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第三十六話 「オレステス」という人物(オレスティア視点)

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 ――見てしまった。

 人間の身体でいる以上、生理現象には逆らえない。仕方がないのだと思いこもうとする一方で、どうしたって羞恥心を覚えずにはいられなかった。
 また、不可抗力とはいえ「見られてしまったオレステス」への罪悪感もあり、いたたまれない。

「おかえりなさい。――ものすごーく暗い顔ね」

 とぼとぼと部屋に戻ってきたオレスティアに、ルシアは微苦笑まじりで言った。
 オレスティアがずーんと沈みこんでいる理由を、彼女が知らないわけがない。感謝してもしきれないほどに感謝の念は抱いているけれど、それとこれとは話が別だ。恨みがましさを捨てきれず、つい愚痴が洩れる。

「――もう、お嫁に行けない」

 両手で顔を覆う。
 元々はお嫁に行きたくなくて悩んでいたはずだが、それは決して「キズモノ」になってでも阻止したい類ではなかった。
 いや、男の下半身を仕方なく見てしまったくらいでは「キズモノ」などと思う必要もないのか。初めての経験に、戸惑いは隠しきれないけれど。

「そりゃあまぁ、オレステスの姿ではお嫁にはいけないでしょうねぇ」

 手伝ってくれなかったルシアへの皮肉もこめていたつもりだったのに、当の彼女はからからと楽しそうに笑っている。

「元に戻って、もし仮に嫁ぎ先がなくなっちゃったらその『オレステス』にもらってもらえばいいんじゃない? 責任を取る、みたいな形でさ」

 冗談に冗談を重ねるルシア。
 いや、笑いながらではあるが、実はけっこう本気なのだろうか? そうだそれがいい、と頷く様子に、ふっとオレスティアは素に戻る。

「いえ、でもそのようなことは……」
「ああ、さすがに侯爵令嬢と一介の冒険者じゃ釣り合わないか? 認めてもらえるはずないかしらね」
「えっ、いえ……」
「まぁ、そのときには連れて逃げてもらいなさいよ。それくらいの甲斐性、彼ならあると思うわ」

 冗談から始まった話だけれど、ルシアは筋道立てて、理路整然と語り始める。
 だがオレスティアが気にしているのはそういう点ではなかった。

「そうではなくて――でも、私にそのようなことを仰るというのは、本当にルシアさんはオレステスさんとは恋人じゃないのですか?」
「まだ言うか」

 問題の本質を口にすると、ルシアの目がじとっと据わる。

「大体、なんでそんな勘違いしてるのよ?」
「だって、こうやってひとつの部屋を取っていらっしゃるし」
「節約よ。お金を稼ぐために依頼をこなしているのに、わざわざ必要のない経費を使うなんてもったいないじゃない」
「でも危険ではありませんか? 恋人ならともかく、そうではない男女がひとつの部屋で寝起きするなど――」
「ああ、なるほどね。でもそんな心配はいらないわ」

 ルシアの肩が、ひょいっと竦められる。
 可愛い仕草に忘れそうになっていたけれど、そういえば彼女は魔法が使えたはずだ。それも、ひとりでトロルを倒せるくらいの実力があるのだという。
 ならば仮に襲われそうになったとしても魔法で撃退できる、そういう意味だろうか。

「『その人』、間違っても嫌がる女をどうこうする人じゃないもの」

 ルシアはつん、と人差し指で「オレステス」の胸をつつく。

「あたしがその気にならない限りあたしとその人が、なんてことには絶対ならないから」

 あっさり言い放つルシアを、きょとんと見返す。その視線が面白かったのか、彼女の顔に滲んだ笑みにはいたずらな色が浮いていた。

「そしてもし万が一あたしがその気になったんだとしたら、そうなってもあたしにとってはなんの問題もないしね」

 パチンと茶目っ気のあるウィンクが可愛かった。

 ということはやはり、そうなってもいいくらいにはオレステスを気に入っている、ということではないのか。
 そう思ったのが伝わったか、ルシアがくすくすと笑い出す。

「まぁあたしの理想は、シュッとしたキレイ系の王子様だから、まるっきりタイプも違うオレステスを好きになるなんてありえないけどね。――けど、なんだろうこの違和感。『オレステス』相手に女子トークをする日がくるとは思ってもなかったわ」

 オレスティアもオレステスのやたらとごつい体格を見下ろして、「たしかにそうだろうな」と納得すると同時に苦笑した。
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