影響だろう。その悠哉が語る怪異など、悪い冗談としか思えなくても無理はない。
後ろめたい気持ちでもあるのか、申し訳なさそうな顔になっている。
「実は、な。烈の時代、おれは陰陽師みたいなものだったんだ」
「陰陽寮の? でも、だからって神秘主義には直結しないだろ」
「いや、違うんだ。確かに陰陽寮は科学や心理学のエキスパートだったが、『破邪の力』をもって、鬼や物の怪を払う部署も、実在したんだ」
マジか。
呟く克海の顔から、面白いくらいに血の気が引いている。
「それに言っただろう、みたいなものだと。おれは陰陽寮に属していたわけじゃない。陰陽寮に入ることができるのは、家柄もいいごく一部のエリートだけだ。陰陽の術を学びながら、そのエリートコースに乗れなかった連中はどうなると思う?」
「どうって……」
「ノラ陰陽師だな」
答えが出てこないと踏んで代わりに言ってやると、言葉のチョイスはともかくそれだな、と眉を歪めて笑う。
「学んだ技術は、人に伝えたいと思うだろう? 親類や我が子には、特にだ。そうやってできた集落が代々続き、特殊能力の集団――いわゆる『忍び』と呼ばれる者たちになった」
すべてがそういうわけではないが。つけ加える悠哉に、可哀想になるくらい、克海の表情が情けないものになる。
「忍者ってこと? 伊賀とか甲賀とかいう……」
「まぁ、そうなるかな。おれたちのはそんな、有名な流派じゃなかったけど」
愕然とした克海の視線に、悠哉は微妙な笑みを刻みながら、説明を続ける。
「烈は自らの肉体を使った実戦部隊で、おれは正統とは違う道を進んで発展した、陰陽の術を使う裏方だったんだ」
「――」
言葉を失う気持ちは、理解できなくもなかった。なにせ生前の烈牙こそ、ガチガチの合理主義者だったのだから。
忍術は、一般的には不可思議な力だと思われている。
だがそうではない。薬物などの科学的な知識と、極限まで鍛えられた肉体との、複合の産物だ。
そのからくりを知っているからこそ、草薙たちが使う不思議な力も、ずっと裏があるのだと思っていた。
物の怪はまだ、存在を納得できる。獣の延長線だと考えていたから。
ただ、人間の霊などはまったく信じていなかった。人間は死んだらそれまでだ。
――それまでで、あってほしかった。
幽鬼として彷徨うのも、まして転生などして生き直すのも、まっぴらごめんだった。
まさか自分がこんなことになるとは、夢にも思っていなかったけれど。
「まぁ、とにかく、だ。霊は存在する。物の怪の類もな。一般人には見えないが、けっこう普通にいるぞ」
「――悠兄にも見えるの?」
「当時は見えてたな。じゃなきゃ、仕事にならない」
当然だと、肩を竦める。
「草薙――烈の時代のおれは、もともと能力を買われてその部門に引き抜かれたんだしな。今は、まぁなにかがいそうな気がする、といった程度しかわからない」
「今のところは、だろ」
きちんと座っているのにも疲れて、背もたれにゆったりと身を沈める。ついでに、大きな動作で足を組んだ。
「草薙の記憶が戻るまではどうせ、気配を感じても気のせいだって済ませてたんだろ? それを次からきちんと認識するようになるはずだ。記憶と共に基本能力も戻ってるみてぇだから、これからは徐々に『力』は強くなると思うぜ」
「だろうな。まだ当時みたいに、自在に操るとまではいかないだろうが。――と、それで思い出した。頼んだ物は持ってきてくれたか?」
「おう」
最後は烈牙に向けられた質問だった。横に置いていた胡桃のカバンを、膝元に引き寄せて開ける。
胡桃が住んでいる家の倉庫にあった、呪術書。それと一緒に、烈牙から胡桃に宛てた手紙も悠哉に渡した。
「酷いんだぜ、こいつら。なにかの記号だ暗号だ、胡桃に至っては呪いのお札、だぜ?」
拗ねた口ぶりで訴えるも、悠哉は同意する代わりに、ぷーっと派手に吹き出した。
「いや、これは仕方ないだろ。変な記号にしか見えない文字もあるし。――克海」
なんだと、と烈牙が気色ばむよりも早く、悠哉が笑い含みの声で続ける。
「こいつは昔から字が下手なんだ。しかも、やたらと癖が強い。おれはその癖を知っているから解読できるが……普通の人間には、まず読めないな」
「――なんだ。本当に下手なだけだったんだ」
脱力する克海に、悠哉はくすくすと笑う。
「書いてある内容は、まぁ要約すると、これらの本を持っておれのとこへ行くようにっていう、胡桃ちゃんへの伝言だな」
「あ、そのことなんだけどよ」
な? と同意を求められて、不意に思い出す。
「おれとこいつ、交信できるようにならねぇか? おれは中にいても、気を張ってりゃ周りの様子がなんとなくわかるんだけどよ。こいつはまるっきり覚えてないみたいでな。おまけに、意思の疎通が取れないんじゃ、不便で仕方ねぇ。手紙で伝えようとしても、読めないみたいだしな」
「なるほどな」
唇を尖らせて主張すると、悠哉が軽く笑った。
「気持ちはわかるんだが、たぶん無理だ」
「――へ?」
これでなんとかなる。
ホッとしただけに、完全に予想外の答えだった。
思わず、間の抜けた声が洩れる。
「烈、お前はおそらく『核』だと思う。多重人格における、主人格以外の中では最も力が強く、全体を見通せる存在だな。たとえこの先、胡桃ちゃんの中に他の別人格が生まれたとしても、主導権はお前が持つことになるだろう」
別に、主導権なんてほしくない。
というよりもそれは、当人である胡桃が持つべきではないのだろうか。
「通常、別人格同士は交流できないが、『核』だけは他の人格との対話をもてる。要するに調停役だな。だが、主人格とだけは対話ができない」
「なんでできねぇんだ?」
「なんでって言われてもな。調べた限りの症例では、そうなってる。精神世界の中で直接出会ってしまうと、負担が重すぎるのではないか、とは言われているが……」
「うーん、おっかしいなぁ」
大きく足を組み変えながら、首を捻る。
「さっきな、おれが出てくるときなんだけどよ。こいつ、おれの声が聞こえてたみたいなんだよな」
「――え?」
「でなきゃ、なんでこんな声が聞こえるの、とは考えないだろ」
あのときだけではない。
克海と胡桃が話しているときに、「近づくな」や「偽善者が」と思わず吐き捨てた烈牙の声に、たしかに反応していた。
また、烈牙の声が聞こえるのを、なんで、と考えた胡桃の思考、その声が烈牙に届いたのも事実だ。
互いの声が聞こえたのだから、うまくすれば交流もできるはずだと思ったのだけれど。
口元に手を当てた悠哉が、ふむ、と小さく唸る。
「前世であるお前が別人格として現れたり、あの尋常じゃない腕力だったり……他の症例と異なることが多いのも、確かだな。だとすれば、もしかしたら交信できる可能性はあるか――」
「試してみる価値はあるだろ?」
異例づくしだからこそ、可能性はある。
「よし、じゃあやってみるか。烈、目を瞑って」
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