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第二十八話 お母様なんて呼び名は双方ともにごめんだ
しおりを挟む聞こえたのは、扉の開く音。
続く足音は、カツカツと響きはするが重さはない。男ではなく、女だ。
ネラが部屋に戻って来ないオレスティアを呼びに来たのだろうか。
――いや、違う。侍女があんな、足音が響くような靴を履いているわけがない。ならば――
「今更?」
机に突っ伏すオレステスの頭上に降ってきたのは、侯爵夫人の嘲笑だった。
侯爵も嫌いだが、この女はもっといけ好かないんだよな。オレスティアに嫌がらせしてた張本人だし。
憂鬱な気分になりながら、そっと顔を上げる。
「もう随分前に諦めたと思っていたのに――往生際の悪い。嫁がされるからと、今更悪あがきなの?」
侯爵夫人の目は、オレステスが乱雑に散らばしたままの本に向かっている。
よくわからないまま、魔法に関係のありそうな本を選んでいたから、魔法を覚えようとしていると勘違いされたのかもしれない。
それにしても。
侯爵夫人は、「今更悪あがき」や「随分前に諦めたと思っていた」と言っていた。
ならばオレスティアはやはり、魔力や魔法について調べていたのだろう。
――おそらくはこの女や父親から与えられる、絶望の中で。
心が――感情が、すん、と冷めた。
「悪あがき、とは?」
「魔法が使えるようになったら嫁がずにすむ、出て行かずにすむとでも思っているのでしょうけど」
無駄なことよ。
嘲り笑いながらの台詞に、なに言ってんだ、と胸中で毒づく。
オレスティアは、むさい大男である辺境伯を怖がっていた、とアレクサンドルが言っていた。百歩譲ってそんな男に嫁ぐのは、嫌だったかもしれない。
だがオレステスの感情から言えば、こんなところは早く出て行ってやりたいし、なんならその嫌っているはずの辺境伯のところの方がまだしもマシなのではないかとすら思えている。
「あら、まさかそんな。もし仮に魔法が使えるようになって、お父様たちに引き留められたとしても出て行くつもりですから」
「そんな負け惜しみを――」
「負け惜しみなんかじゃありませんよ?」
忌々し気に呟く侯爵夫人に、オレステスはにっこり笑って見せる。
「だからご安心ください、お母様」
「お母様だなんて呼ばないで!」
美しい顔を見せつけるように微笑むと、急に侯爵夫人に怒鳴られた。
なんだ、ヒステリックなオバハンだな。荒くれ者同士が殴り合い、怒鳴り合いする場面ですら見慣れているオレステスにとって、金切り声を上げる中年女など恐ろしくもなんともなかった。
――なのに、体がビクリと竦む。
オレステスではない。オレスティアの体が、恐れたのだ。
「本当に可愛げのない――この、悪魔の子が!」
侯爵夫人が、大きく右手を振り上げる。
拳ではない。平手打ちだ。
振り下ろされたそれを、左の内受けで止める。造作もないことだ。
その状態のまま顔をぐっと近づけて、口の端を歪ませて笑って見せた。
「そうやって子供の頃から殴ってきたのかよ、ババア」
オレステスは知らない。けれどオレスティアの体が反射的に怯えた、それが答えだ。
いくら継子とはいえ、幼い子供に手を上げる大人など許せない。
そもそも満足に食事を与えないことも、ありえなかった。
経済状況の厳しさからならば、仕方ない面もあるだろう。だがそうではないのに、嫌がらせ、いじめのために行うなど、言語道断だ。
――そう。目の前の女はそれを平然とやってのけた、人非人なのだ。
口元には笑みを、目には憎悪を乗せて、侯爵夫人を睨みつける。
ババアなどと罵られたのはおそらく、生まれて初めてなのではないか。侯爵夫人の顔が、みるみる怒りで真っ赤に染まった。
「なっ――!」
怒りに我を忘れたのか、ただ単純に懲りないのか、学習能力もないのか。
再度、侯爵夫人の手が振り上げられた。
もちろん、先程のように受け止めるのも、避けるのも、なんなら反撃すら、オレスティアの体でも容易だった。
――けれど。
反射的に避けてしまいそうになるのを堪えて、オレステスは侯爵夫人の平手を甘んじて頬で受けた。
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