フロイドの鍵

守 秀斗

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第1話:貧民休息所

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 夕食は、申し訳程度のジャガイモが薄くスライスされて入っている塩味のスープが一皿とパン一切れのみ。それでも温かい料理にありつけるだけましだ。長机が何台か並んでいる大部屋の隅っこで食事をとる。部屋はみすぼらしい服装の男女で満員だが、誰も喋るものはおらず、お互い視線を合わせることもない。スプーンとお皿が触れあう音が部屋の中に空しく響くだけだ。ミルドレッドは食べ終わると食器を返す際に係の男性に頼んだ。

「明日は早朝に仕事があるので、朝食用に何か食べ物が余ってないでしょうか」
「そうだね。パンくらいしかないなあ」
「それでかまいません。それから、もしよろしければ飲める水もいただきたいのですが、だめでしょうか」
「申し訳ないが飲料水は貴重品だから、差しあげることはできませんね」

 結局、余ったパンを一切れ貰って、ミルドレッドは一階の大部屋の端にある二階へ通じる階段を上った。カバンの中の水筒の中を確認してみる。まだ、一日分は残っている。ここら辺一帯の井戸の水は、工場から川へ流れ出る廃水が地中に浸み込んで、土がすっかり汚れてしまったため飲料水には向いていない。今や、飲料水は上流から湧き出るきれいな水を採取して販売している「水売り」業者から購入するしかなくなってしまった。その飲料水は貧乏人にとってはかなりの高級品だ。水が高いものだから、大人はその代わりに安い蒸留酒を飲んでしまう。そのため、路上にはアルコール依存症の浮浪者が大勢いて、その人たちは働くことが出来なくなり、物乞いで暮らすしかない状況だ。

 二階建ての建物。名称は貧民休息所。この建物は篤志家が無料で貸してくれているもので教会が管理している。一階の大部屋は全員の食事が終わり次第、簡易ベッドが並べられ男性用の寝室となり、二階には女性専用の寝室がある。食事代も含めて全て無料だ。

 ミルドレッドが女性用寝室の部屋の入口の前に近づくと教会が雇った警備員がいた。この男とは顔見知りだ。元警察官らしく、がっしりとした体格をしている。初めて会ったとき、ミルドレッドは部屋に入るのを止められた。ズボンを履いて髪も短かったから男性と間違えられたからだ。以前、不届き者が忍び込んできて女性を乱暴しようとした事件があったので、警備員を雇うことにしたらしい。

 ミルドレッドは今日も黒いジャケットに黒いズボン姿だったが、さすがにもう止められることはなかった。警備員の男に軽く会釈して中に入ると、入口近くの受付でにこやかに微笑んで座っている修道女から毛布を受け取る。早めに来たつもりだったが部屋の中はほぼ満員だった。

 薄汚く、ひび割れの多い壁に囲まれた部屋。そこにはいくつか安っぽい二段ベッドが置いてある。元は物置だったらしく、暖炉が無い。そのため、真ん中には達磨ストーブが置いてあり、ほんの少し暖かい。ミルドレッドは部屋の中を見回したが、空いていたのは窓際のベッドだけだった。まだ十一月だが、今年は例年になくすでに真冬のように寒い日が続いている。窓際は外気が伝わってきて寒い。ミルドレッドは受付の修道女に頼んだ。

「毛布をもう一枚貸してほしいんですが」
「大変申し訳ありませんが、もう他の方に貸してしまってありません」

 修道女がすまなそうな顔で答えた。仕方がなく達磨ストーブの前でしばらく体を温めた後、ミルドレッドは窓際のすっかり冷たくなっている二段ベッドの上段に梯子を使って上り、ベッドの上に寝転ぶと持っていたカバンを盗まれないよう枕にした。下段のベッドにはぼろ切れみたいな格好の老婆が寝ている。

 水滴で曇った窓を手で拭いて外を見るとガス灯の光の下、売春婦たちが路上で客引きをしているのが見えた。黒いフロックコートに黒いズボン姿の背の高い男に声をかけている。この寒さの中、あんな商売はしたくない。それに、この数か月、売春婦がナイフで刺し殺される事件が多発している。同一人物の犯行だとも、それぞれ別に犯人がいるのではとか巷では大騒ぎだ。警察が必死に捜査しているがいまだに犯人は捕まらない。

 ただ、売春なんてしたくてもこの顔じゃあ、商売にならないともミルドレッドは思った。ミルドレッドの顔には生まれつきアザがある。その紫色のアザは左目辺りを周辺に顔面を三分の一ほど覆っている。以前は、恥ずかしくて黒い髪の毛を伸ばして隠していたが、今は、開き直って堂々と見せている。他人からじろじろと見られるのも慣れてしまった。切った髪の毛は売っぱらってお金に替えた。

 冷たいベッドに横たわり、毛布をひっかぶった。寒くて体が震えてくる。体を丸めて冷たさをしのぐ。こんな生活をいつまで続けていくのだろうか。いずれは野垂れ死にか。あまり先のことは考えたくない。

 ブリタニア王国。首都のローディニアの隣のエンフィールド市。この国で産業革命なるものが始まって以来、都市部には工場が次々と建設され、農村から都市へ移住する者が増えた。しかし、それらの者たちは低賃金で早朝から深夜に至るまで働かされる始末。そして、人口が爆発的に増加し失業者が増えた結果、犯罪が頻繁に起こり、元々悪かった治安がさらに悪化するようになった。警察はてんてこ舞いの状況だ。

 明日は早いのでさっさと寝たいのだが寒くてなかなか眠れない。達磨ストーブの方は燃料節約のためか消されたようだ。部屋の中はまだランプが灯っている。ミルドレッドがうつらうつらとしていると、下のベッドからうめき声がかすかに聞こえてきた。

「……水、水がほしい……」

 下段のベッドで寝ていたお婆さんがうめいている。しかし、周りの連中は寝ているのか、またはわずらわしいのかわからないが無視している。面倒だと思ったがうめき声がうるさい。ミルドレッドは梯子を下りて水筒の水を蓋一杯分お婆さんにあげることにした。この水はお金を出して買ったものだが、お婆さんは辛そうな感じなので、仕方がないとも思った。この都市の汚染された井戸の水を飲むとお腹をこわしてしまう場合が多い。下に降りると、ベッドで横になっているお婆さんにミルドレッドは水の入った蓋を差し出した。

「お婆さん、この水はきれいだから飲めるわ」
「……ああ、ありがとうね」

 老婆が手を差し出す。その手は震えている。人間は、皆、年を取るとこうなってしまうのか。いや、若い連中でも人生に絶望して酒におぼれて野垂れ死にする者もいる。知り合いにも一人いた。ミルドレッドはその知り合いの若い男を思い出して暗い気分になった。

 ミルドレッドからもらった水を飲み終わったその老婆は一息ついた感じで言った。

「すまないねえ、お嬢さん」
「お婆さん、大丈夫ですか」
「だいぶ気分が良くなったよ。あんたはやさしい娘さんだね。それにとてもきれいな顔をしている。美しい心が美しさを顔に現すんだね」

 あたしの顔のどこがきれいなんだとミルドレッドは少しむっとしたが、老婆の瞳をよく見ると、片目が完全に緑色だ。これは確か緑内障ってやつだ。おそらく全く見えないんだろう。そして、もう片方は白く濁っている。こちらは白内障か。お年寄りがよくかかる病気だ。このお婆さんはかなり目が悪いんだろうとミルドレッドは思った。今言ったことはお世辞だろう。もしかしたら、もうほとんどぼんやりとしか、周りが見えないのかもしれない。そう考えていると、老婆が何やら髪飾りをミルドレッドに差し出した。

「お礼にこの髪飾りをやるよ。ここに来る途中、近道するため橋の下を歩いていたら上から落ちてきたんだよ。その時、変な声が聞こえたんで思わず見上げたんだけどさ」
「変な声って何ですか」
「『私は知らないわ!』とか女の人が叫んでたみたいだけど。でも、何も見えなかったよ。まあ、空耳かもしれない。もう、あたしも耳の方もだいぶ悪くなってきたからねえ。この髪飾りはそのままいただいちまった。けど、婆さんのあたしには髪の毛に飾りなんてもんはもう必要ないからね」

 その髪飾りは少し錆びた鉄製の黒い色をした髪留めだった。全体的に鍵のような複雑な装飾がついてる。変わってるけどけっこうおしゃれな髪留めだとミルドレッドは思った。それにだいぶ髪の毛が伸びてきたので、前髪をまとめるのに便利かと思い、彼女は老婆からその髪飾りを受け取った。そして、老婆が両手を擦りながら、窓から外を見て言った。

「外はすごく寒そうだねえ。この部屋で眠れるだけましだよ。教会の人たちには感謝しなきゃいけないねえ」

 ミルドレッドも外を見た。売春婦たちはいなくなったようだが、あの黒いフロックコートに黒いズボン姿の背の高い男はまだガス灯の下に立っている。顔はマフラーで覆っているので見えない。こんな夜中に誰と待ち合わせをしているのだろうかとミルドレッドが思った、その時、男がこっちを向いたような気がした。そして、その後、男は急に歩いてどこかへ行ってしまった。老婆はまた毛布の中に潜り込んだ。その後、修道女がランプを消しに部屋の中に入って来た。

 あの男は、この寒い夜に、いったい何をしていたんだろうとミルドレッドは思ったが、まあ、自分には関係ないだろとベッドの上段へ戻ることにした。
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